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奈落の臭い

ご覧いただきありがとうございます!

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それでは、どうぞお楽しみください。

日没の鐘が鳴り終わると、水門小屋の扉が2度叩かれた。


開けると、年配の兵が1人立っていた。背は低く、腰に短い剣を下げている。俺の顔を見ても、表情を変えなかった。


「閣下から」


兵は、布の包みを2つ床へ置いた。1つには黒パンが4つと干し肉が1本。もう1つには、灰色の外套(がいとう)と、古い革の靴が入っていた。


「靴は兵の払い下げだ。大きかったら、布を詰めろ」


「分かった」


「東の通用門で、小隊長が待ってる。北の村だ」


兵はそれだけ言って、振り返らずに戻っていった。


床の包みを見下ろした。ヴァルターとの取引の、最初の夜だった。黙っていてもらう分と、黒パンと靴の分だけ、俺は兵の前で魔物を倒す。


顔は隠せ、とヴァルターは言った。兵の中に、黒淵(こくえん)へ俺を引いていった者がいないとは限らない。生贄(いけにえ)が帰ってきたと広まれば、城塞の中が割れる。


俺は足の布を解き、靴に足を入れた。少し大きかった。布を巻き直してから履くと、ちょうどよくなった。


踏みしめると、石の床の冷たさが遠くなった。奈落(ならく)へ落とされてから1年近く、足の裏で直接地面を読んできた。靴底1枚分、世界が遠くなった気がした。


『今夜は、同行できませんか』


床の隅で、シグが言った。


「兵が5人いる。お前を見せるわけにはいかない」


『では、戻る時刻を決めてください』


「夜明けの鐘までだ」


『記録しました。見たものを、戻ったら教えてください』


「全部話す」


外套(がいとう)を羽織り、頭巾(ずきん)を深くかぶった。


東の通用門の外に、5人の兵が松明を持って立っていた。


先頭の男は、左の頬に古い火傷の跡があった。俺が近づくと、松明を少しだけ上げて頭巾(ずきん)の中を照らそうとした。俺は顔を下げた。


「閣下から聞いてる。後ろにつけ、とな」


小隊長は言った。


「村の中では、俺たちが前へ出る必要はない。そうだな」


「出なくていい。村の人間を家から出すな」


「分かった」


残りの4人は、俺から3歩以上離れて歩いた。1人だけ、ほかより若い兵がいた。槍を握る手に力が入りすぎている。俺と目が合いそうになると、すぐに前を向いた。


城壁に沿って北へ回り、麦の刈り株の間の道を歩いた。1時間ほどで、林の黒い縁が見えてきた。その手前に、屋根が15ほど固まっていた。


村に入る前に、風の匂いが変わった。甘い臭いだった。熟れすぎた果物と、その底の乾いた灰。


「止まれ」


俺が言うと、兵たちが足を止めた。


「いる。村の中だ」


「どうして分かる」


「臭いだ」


小隊長が鼻を鳴らし、首を振った。兵たちには、羊と麦藁(むぎわら)の匂いしか分からないらしかった。


村の奥から、羊の悲鳴が上がった。続いて、木を引っかく音がした。家の戸を、何かが爪で削っている。


「松明を下げろ。俺の後ろで、道を塞げ」


俺は暗視(あんし)Lv.3を使った。灰色の像の中に、村の道と家々の壁が浮かび上がった。道の突き当たりに羊の柵がある。柵の手前の家の戸口に、人に似た影が1つ、しゃがんでいた。


灰色の皮膚。長すぎる指。戸板に爪を立て、削った木屑(きくず)を口へ運んでいる。グールだった。


距離は、25歩ほどだった。


戸口のグールが、首だけをこちらへ回した。白く濁った目が、松明の火を見た。踵(かかと)が浮き、つま先に体重が乗る。休み小屋の西で見た足跡と同じ、跳ぶための立ち方だった。


