同じ机
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それでは、どうぞお楽しみください。
『あなたの字は、右へ傾きます』
朝の鐘が鳴り終わった頃、シグが言った。
俺は記録帳を膝の上に広げ、昨夜の最後の行を読み返していた。読みながら考えていたのは、字のことではなかった。
聖都の執行者は、もうこの城塞へ向かう道の上にいる。着く前に決めておくことが2つあった。ミアにいつ会うかと、声のことを言うかどうかだ。
「昨夜のは、傾いてない」
『床の石の上で書いたからです。膝の上で書いた頁ほど、傾きが大きくなります。奈落で書いた頁の中では、第12層の石の台の上で書いた頁が、いちばん傾いていません』
「平らなところで書けと言ってるのか」
『提案です。あなたの字を後で読むのは、あなたか、ミアです。読みやすい方がよいと推定します』
昨夜、俺が言ったことだった。シグは、それを覚えていた。覚えているのが仕事なのだから、当然だった。
水門小屋の中を見回した。平らなものは、ほとんどなかった。水門の輪、錆びた軸、腐りかけた扉。床の落ちた穴の縁に、はがれた床板が1枚、斜めに立てかけてあった。
俺はその板を持ち上げた。長さは俺の腕2本分ほど。片方の端が腐って柔らかいが、真ん中は硬かった。
「これでいい」
石段の脇から、手頃な石を4つ運んだ。2つずつ重ねて床の乾いた隅に並べ、その上に板を渡した。板は少しだけ傾いていたが、石を1つ入れ替えると、傾きが消えた。膝をついて座ると、板の高さはちょうど胸の下に来た。
シグが、三脚で板の反対側まで歩いてきた。接続棒で板の縁を2度叩き、単眼を俺の方へ向けた。
『机ですか』
「机だ」
『私は、この机のどこにいればよいですか』
「そっち側だ。向かいでいい」
シグは、板の向こう側で脚をたたんだ。単眼の高さが、ちょうど俺の胸のあたりに来た。
向かい合って座るのは、初めてではなかった。奈落の石室でも、第12層の菌床のそばでも、シグは俺の前にいた。それでも、間に板が1枚あるだけで、何かが違った。
「養護院にも、こういう机があった」
気づくと、口に出していた。
『どこにですか』
「厨房の奥だ。昼の片づけが終わると、そこだけ空く。ミアはそこで、俺に字を教えた」
『向かい合って、ですか』
「隣だ。向かいだと、字が逆さに見えるって言って、隣に座った」
石板の代わりに、灰を薄く敷いた盆を使った。ミアが先に指で書き、俺が隣で同じ字を書く。書き終わると、ミアが盆を揺すって灰を平らにした。
「違う、そこは払うの」
ミアはそう言った。何度も言った。払うところで止めて、止めるところで払う俺の指を、横から押さえて直した。
言葉は、全部覚えていた。盆の縁の欠けも、灰の匂いが服に移ったことも覚えていた。
ただ、「違う、そこは払うの」と言ったミアの声が、どんな声だったのかは分からなかった。
『レイ』
シグの声で、灰の盆が消えた。
「何だ」
『今、あなたは37秒、黙っていました』
「数えるな」
『数えるのが、私の仕事です』
「知ってる」
俺は炭筆を取り、板の上に記録帳を置いた。膝の上より、ずっと書きやすかった。
「お前の仕事の話をする」
『はい』
「奈落では、お前は何を記録してた」
『日数。負傷。水と食料の量。能力値。討伐した魔物。通った道。あなたが失ったもの。あなたが言ったこと、決めたことです』
「地上でも、同じでいいのか」
シグは少し黙った。
『同じでは足りないと推定します。地上には、人がいます』
『人の記録を、どう取ればよいか分かりません』
シグは続けた。
『奈落では、あなたと私のほかに、話す者はほとんどいませんでした。地上では、多くの人が、あなたについて話します。宿場の台所。鉱石置き場。兵舎。村。話す内容は、場所ごとに違います』
「噂だ」
『噂は、記録するべきですか』
「噂は書くな。見たものだけ書け」
『噂を記録しないと、噂が変わったことが分かりません』
俺は、炭筆を指の間で回した。回したつもりが、少し強く挟んで、炭の先が欠けた。
シグの言うことは、間違っていなかった。宿場では、俺は骨も残っていない小僧だった。鉱石置き場では、話に出なかった。酒場では、頭巾の男だ。
どれも、俺が何をしたかとは関係なく変わった。
「なら、噂は噂と書け。誰が、どこで言ったかも」
『見たことと、聞いたことを分けて記録します』
「それでいい」
『もう1つ、分けるものがあります』
「何だ」
『人が言ったことと、人がしたことです。小隊長は、倒したのが誰でも構わないと言いました。ですが、部屋には入りませんでした』
俺は、板の上の欠けた炭を見た。
「……それも分けろ。したことの方を、先に書け」
『記録しました』
「それから、人の名前だ」
俺は記録帳の新しい頁を開いた。
「俺が生きてると知ってる者を書く」
