司祭の沈黙
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それでは、どうぞお楽しみください。
2日目の鉱石置き場では、羊の話が出ていた。
荷の中には、昨日の黒パンが1つ残っているだけだった。銅貨はもうない。今日も担がなければ、明日の分がない。
本営の北の棟では、今朝にも誰かが、半分しかかかっていない掛け金に気づくかもしれない。今の俺にできるのは、顔を黒く塗り、ほかの男たちと同じ背中で袋を担ぐことだけだった。
「北の村で、また5頭だ」
袋を担いで荷車へ向かう途中、前を歩く男が言った。
「狼か」
「狼が、喉から腹まで裂いて、脚だけ持っていくかよ。牛飼いが見たそうだ。夜の柵の向こうに、灰色の人みたいなのがしゃがんでたって」
「酒だろう」
「その牛飼い、腕を裂かれて寝てるってよ」
俺は袋を荷台へ下ろし、握らないように、指先だけで口の縄を外した。灰色の人みたいなの。脚だけ持っていく。
休み小屋の西で見た鹿を思い出した。脚の骨が2本、関節からねじって外されていた。
北の林へ入った2体が、山沿いに東へ下りてきたのかもしれない。確かめる方法は、今の俺にはなかった。昼までに銅貨6枚をもらい、黒パンを2つ買った。
水門小屋で、シグにその話をした。
『北の村の位置は分かりますか』
「北の門から出て、林の手前だ。子供の頃、麦刈りの手伝いに行かされたことがある」
『行きますか』
「今は行けない。昼は顔を見られる。夜に城壁を越えて戻れば、見張りの目に入る」
『では、今夜はどこへ行きますか』
俺は黒パンの半分を口へ入れ、飲み込んでから答えた。
「司祭のところだ」
『エイベル・ローデン』
「見張りを置いたのは、司祭だった。宿場からの報告を受け取ったのも、あいつだ。何を、どこまで上へ伝えたのか聞く」
『あなたを見た瞬間、人を呼ぶ可能性があります』
「呼ばないと思う」
『根拠を要求します』
「あいつは1年前、祈りを最後まで読めなかった」
シグは少し黙った。
『根拠として弱いです』
「知ってる」
礼拝堂へは、古い焼却炉から入った。1年前、ミアが煤まみれで出てきた道だ。焼却炉の横の石の蓋をずらすと、下へ続く狭い穴があった。
灰落としの通路は、肩幅ぎりぎりの下り坂で、奥で上り坂に変わる。暗視Lv.3の中で、坂の壁に古い擦り跡が残っているのが見えた。子供の肘と膝の跡だった。
上り坂の突き当たりで、石の板が道を塞いでいた。隙間から、蝋燭の匂いが流れてきた。低く、途切れない人の声もした。
祈りだった。
俺は石板の縁に指をかけ、少しずつ横へずらした。
七柱の名を刻んだ石板が並ぶ部屋だった。1年前、俺が水だけで1日座らされた部屋だ。
床に燭台が1つ置かれ、その前に白い法衣の男が膝をついていた。背中が丸く、肩が前へ落ちている。俺が石板の陰から立ち上がると、祈りが止まった。
エイベル・ローデンが振り返った。
燭台の火が、男の顔を下から照らした。頬が1年前よりこけ、髪に白いものが増えていた。目が俺の顔で止まり、そこから動かなくなった。
口が開いた。声は出なかった。
「人を呼ぶなら、呼べ」
俺は言った。
「呼ばないなら、少し話がある」
エイベルの手が、胸元の聖印を探した。指が何度か空をつかみ、ようやく銀の円に触れた。
「……七柱の御名において」
震える声だった。
「迷える魂よ、定められた場所へ還りなさい。ここは、汝のいる場所では――」
「迷ってない」
エイベルの喉が鳴った。
「還る場所なら決めてある。養護院だ」
エイベルは膝をついたまま、石板の方へ後ずさった。背中が石に当たり、燭台の火が大きく揺れた。
「なぜ」
ようやく出た言葉は、それだった。
「なぜ、帰ってきたのです」
「待ってろと言った相手がいる」
「黒淵から帰った者はいないのです。1人も。何百年も。そう記されているのです」
「なら、俺が最初だ」
「そんなことは、あってはならないのです」
エイベルの声が、少しだけ高くなった。すぐに自分で気づき、口を押さえて扉の方を見る。足音はしなかった。
「あってはならない、か」
俺は燭台を挟んで、エイベルの正面にしゃがんだ。1年前、この部屋で石板の隙間に耳を寄せたのと同じ高さだった。
「俺が生きてると、何が困る」
エイベルは答えなかった。聖印を握った指の関節が白くなっていた。
「見張りのことを聞く」
俺は言った。
「養護院の塀の周りに、聖印を下げた男が2人いる。置いたのは、お前か」
「……私です」
「なぜ」
「巡察官殿が」
エイベルは言いかけて、1度唇を噛んだ。
「1年前、聖都へ戻られる前に言い残されたのです。あの娘の動きを記録し、変わったことがあれば知らせなさい、と」
「1年間、ずっとか」
「月に1度、礼拝に来たかどうかを書くだけでした。……それだけです。本当に、それだけだったのです」
「宿場からの報告が来るまでは」
エイベルの目が、初めて俺の顔から逸れた。