グールが跳んだ。一直線だった。両手の爪を前へ伸ばし、俺の顔の高さへ来る。


奈落(ならく)の第1層で、鎖を首に巻きつけ、全体重をかけて、ようやく止めた相手だった。今は、遅く見えた。


右手に、硬殻(こうかく)Lv.3を張った。灰色の殻が拳から肘までを覆う。


俺は左へ半歩ずれた。右の爪が、頭巾(ずきん)の端をかすめて空を切る。すれ違う瞬間、グールの首の後ろが、目の前にあった。殻をまとった拳を、そこへ落とした。


骨の折れる手応えが、殻の上から腕へ返ってきた。グールは道の土に顔から落ち、1度だけ脚を痙攣(けいれん)させて動かなくなった。俺は拳を開いた。殻に傷はない。


「……1体」


後ろで、兵の誰かが呟(つぶや)いた。


羊の柵が、内側から弾けた。


2体目だった。1体目より小さい。口に羊の脚をくわえたまま、柵の破れ目から道へ飛び出してくる。


向かったのは、俺ではなかった。道を塞いでいた兵の方だ。松明の火に向かって、低く、地面を這(は)うように走った。


若い兵が、槍を突き出した。穂先(ほさき)はグールの肩の上を通り過ぎ、土に刺さった。グールの爪が、若い兵の脚へ伸びた。


俺は、その間に踏み込んでいた。左膝が1度だけ軋(きし)んだ。構わなかった。


グールの細い腕を、左手でつかんだ。握る強さは分からない。分からなくていい相手だった。そのまま腕を引き、身体ごと地面へ叩きつけた。


グールが仰向けにもがき、牙が俺の手首へ向いた。硬殻(こうかく)Lv.3の右拳を、頭へ落とした。2体目も、動かなくなった。


若い兵は、槍を土に刺したまま尻もちをついていた。俺と、足元の死骸を交互に見ている。


「立て。怪我は」


「……ない」


若い兵の声は、裏返っていた。


3体目は、林の縁にいた。


村の北の端。麦藁(むぎわら)の山の陰から、灰色の影が1つ、林の方へ走っていくのが暗視(あんし)Lv.3の端に映った。羊を1頭引きずっている。ほかの2体より、背が高い。


追えば、林の中で追いつく。だが、林の中は暗視(あんし)Lv.3でも見通しが悪い。俺が林へ入っている間に、4体目が村へ入ってきたら。兵5人と、戸を閉めた家が15。


俺は追わなかった。道の真ん中に立ったまま、林の縁を見ていた。


グールが止まった。羊を放し、振り返った。濁った目が、村の方を見た。俺ではなかった。


村の北の端の家の戸が、細く開いていた。戸口に、小さな影が立っていた。角灯(かくとう)を持った子供だった。


父親を探しに出てきたのか、外の音を確かめに来たのか。角灯(かくとう)の光が、子供の顔と、震える手を照らしていた。


グールが、そちらへ跳んだ。


俺も走った。


子供までは、俺の方が遠い。30歩はあった。グールは林の縁から20歩。


頭巾(ずきん)が後ろへ落ちた。夜風が、伸びた髪をかき上げた。構っている暇はなかった。


グールが最後の1歩で踏み切ったとき、俺は子供とグールの間へ、身体を投げ込んだ。左腕に、硬殻(こうかく)Lv.3を張った。


爪が、殻の上を滑った。手のひら2枚分の殻が軋(きし)み、衝撃が肘から肩へ抜けた。左肩の古い傷が鈍く鳴った。後ろで、子供が角灯(かくとう)を落とす音がした。


グールの顔が、目の前にあった。裂けた頬。むき出しの歯。首の前の、息の通り道。


古道で、野盗の喉へ伸びかけた手は、途中で止めた。だが、これは人間ではない。止める理由は、どこにもなかった。


右の拳を、グールの喉へ打ち込んだ。硬い軟骨の潰れる感触が、殻の上から返ってきた。グールは声も出さずに後ろへ倒れ、仰向けのまま手足を2度だけ掻(か)いた。それきり動かなくなった。


