↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

87/125

代官の損得

ご覧いただきありがとうございます!

よろしければ、この話の読み終わりにでも【ブックマークへの追加】や【★★★★★評価】をポチッと押していただけると、今後の執筆の大きなモチベーションになります!


それでは、どうぞお楽しみください。

本営の北の棟の2階には、その夜も明かりが入っていた。


俺は薪(たきぎ)の山の陰から、その窓を見上げた。一昨日、記録庫を出たときに灯っていたのと同じ窓だった。


宿場からの報告の写しは、もう聖都へ向かっている。次に誰が来るのか、司祭の指は知っていた。半分しかかからなかった記録庫の掛け金も、もう誰かに見つかっているかもしれない。ここで待っていれば、聖都から来る者の方が先に、この城塞の門をくぐる。


「行ってくる」


包みの口を少し開けて言った。


『司祭のときより、危険が大きいと推定します』


「分かってる」


『ヴァルター・ゲルンは、あなたを黒淵(こくえん)へ落とした本人です』


「だから、話が早い」


シグは返事をしなかった。俺は包みの口を閉じ、背中へ回した。


司祭は、祈りで答えを避けた。教会の見張りを置き、写しを聖都へ送り、それでミアを守っているつもりでいる。あいつに、教会を止める力はない。


止める力を持っているかもしれない男は、この城塞に1人しかいなかった。


北の棟の壁は、荒く積んだ石だった。継ぎ目に指をかけ、足の布を石の角へ押し当てて登った。左膝が1度だけ軋(きし)んだ。2階の窓の下の出っ張りに片手をかけ、身体を引き上げる。


窓の木の板は、内側へ開いていた。掛け金はかかっていない。板と枠の間から、明かりと、紙をめくる音が漏れていた。


俺が窓枠に手をかけたとき、中から声がした。


「開けてある。入れ」


振り返らない声だった。


部屋の奥の机に、濃紺の軍服の背中が見えた。男は机に向かったまま、羽根の筆を動かしていた。机の端に、鞘(さや)に入った長剣が横たえてある。手を伸ばせば届く場所だった。


俺は窓枠を越え、床へ下りた。


ヴァルター・ゲルンは、筆を置いてから振り返った。1年前と、ほとんど変わっていなかった。背筋を伸ばし、目だけで相手を量る。髪に灰色が少し増えたくらいだった。


その目が、俺の顔、布を巻いた足、背中の包みの順に動いた。


「痩(や)せたな」


それが最初の言葉だった。


「奈落(ならく)には、パンがなかった」


「そうだろう」


ヴァルターは長剣に手を伸ばさなかった。代わりに、机の上の紙を1枚、指で俺の方へ滑らせた。宿場の司祭の封蝋(ふうろう)が押された紙だった。


「山で、素手で野盗の剣を折った男。喋る古い遺物を背負っている。報告が来たのは3日前だ。司祭ローデンは翌朝それを写して聖都へ送り、私にも1枚回してきた」


「なぜ、開けてあった」


「記録庫の窓の掛け金が、受け金に半分だけかかっていた。昨日の朝、書き役が見つけた」


ヴァルターは、机の上で指を組んだ。


「中は荒らされていない。封も割られていない。写しの束の紐は、結び目の向きまで元どおりだった。そんな盗人はいない。読みに来ただけの者だ。読んで、読んだことを誰かにぶつけに来る」


「それで、窓を開けて待ってた」


「門は、宿場の報告が来た日から見張らせていた。通った者はいない。なら、水か壁だ。壁を登る者なら、この窓を選ぶ」


「日誌を読んだ」


俺は言った。


「知っている」


「砕城犀(さいじょうさい)は、日没後2刻に死んだ。俺はその後で落とされた」


「そうだ」


「教会は、書き直した写しを寄越せと言った。お前は断った」


「断った」


「なぜだ」


ヴァルターは、すぐには答えなかった。机の端の蝋燭(ろうそく)の火を、1度だけ見た。


「書き直した記録を1度渡せば、次も書き直せと言われる」


「それだけか」


「本当の記録を持っている方が、話が早い。教会が次に、城塞の人間を寄越せと言ってきたとき。税を寄越せと言ってきたとき。あの夜の時刻を書いた紙が1枚あれば、向こうは強く出られない」


