養護院の塀
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それでは、どうぞお楽しみください。
水の音は、城壁の東の角の真下から出ていた。
城壁の上の明かりは、もう動かない。だが、ここから入るところを1人にでも見られれば、話は宿場の噂では済まなくなる。生贄が帰ったと知れれば、真っ先に調べられるのは、ミアのいる養護院だ。
格子が直されていたら、今夜は引き返す。壊せば、朝には誰かが気づく。そう決めて、俺は水の音の方へ踏み出した。
葦を分けて近づくと、黒い石の壁の根元に、半円の口が開いていた。高さは俺の胸ほど。内側から流れ出た水が、段になった石を1つ落ちて川へ混じっている。口には、鉄の格子がはめられていた。
俺は水に膝まで入り、格子へ手を伸ばした。縦の棒が6本。左から4本目の根元だけが、錆で痩せて石から浮いていた。指で押すと、棒は下の端から外へ傾き、水の中で重く揺れた。
外れている。1年経っても、誰も直していなかった。
「ミアの言ったとおりだ」
声に出したのは、それだけだった。背中の包みは何も答えない。喋るなと言ったのは俺だ。
傾いた棒と隣の棒の間に、肩を斜めに入れた。胸が石に擦れ、背中の包みが格子の上端に当たる。俺は1度息を吐き、身体をさらに薄くして抜けた。抜けてから、棒を元の角度へ戻した。外から見れば、さっきと同じ格子に見えるはずだった。
中は、真っ暗だった。水は膝の下まで。足の裏の布が、ぬるい泥に沈む。天井は低く、頭を下げなければ石にぶつかった。
暗視Lv.3を使った。暗い灰色の中に、濡れた石の継ぎ目が浮かび上がる。水路はまっすぐ西へ伸び、ところどころ上から細い光が落ちていた。通りの排水口だろう。
地上へ出てから、この目を開けるのは初めてだった。奈落では毎日使っていた。1年分の暗闇に慣れた目は、城壁の下の闇をあっさり見通した。
水には、青い筋が混じっていた。上から流れてくる水が、灰色の視界の中でも少しだけ濃い。鼻を近づけると、草を煮詰めたような匂いと、鉄の匂いがした。染料だ。上流に、染物屋がある。
俺は水の真ん中を避け、壁際の浅いところを選んで歩いた。
100歩ほど進んだところで、右の壁に石段が現れた。水路の脇から上へ、7段。その上に、木の扉が半分腐って傾いていた。扉の隙間から、錆びた鉄の輪が見える。水門を上げ下げするための輪だった。
俺は石段を上がり、扉の隙間から中を見た。
狭い石の小屋だった。床板の一部が落ち、下に水路が見える。水門の輪は赤く錆び、軸に蜘蛛の巣が張っていた。人が入った跡はない。埃の上に、鼠の足跡だけが点々と続いている。
使われていない。少なくとも、この冬と夏は。俺は小屋の位置を頭に入れ、水路へ戻った。
さらに進むと、水路の天井が途切れた。石の溝の上に、夜空が細く開いている。溝の両側には板塀が続き、塀の向こうから大きな桶の縁がいくつものぞいていた。濡れた布が、竿に何枚も吊るされている。染物屋の裏だった。
俺は暗視Lv.3を切り、溝の縁に手をかけて上がった。
塀と塀の間の、人1人がやっと通れる隙間に出た。ここから先は、ミアの地図の道だ。紙はもうない。線の形だけを覚えている。職人区から洗濯場、洗濯場から古い焼却炉へ抜け、焼却炉の横に出れば、養護院の裏の塀が見える。
ミアが俺を逃がすために描いた道を、俺は逆向きにたどった。
職人区は静かだった。家々の戸は閉まり、窓の板の隙間から、ところどころ明かりが漏れていた。どこかで赤ん坊が1度泣き、すぐに止んだ。
洗濯場の井戸の脇を抜け、低い石垣を越える。古い焼却炉は、1年前と同じ場所に立っていた。煤で黒くなった煙突が、夜空に斜めの影を作っている。その向こうに、養護院の裏の塀があった。
俺の肩より少し高い、白い漆喰の塀だった。ところどころ剥げて、下の石がのぞいている。塀の上から、2階建ての建物の窓が見えた。
俺は焼却炉の陰にしゃがみ、すぐには動かなかった。奈落で覚えたことの1つだ。目的の場所に着いたら、まず周りを見る。
見張りは、2人いた。
1人は、養護院の表の門の角に立っていた。灰色の外套を着て、明かりを覆った小さな角灯を足元に置いている。もう1人は、塀に沿ってゆっくり歩いていた。表から裏へ回り、また表へ戻る。
歩いている方が、焼却炉の近くを通った。角灯の覆いの隙間から漏れた光が、男の胸元を一瞬だけ照らした。外套の合わせ目の奥で、銀色のものが光った。聖印だった。
兵士ではない。城塞兵なら、胸に聖印を下げて夜回りはしない。
男は裏の塀の角まで来て、表へ戻っていった。歩く速さは一定で、途中で1度も立ち止まらない。塀の中ではなく、塀の周りを見ている歩き方だった。
俺は、男が表の角に消えるまでの時間を数えた。戻ってくるまでを、もう1度数えた。同じだった。
表の角で、2人が声を落として話していた。風が表から裏へ流れていて、全部は聞き取れない。途切れた言葉だけが、塀に沿って届いた。
「……報告が来たのは、今日だろう」
「宿場からだ。山で、素手で剣を折った男がいたと」
「それが何で、ここの見張りになる」
「知らん。司祭様は、念のためだと言った」
「黒淵から帰った者はいない」