冷たい文字が、視界に浮かんだ。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━

《討伐結果》

討伐対象:グール 3体

討伐吸収(とうばつきゅうしゅう)が完了しました。

格下・同種のため、力の残滓(ざんし)を蓄積しました。

能力値の変化はありません。

獲得可能な技能はありません。

忘却値に変化はありません。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━


文字が消えた。


身体の奥に、何かが薄く沈んでいく感覚があった。奈落(ならく)で何度も味わったものと同じだった。強くなったわけではない。それでも、何も得ていないわけではない。


俺は硬殻(こうかく)Lv.3を解いた。左腕の殻の跡に、爪の白い筋が3本残っていた。皮膚は切れていない。


振り返ると、子供が地面に座り込んでいた。7つか8つくらいの男の子だった。落とした角灯(かくとう)の火が、土の上で小さく揺れていた。


「怪我は」


子供は答えなかった。俺の顔を見上げたまま、口を開けて固まっていた。


家の中から、女が飛び出してきた。子供を抱き上げ、俺から引き離すように2歩下がった。何も言わなかった。


1年前の雨の日、瓦の下から子供を引き寄せたときも、同じ下がり方をされた。あのときは、触らないでと言われた。今夜は、言葉さえなかった。


女は子供を抱えたまま家へ入り、戸を閉めた。閂(かんぬき)の落ちる音がした。


兵たちが、松明を持って近づいてきた。


小隊長が、3体の死骸を順に照らした。1体目は首の後ろ、2体目は頭、3体目は喉。どれも、1度しか打たれていない。


「……3体。1人で」


小隊長の声は、低かった。


俺は、しゃがんで死骸の足を見た。1体目と2体目の足は、休み小屋の西で見た足跡と同じ形だった。大きい方は俺の足より長く、小さい方は少し短い。


3体目の足は、どちらよりも長かった。あの乾いた沢筋に、この足跡はなかった。


「何を見てる」


小隊長が言った。


「足だ」


「足がどうした」


「2体は、7日前に山で見た足跡と同じだ。こいつだけ、知らない」


小隊長は、しばらく黙っていた。それから、3体目の死骸から1歩離れた。


後ろで、兵たちが囁(ささや)いていた。風下にいた俺には、全部聞こえた。


「おい、今の顔」


「見たのか」


「見た。去年の、黒淵(こくえん)の山道だ。俺は、あいつの鎖を持ってた」


若い兵の声だった。さっき、尻もちをついた兵だ。


「空の器だ。落とされた、あのゼロ持ちだ」


「馬鹿言え。黒淵(こくえん)から帰った者は――」


「帰ってきたんだよ。帰ってきて、こいつらも一緒に連れてきたんだ」


誰も、すぐには言い返さなかった。


「生贄(いけにえ)が、災厄を連れて帰ったんだ」


松明の火が、1本だけ揺れた。


「黙れ」


小隊長が振り返らずに言った。


「見たことは、閣下にだけ言え。村の者の前で口を開いたら、俺が黙らせる」


兵たちは口を閉じた。閉じたまま、俺から4歩離れた。行きよりも1歩遠かった。


俺は頭巾(ずきん)を拾い、深くかぶり直した。兵たちから隠すものは、もう残っていなかった。


村の家々の戸は、どれも閉じたままだった。


ただ、いくつかの窓板が、指1本分だけ開いていた。その隙間の奥で、目が光っていた。1軒の戸口では、年寄りが胸の前で小さく円を描いていた。俺と目が合うと、その指が速くなった。


「戻るぞ」


小隊長が言った。


「死骸は」


「朝になったら、村の者に焼かせる。お前は、先に戻れ。通用門の番には話してある。俺たちは、夜明けまで村に残る」


小隊長は、俺の顔を見なかった。頭巾(ずきん)の奥へ話しかけるように言った。


「閣下には、3体と報告する。兵が倒したと」


「それでいい」


「……倒したのが誰か、兵はもう知ってるがな」


俺は答えなかった。


村を出る前に、1度だけ振り返った。林の黒い縁の向こうに、西の山の稜線が、星空を切り取っていた。


風が、西から吹いていた。甘い臭いが、まだかすかに混じっていた。


3体の死骸の臭いなのか、もっと遠くから来ているのか。暗視(あんし)Lv.3を切った目では、確かめようがなかった。

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