「取引の材料か」


「そうだ」


即答だった。1年前、詰所で「俺もだろ」と聞いたときと同じ速さだった。


「生贄(いけにえ)で魔物が止まるとは、最初から思っていなかったんだろう」


「思っていない。前にも言った」


「なら、なぜ落とした」


「市民は信じていた。恐怖の行き先が必要だった。それも前に言った」


ヴァルターは、俺から目を逸らさなかった。


「私は、お前を落としたことを間違いだったとは言わない。謝る気もない」


「謝られても困る」


「そうだろう」


「本題に入る」


ヴァルターが言った。


「北の村の話を聞いたか」


「羊が食われた。牛飼いが腕を裂かれた。灰色の人みたいなのを見た」


「今朝、3人目が出た。鶏小屋を見に出た女だ。命は助かった」


ヴァルターは、壁に貼られた地図を顎(あご)で示した。城壁の北に、林の縁に沿って小さな村の印がある。


「狩人は、狼ではないと言う。足跡が人に似ている。指が長く、爪が刺さっている。私の兵は、門と城壁で手一杯だ。騎士団の主力は、今年も戻らない」


「グールだ」


俺が言うと、ヴァルターの眉がわずかに動いた。


「知っているのか」


「奈落(ならく)で最初に倒したのが、それだ。臭いで分かる。甘い、熟れすぎた果物みたいな臭いがする」


「倒せるか」


「倒せる」


「何体までなら」


俺は少し考えた。奈落(ならく)で、同じものを何体相手にしたか。ここ数日で、右手が何を壊したか。


「村の中なら、村の人間を巻き込まない数までだ」


ヴァルターは、それで納得したように頷(うなず)いた。数を答えなかったことを、答えとして受け取ったらしかった。


「取引をする」


ヴァルターは、指を1本立てた。


「私が呼んだとき、城壁の外で魔物を倒せ。夜だけだ。顔は隠せ。兵を5人つける。見張りではない。お前が倒したものを、兵が倒したと報告するためだ」


「俺の手柄はいらない」


「手柄の話ではない。生贄(いけにえ)が帰ってきて魔物を倒した、と広まれば、城塞の中が割れる」


指が2本になった。


「代わりに、私はお前がこの城塞にいることを黙っている。食い物は兵に運ばせる。外套(がいとう)と靴もだ。寝床は」


「東の外壁の近くだ。水門の上の小屋だ」


「あそこは城塞の持ち物だ。使っていい。誰も近づけない」


「ミアは」


俺が言うと、ヴァルターは組んだ指をほどかなかった。


「養護院の見張りは教会の者だ。私の管轄ではない」


「そうか」


「だが、夜回りの兵を、養護院の通りへ回すことはできる。城塞の兵が通りを歩いていれば、教会の者が夜のうちに娘を連れ出すことはない。……少なくとも、黙っては」


「命令書が来たら」


「聖都から正式な命令書が来れば、私は止めない。止める理由がない」


ヴァルターの声は、少しも揺れなかった。


「それまでの話だ。それ以上は約束しない」


嘘をつかない男だった。1年前もそうだった。それが救いになるのかどうかは、分からなかった。


「こっちの条件もある」


俺は言った。


「人は殺さない。兵の命令でもだ。魔物以外に手を出させるな」


「魔物だけでいい。人を斬らせるなら、兵で足りる」


「それから、兵が俺を斬ろうとしたら、俺は逃げる。殴り返さない。だから、兵にも斬らせるな」


ヴァルターの目が、初めて少しだけ細くなった。


「殴り返さない、か」


「殴れば、骨が折れる。折るつもりがなくても折れる」


「宿場の報告にも、そう書いてあった。剣を折り、手首を折り、誰も殺さなかった」


ヴァルターは、俺の右手を見た。


「強いのに、手加減ができない。そういう兵を、私は何人か知っている。たいてい、長生きしない」


「俺は1年生きた」


「奈落(ならく)ではな」


言い返す言葉を探して、やめた。


「もう1つ、言っておく」


ヴァルターは、報告の紙を引き寄せ、封蝋(ふうろう)の上に指を置いた。


「司祭ローデンの写しは、もう聖都へ向かっている。聖都は、帰ってきた空の器を放っておかない。1年前と同じだ。処分を執行する者を寄越す」


「巡察官か」


「巡察官の名で来るだろう。1年前の女か、別の者かは知らん。聖都からここまで、急げば7日だ」


7日。


写しが送られたのは、一昨日の朝だ。急げば、残りは5日しかない。


「来たら、お前はどうする」


「そのときに考える」


「それでいい。私もそうする」


ヴァルターは、俺の背中の包みに目を向けた。


「報告では、それは喋るそうだな」


「喋らない」


包みの中は、静かだった。


「見せる気はないか」


「ない」


「なら、見せるな。私が見ていない物は、渡せと言われても渡せない」


それが冗談なのかどうか、ヴァルターの顔からは分からなかった。


窓枠に手をかけたところで、ヴァルターが言った。


「レイ・クロウ」


振り返った。


「日誌は、私が持っている。写しをお前に渡す気はない。あれは私の札だ」


「いらない。中身は、もう覚えてる」


俺は背中の包みを軽く叩いた。


ヴァルターは、それ以上何も聞かなかった。机に向き直り、筆を取った。


「明日の日没、兵を水門小屋へ行かせる。北の村だ」


俺は窓から出た。


水門小屋へ戻ると、包みの中から先に声がした。


『喋ってもよいですか』


「いい」


『取引の内容を、5項目で記録しました』


シグは、床の土に接続棒で5本の線を引いた。3本目の横で、棒の先が止まった。


『3つ目を確認します。聖都から正式な命令書が来た場合、ヴァルター・ゲルンはミアの引き渡しを止めない』


「そうだ」


『5つ目。日誌の写しは渡されない』


「お前が持ってる」


シグの単眼が、ゆっくり明滅した。


『1年前、あなたは手段だと言われました。今回も、同じ言葉で数えられています』


「今度は、俺も数えてる」


『何をですか』


「あいつが、何を黙っていて、何を黙っていないか」


俺は記録帳を開いた。


『落下から推定343日。ヴァルターと取引をした。魔物を倒す代わりに、黙っている。食い物と靴。夜回りを養護院の通りへ』


『命令書が来たら、ヴァルターは止めない』


『聖都から、処分を執行する者が来る。急げば7日』


最後の行を書いてから、炭筆を置いた。


7日。1年前、3日で帰ると言った。今度の数字は、俺が決めたものではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。