「素手で剣を折る男。喋る遺物を背負った男。それを読んだとき、私は……」
声が途切れた。
「私は、何も考えませんでした。考えないようにしたのです。規則どおりに、聖都へ写しを送りました。そして、門に人を置きました」
「ミアを守るためか」
「そうです」
「ミアを見張るためだろう」
エイベルは目を閉じた。
「もう1つ聞く」
俺は、昨夜本営の北の棟で読んだ紙の文字を思い出していた。
「砕城犀が死んだのは、日没後2刻だ。俺が落とされたのは、その後だ。お前は、足場の上で角笛を聞いてた」
エイベルの肩が、1度だけ跳ねた。
「知ってたな。俺が落ちても、何も変わらないと」
「私は……」
「答えろ」
「七柱の御心を、人が量ることはできないのです」
エイベルは聖印を額へ当てた。
「災厄が去ったのが、器が返される前だったのか、後だったのか。それは、私たちの時刻でのことです。神々の時刻では――」
「祈りで答えるな」
エイベルの唇が震えた。しばらくして、聖印を下ろさないまま、小さく言った。
「……私は、最後の祈りを読めませんでした」
「知ってる。見てた」
「それが、私の答えです」
それ以上は、何も言わなかった。
エイベルが、ゆっくりと顔を上げた。怯えた目だった。だが、何かを確かめようとする目でもあった。
「あなたは、本当にレイなのですか」
「ほかの誰に見える」
「黒淵から、同じ顔をした何かが上がってくることもあると……古い書には」
エイベルは唾を飲み込んだ。
「あなたが熱を出した冬のことです。私は夜中に薬湯を持っていきました。あなたは、苦いと言って半分残した。……あの薬湯の匂いを、覚えていますか」
俺は、すぐには答えられなかった。
薬を持ってきてもらったことは覚えている。夜だったことも、エイベルが寝台の横に立っていたことも。広場でミアがその話をしたことまで覚えている。
匂いだけが、どこにもなかった。
「薬をもらったのは覚えてる」
俺は言った。
「匂いは、ない」
エイベルの顔から、血の気が引いた。聖印を握ったまま、また石板の方へ身体を寄せる。俺とエイベルの間で、燭台の火が細く伸びた。
俺は、何も説明しなかった。説明できることは、何もなかった。
「ミアには言うな」
俺は立ち上がった。
「俺がここへ来たことも、生きてることもだ」
「……言いません」
エイベルの答えは、思ったより早かった。
「言えば、あの子は探しに行きます。夜でも、山でも。1年前と同じように」
「分かってるなら、いい」
「レイ」
石板の陰へ戻りかけた俺を、エイベルが呼んだ。
「去りなさい。この城塞から。あなたがここにいれば、あの子が」
「ミアを置いてか」
エイベルは口を閉じた。
「聖都へ写しを送ったと言ったな。次に誰が来る」
答えはなかった。
エイベルの指が、聖印の縁をなぞっていた。1度、2度。3度目で止まり、そのまま動かなくなった。
それで十分だった。答えを知らない者は、あんなふうに指を止めない。
石板の陰から、灰落としの穴へ身体を下ろした。石板を元の位置へ戻す前に、1度だけ振り返った。エイベルは燭台の前に膝をついたまま、こちらを見ていなかった。
石板を閉じた。
坂を下りかけたとき、石の向こうから声が聞こえた。低く、途切れない声だった。
言葉には聞き覚えがあった。養護院で、年に何度か唱えさせられた祈りだ。冬に死んだ子供の名を呼んで、礼拝室で全員が繰り返した。
死者を送る祈りだった。
俺は坂の途中で止まり、しばらく聞いていた。祈りの中で、エイベルは1度だけ名前を呼んだ。レイ・クロウ。その先は、震えて聞き取れなかった。
俺は暗い坂を下りた。
水門小屋へ戻ると、シグが単眼を上げた。
『話せましたか』
「話した」
『人を呼びましたか』
「呼ばなかった。代わりに、死者の祈りを読んでた」
シグの単眼が、しばらく明滅しなかった。
『誰のためですか』
「俺だ」
俺は記録帳を開いた。
『落下から推定342日。司祭に会った。見張りは司祭が置いた。巡察官が1年前に言い残した。宿場の報告は、聖都へ送られた』
『砕城犀のことは、祈りで答えなかった。最後の祈りを読めなかったのが答えだと言った』
『薬湯の匂いを聞かれた。覚えていなかった。司祭は、俺を本物のレイか疑った』
『次に誰が来るかは、言わなかった』
炭筆を置いた。
『あなたは、薬湯の匂いを失ったことを、司祭に説明しませんでしたね』
「説明したら、もっと怖がる」
『そうかもしれません』
シグは少し間を置いた。
『薬湯の匂いは、あなたが奈落で失った記憶の1つです。私の記録にあります。あなたが本物のレイ・クロウであることの証明にはなりませんが、偽物である証明にもなりません』
「司祭にそう言ってやれ」
『喋るなと言われています』
俺は少しだけ笑った。笑ったつもりだったが、声にはならなかった。
記録帳の最後の行は、まだ開いたままだった。次に誰が来るか。司祭の指は、それを知っていた。
紙を残したもう1人の男なら、いつ来るかまで知っているかもしれない。