「だから、念のためだ」
角灯の覆いが鳴った。1人が足元の灯りを持ち上げたらしい。
「娘は」
「寝てる。……いや、また窓だ」
俺は、塀の上の窓を見た。
2階の端の窓に、明かりが入っていた。内側から、木の窓板が押し開けられた。小さな燭台の火が揺れ、その向こうに人影が立った。
淡い金髪だった。肩の下まで伸びている。1年前は、肩までだった。燭台の光が横顔に当たり、額と頬の線を浮かび上がらせた。
ミアだった。
顔は分かった。髪の色も、額の形も、少し尖った顎も。遠すぎて、目の色までは見えなかった。灰青色だと知っている。知っているだけで、この距離からは確かめられなかった。
ミアは窓枠に両手をついて、外を見ていた。こちらではない。塀の向こうの、屋根の連なりの先。城塞の西の方角だった。西の端には黒い鉄門があり、その先に、山道と黒淵がある。
「毎晩だな」
表の角で、見張りの声がした。
「西を見てる。落とされた小僧の方だろう」
「気味が悪い」
「そう言うな。まだ15かそこらだ」
「空の器の仲間だぞ」
「……声を落とせ」
俺は、焼却炉の煤けた壁に手をついていた。いつの間にか、指が石に食い込みかけていた。力を抜き、1本ずつ、指を壁から離した。
塀までは、20歩もない。
見張りが表の角にいる間なら、塀を越えるのは難しくない。窓の下まで行けば、小石1つで気づかせられる。ミアは窓から身を乗り出して、俺を見る。
それから、どうなる。
ミアは声を上げるかもしれない。上げなくても、窓の明かりの中で顔色が変わる。見張りは毎晩、あの窓を見ている。
見張りの言葉を思い返した。報告が来たのは今日。素手で剣を折った男。念のため。念のために人を置くのは、何かが起きると思っているからだ。
今夜、俺があの窓の下に立てば、念のためは念のためではなくなる。宿場の台所で聞いた「空の器の仲間」が、この塀の中で本当になる。
1年前、七柱の石板の前で、イレーネは言った。彼女を捕らえれば、あなたは逃げない。あの言葉を使える者は、今も使える。
ミアは、しばらく窓辺から動かなかった。燭台の火が揺れるたび、髪の縁が淡く光った。何かを口にしたようにも見えた。唇が動いたのか、火の影が動いたのか、この距離では分からなかった。
分からなくていい、と思った。今、窓の下へ行けば、ミアは俺の名前を呼ぶ。それだけは分かっていた。
俺は立ち上がらなかった。
やがてミアは、窓板に手をかけた。最後にもう1度西を見て、ゆっくりと窓を閉めた。明かりが板の隙間の細い線になり、少しして、それも消えた。
俺はまだ、塀の上の暗い窓を見ていた。見張りの足音が、また裏へ回ってきた。一定の速さで、焼却炉の前を通り過ぎる。男が表へ戻るのを待って、俺は来た道を引き返した。
水門小屋へ戻ったのは、夜明けまでまだ時間がある頃だった。扉を肩で押し、中へ入る。床板の落ちていない隅に荷を下ろし、包みの口を開けた。
シグの単眼が、小さく光った。
『喋ってもよいですか』
「いい。ここなら、下の水の音で聞こえない」
『確認します。あなたは、会いませんでした』
「会わなかった」
『窓の人物は、ミアですか』
「ミアだ」
シグは少し黙った。単眼の光が、俺の顔の上で止まった。
『包みの中からは、何も見えませんでした。ですが、あなたは小さな声で2回、同じ数まで数えていました』
「見張りが1周する間の、呼吸の数だ」
『それから、あなたは長い時間動きませんでした。会うための計算をしているのだと推定しました』
「会うための計算だ」
俺は床に座り、壁に背をつけた。濡れた足の布が冷たかった。
「計算したら、会わない方がいいと出た」
『理由を記録します。教えてください』
「見張りは教会の者だ。宿場からの報告は、今日もう届いてる。見張りは、あいつが毎晩窓から西を見てることまで知ってる。俺が今夜会えば、明日の朝には、あいつは帰ってきた空の器に会った娘になる」
『会わなければ』
「抗議した娘のままだ」
言ってから、それも大して違わないと思った。それでも、違う。
俺は胸元から記録帳を出した。シグの単眼の光を紙の上へ向けさせ、炭筆を当てる。
『落下から推定340日。ベルガルドへ入った。染物屋の排水路の格子は、外れたままだった』
『養護院に見張りが2人。胸に聖印。宿場からの報告は今日届いた』
『ミアは2階の窓にいた。西を見ていた。無事だった』
最後に、1行足した。
『会わなかった』
炭筆を止めた。その行だけ、字が少し傾いていた。
『記録しました』
「お前の方には」
『あなたが書いたことと、あなたが焼却炉の陰に、どれだけの時間しゃがんでいたかです』
「どれだけだ」
『聞きますか』
俺は少し考えた。
「いい」
『では、聞かれるまで保存します』
床板の下で、青い筋の混じった水が、途切れずに流れていた。
荷の中に、食べる物はもう何もない。明日の分は、明日どこかで稼ぐしかなかった。
それとは別に、確かめたいことが1つあった。宿場の台所では、生贄のおかげで魔物が止まったことになっていた。俺は足場の上で角笛を聞いている。だが、俺が覚えているだけでは、誰も信じない。
あの夜の順番を書いた紙が、この壁の内側のどこかにあるはずだった。




