代官の損得
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それでは、どうぞお楽しみください。
本営の北の棟の2階には、その夜も明かりが入っていた。
俺は薪の山の陰から、その窓を見上げた。一昨日、記録庫を出たときに灯っていたのと同じ窓だった。
宿場からの報告の写しは、もう聖都へ向かっている。次に誰が来るのか、司祭の指は知っていた。半分しかかからなかった記録庫の掛け金も、もう誰かに見つかっているかもしれない。ここで待っていれば、聖都から来る者の方が先に、この城塞の門をくぐる。
「行ってくる」
包みの口を少し開けて言った。
『司祭のときより、危険が大きいと推定します』
「分かってる」
『ヴァルター・ゲルンは、あなたを黒淵へ落とした本人です』
「だから、話が早い」
シグは返事をしなかった。俺は包みの口を閉じ、背中へ回した。
司祭は、祈りで答えを避けた。教会の見張りを置き、写しを聖都へ送り、それでミアを守っているつもりでいる。あいつに、教会を止める力はない。
止める力を持っているかもしれない男は、この城塞に1人しかいなかった。
北の棟の壁は、荒く積んだ石だった。継ぎ目に指をかけ、足の布を石の角へ押し当てて登った。左膝が1度だけ軋んだ。2階の窓の下の出っ張りに片手をかけ、身体を引き上げる。
窓の木の板は、内側へ開いていた。掛け金はかかっていない。板と枠の間から、明かりと、紙をめくる音が漏れていた。
俺が窓枠に手をかけたとき、中から声がした。
「開けてある。入れ」
振り返らない声だった。
部屋の奥の机に、濃紺の軍服の背中が見えた。男は机に向かったまま、羽根の筆を動かしていた。机の端に、鞘に入った長剣が横たえてある。手を伸ばせば届く場所だった。
俺は窓枠を越え、床へ下りた。
ヴァルター・ゲルンは、筆を置いてから振り返った。1年前と、ほとんど変わっていなかった。背筋を伸ばし、目だけで相手を量る。髪に灰色が少し増えたくらいだった。
その目が、俺の顔、布を巻いた足、背中の包みの順に動いた。
「痩せたな」
それが最初の言葉だった。
「奈落には、パンがなかった」
「そうだろう」
ヴァルターは長剣に手を伸ばさなかった。代わりに、机の上の紙を1枚、指で俺の方へ滑らせた。宿場の司祭の封蝋が押された紙だった。
「山で、素手で野盗の剣を折った男。喋る古い遺物を背負っている。報告が来たのは3日前だ。司祭ローデンは翌朝それを写して聖都へ送り、私にも1枚回してきた」
「なぜ、開けてあった」
「記録庫の窓の掛け金が、受け金に半分だけかかっていた。昨日の朝、書き役が見つけた」
ヴァルターは、机の上で指を組んだ。
「中は荒らされていない。封も割られていない。写しの束の紐は、結び目の向きまで元どおりだった。そんな盗人はいない。読みに来ただけの者だ。読んで、読んだことを誰かにぶつけに来る」
「それで、窓を開けて待ってた」
「門は、宿場の報告が来た日から見張らせていた。通った者はいない。なら、水か壁だ。壁を登る者なら、この窓を選ぶ」
「日誌を読んだ」
俺は言った。
「知っている」
「砕城犀は、日没後2刻に死んだ。俺はその後で落とされた」
「そうだ」
「教会は、書き直した写しを寄越せと言った。お前は断った」
「断った」
「なぜだ」
ヴァルターは、すぐには答えなかった。机の端の蝋燭の火を、1度だけ見た。
「書き直した記録を1度渡せば、次も書き直せと言われる」
「それだけか」
「本当の記録を持っている方が、話が早い。教会が次に、城塞の人間を寄越せと言ってきたとき。税を寄越せと言ってきたとき。あの夜の時刻を書いた紙が1枚あれば、向こうは強く出られない」
「取引の材料か」
「そうだ」
即答だった。1年前、詰所で「俺もだろ」と聞いたときと同じ速さだった。
「生贄で魔物が止まるとは、最初から思っていなかったんだろう」
「思っていない。前にも言った」
「なら、なぜ落とした」
「市民は信じていた。恐怖の行き先が必要だった。それも前に言った」
ヴァルターは、俺から目を逸らさなかった。
「私は、お前を落としたことを間違いだったとは言わない。謝る気もない」
「謝られても困る」
「そうだろう」
「本題に入る」
ヴァルターが言った。
「北の村の話を聞いたか」
「羊が食われた。牛飼いが腕を裂かれた。灰色の人みたいなのを見た」
「今朝、3人目が出た。鶏小屋を見に出た女だ。命は助かった」
ヴァルターは、壁に貼られた地図を顎で示した。城壁の北に、林の縁に沿って小さな村の印がある。
「狩人は、狼ではないと言う。足跡が人に似ている。指が長く、爪が刺さっている。私の兵は、門と城壁で手一杯だ。騎士団の主力は、今年も戻らない」
「グールだ」
俺が言うと、ヴァルターの眉がわずかに動いた。
「知っているのか」