炭筆の欠けた先で、1人ずつ書いた。ヴァルター・ゲルン、エイベル・ローデン、小隊長、伝令の年配の兵、東の通用門の番兵。昨夜の兵4人、北の村の男の子とその母親、窓板の隙間の目。そこまで書いて、手が止まった。
「名前を知らない奴の方が多いな」
『名前を知らない人物は、特徴で記録します。私の方では、すでにそうしています』
「炭運びの爺さんは」
『白髪。ラバ。胸の前で円を描く。わし、あんた』
「それで分かるのか」
『あなたなら分かると推定します』
俺は少しだけ笑った。笑ったつもりだった。
最後に、1つ書き足した。ミア・ベル。
その横に、何も書けなかった。知っているのか、知らないのか。ミアは、俺が生きていると知らない。知らないまま、毎晩、西を見ている。
『ミアのことを、聞いてもよいですか』
シグが言った。単眼の光が、板の上の名前の横で止まっていた。
「聞け」
『いつ、会いますか』
俺は、すぐには答えなかった。
「執行者が来てからだ」
『理由を記録します』
「今会えば、あいつは帰ってきた空の器に会った娘になる。執行者が来る前にそうなったら、一番最初に使われる。来てから、そいつが何をするのかを見る。見てから決める」
『執行者は、最短で2日後に着く見込みです。7日のうち、5日が過ぎました』
「分かってる」
『来た後に、会う機会がなくなる可能性もあります』
「それも分かってる」
シグは、それ以上その話を続けなかった。単眼の光が、少しだけ下がった。
『もう1つ、確認が必要です』
「何だ」
『あなたは、ミアの声を覚えていません。会ったとき、それを伝えますか』
床板の下で、水の音が大きくなった気がした。実際には何も変わっていなかった。
「……言ったら、あいつは泣くか、怒る」
『どちらだと推定しますか』
「両方だ。先に怒る」
『言わなかった場合は』
「あいつは、俺が覚えてるつもりで話す。昔の話をする。あのとき、こう言ったでしょう、って言う」
『あなたは、言葉は覚えています』
「言葉はな」
俺は記録帳を最初の頁まで戻した。
『あなたの名前はレイ・クロウ。』
濃い筆跡だった。少し右上がりで、最後の丸だけ大きい。
「字なら分かる。あいつの字だ。どこで見ても分かる」
『声は』
「分からない」
それだけ言うのに、ずいぶん時間がかかった気がした。シグは、今度は時間を言わなかった。
『私も、ミアの声を知りません』
しばらくして、シグが言った。
『私が起動したのは、あなたが落とされてから後です。私の記録の中に、ミアの声はありません。あなたが話したミアの言葉と、この帳面の字だけです』
「そうだな」
『会ったとき、私がミアの声を記録することはできます。ですが、それは会った日の声です。あなたが失った声ではありません』
「分かってる」
『比べるものがないので、同じかどうかも言えません』
「分かってるって言ってる」
声が少し硬くなった。シグの単眼が、ほんのわずかに後ろへ下がった。俺は息を吐いた。
「悪い」
『謝罪は必要ありません。事実を並べただけです』
「知ってる。お前が正しいから、腹が立つんだ」
『記録しますか』
「するな」
『しません』
俺は、記録帳を閉じた。閉じた表紙の黒い布を、指でなぞった。端がすり切れて、糸が1本出ていた。
伝えるかどうか。今、ここで決めても意味がない気がした。
ミアがどんな顔で俺を見るのか。最初に何を言うのか。泣くのか、怒るのか、それとも黙るのか。何も分からないまま決めた答えは、会った瞬間にきっと変わる。
「会ってから考える」
俺は言った。シグの単眼が、ゆっくり1度明滅した。
『それは、決めていないということですか』
「決めた。会ってから考えると、決めた」
『決定として記録してよいですか』
「いい」
『記録しました。「ミアに声のことを伝えるかどうかは、会ってから考える」』
シグは、俺の言葉を1字も変えずに繰り返した。
日没の前に、年配の伝令兵が包みを置いていった。黒パンが4つ。干し肉が1本。兵は何も言わず、石段の途中で包みを置き、そのまま戻っていった。
俺は黒パンを半分にちぎり、机の上に置いた。反対側に、シグの単眼があった。シグは食べない。それでも、なぜか半分を向こう側へ押していた。
『それは、私の分ですか』
「違う。……置き場所を間違えた」
『では、あなたの分として記録します』
俺はもう1度記録帳を開き、今日の日付を書いた。
『落下から推定346日。水門小屋に机を作った。床板1枚と石4つ』
『シグは、見たことと聞いたこと、言ったこととしたことを分けて記録する』
『ミアには、執行者が来てから会う。声のことは、会ってから考える』
『1年まで、あと19日』
板の上で書いた字は、傾いていなかった。最初の頁の後ろには、まだ白い頁が何十枚も残っていた。帰ってきたら続きを書く、とミアは言った。
続きを書くのは、この机でいい。そう思った。
次にこの机で書く行には、たぶん、聖都から来る者の名前が入る。