「奈落で最初に倒したのが、それだ。臭いで分かる。甘い、熟れすぎた果物みたいな臭いがする」
「倒せるか」
「倒せる」
「何体までなら」
俺は少し考えた。奈落で、同じものを何体相手にしたか。ここ数日で、右手が何を壊したか。
「村の中なら、村の人間を巻き込まない数までだ」
ヴァルターは、それで納得したように頷いた。数を答えなかったことを、答えとして受け取ったらしかった。
「取引をする」
ヴァルターは、指を1本立てた。
「私が呼んだとき、城壁の外で魔物を倒せ。夜だけだ。顔は隠せ。兵を5人つける。見張りではない。お前が倒したものを、兵が倒したと報告するためだ」
「俺の手柄はいらない」
「手柄の話ではない。生贄が帰ってきて魔物を倒した、と広まれば、城塞の中が割れる」
指が2本になった。
「代わりに、私はお前がこの城塞にいることを黙っている。食い物は兵に運ばせる。外套と靴もだ。寝床は」
「東の外壁の近くだ。水門の上の小屋だ」
「あそこは城塞の持ち物だ。使っていい。誰も近づけない」
「ミアは」
俺が言うと、ヴァルターは組んだ指をほどかなかった。
「養護院の見張りは教会の者だ。私の管轄ではない」
「そうか」
「だが、夜回りの兵を、養護院の通りへ回すことはできる。城塞の兵が通りを歩いていれば、教会の者が夜のうちに娘を連れ出すことはない。……少なくとも、黙っては」
「命令書が来たら」
「聖都から正式な命令書が来れば、私は止めない。止める理由がない」
ヴァルターの声は、少しも揺れなかった。
「それまでの話だ。それ以上は約束しない」
嘘をつかない男だった。1年前もそうだった。それが救いになるのかどうかは、分からなかった。
「こっちの条件もある」
俺は言った。
「人は殺さない。兵の命令でもだ。魔物以外に手を出させるな」
「魔物だけでいい。人を斬らせるなら、兵で足りる」
「それから、兵が俺を斬ろうとしたら、俺は逃げる。殴り返さない。だから、兵にも斬らせるな」
ヴァルターの目が、初めて少しだけ細くなった。
「殴り返さない、か」
「殴れば、骨が折れる。折るつもりがなくても折れる」
「宿場の報告にも、そう書いてあった。剣を折り、手首を折り、誰も殺さなかった」
ヴァルターは、俺の右手を見た。
「強いのに、手加減ができない。そういう兵を、私は何人か知っている。たいてい、長生きしない」
「俺は1年生きた」
「奈落ではな」
言い返す言葉を探して、やめた。
「もう1つ、言っておく」
ヴァルターは、報告の紙を引き寄せ、封蝋の上に指を置いた。
「司祭ローデンの写しは、もう聖都へ向かっている。聖都は、帰ってきた空の器を放っておかない。1年前と同じだ。処分を執行する者を寄越す」
「巡察官か」
「巡察官の名で来るだろう。1年前の女か、別の者かは知らん。聖都からここまで、急げば7日だ」
7日。
写しが送られたのは、一昨日の朝だ。急げば、残りは5日しかない。
「来たら、お前はどうする」
「そのときに考える」
「それでいい。私もそうする」
ヴァルターは、俺の背中の包みに目を向けた。
「報告では、それは喋るそうだな」
「喋らない」
包みの中は、静かだった。
「見せる気はないか」
「ない」
「なら、見せるな。私が見ていない物は、渡せと言われても渡せない」
それが冗談なのかどうか、ヴァルターの顔からは分からなかった。
窓枠に手をかけたところで、ヴァルターが言った。
「レイ・クロウ」
振り返った。
「日誌は、私が持っている。写しをお前に渡す気はない。あれは私の札だ」
「いらない。中身は、もう覚えてる」
俺は背中の包みを軽く叩いた。
ヴァルターは、それ以上何も聞かなかった。机に向き直り、筆を取った。
「明日の日没、兵を水門小屋へ行かせる。北の村だ」
俺は窓から出た。
水門小屋へ戻ると、包みの中から先に声がした。
『喋ってもよいですか』
「いい」
『取引の内容を、5項目で記録しました』
シグは、床の土に接続棒で5本の線を引いた。3本目の横で、棒の先が止まった。
『3つ目を確認します。聖都から正式な命令書が来た場合、ヴァルター・ゲルンはミアの引き渡しを止めない』
「そうだ」
『5つ目。日誌の写しは渡されない』
「お前が持ってる」
シグの単眼が、ゆっくり明滅した。
『1年前、あなたは手段だと言われました。今回も、同じ言葉で数えられています』
「今度は、俺も数えてる」
『何をですか』
「あいつが、何を黙っていて、何を黙っていないか」
俺は記録帳を開いた。
『落下から推定343日。ヴァルターと取引をした。魔物を倒す代わりに、黙っている。食い物と靴。夜回りを養護院の通りへ』
『命令書が来たら、ヴァルターは止めない』
『聖都から、処分を執行する者が来る。急げば7日』
最後の行を書いてから、炭筆を置いた。
7日。1年前、3日で帰ると言った。今度の数字は、俺が決めたものではなかった。




