城壁が見える
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それでは、どうぞお楽しみください。
夜明け前の街道には、誰もいなかった。
宿場の司祭は、日が昇る前に街道を見回る。台所の女はそう言った。見回りが始まる前に、宿場の屋根が見えないところまで離れておきたかった。
昼に出た使いは、もうベルガルドに着いている。城壁の下に着いても、俺の話はもう門の内側にある。荷に残っている食べ物は、昨日もらったパンが1つだけだった。
俺は積み藁の陰から出て、包みの口を開けた。
「平らなところは、お前が歩く約束だ」
『人目がある場所では、私は包みの中にいる約束でもあります』
「今は誰もいない。明るくなったら戻れ」
『了解しました』
シグは3本の脚を伸ばし、踏み固められた土の上へ下りた。補助輪が小さく鳴る。右の脚が少し遅れるが、斜面ほどではなかった。俺たちは並んで東へ歩いた。
街道の両側は畑だった。刈り入れの済んだ麦の株が、灰色の空の下にどこまでも並んでいる。奈落を出てから、こんなに開けた場所を歩くのは初めてだった。
『身を隠せる場所が少ないです』
「だから、暗いうちに距離を稼ぐ」
東の空が白み始めたところで、シグを包みへ戻した。目の布は、首に下ろしたままにした。朝日を正面から見なければ、涙はもう出なかった。
昼までに、荷車と3回すれ違った。そのたびに、俺は街道を外れて畑の畦へ下りた。御者は俺を見ても、声をかけなかった。裸足にぼろを着た男が畑の端を歩いていても、ここではそれほど珍しくないらしい。
1度だけ、白い法衣を着た男が驢馬に乗って西から来た。
俺は畦の溝に身を沈め、通り過ぎるまで待った。法衣の男は前だけを見ていた。胸の前で揺れる聖印が、日を受けて光った。
『教会の者ですか』
包みの中から、小さな声がした。
「たぶんな。昨日の使いとは限らない」
『喋るべきではありませんでした』
「今のはいい」
俺は溝から出て、また歩いた。昼を過ぎた頃、残しておいたパンを食べた。これで食料はなくなった。水だけは、街道沿いの水路でいくらでも汲めた。
街道が低い丘を上りきったところで、俺は足を止めた。
東の平地の先に、黒い線があった。城壁だった。
見上げるほどの高さまで、黒い石が積み上がっている。その上に塔が等間隔に並び、塔の間を細い影が動いていた。見張りの兵だろう。
西の門が見えた。1年前、杭と丸太が運び込まれていった門だ。城壁の上には、太い腕を持つ弩砲が今も据えられていた。城壁の内側からは、細い煙が何本も上がっている。夕飯の支度にはまだ早い。鍛冶場か、鉱石を焼く窯か。
黒鐘城塞都市、ベルガルド。
俺は丘の上の石柱の陰へ座り込んだ。しばらく、何も言えなかった。
『レイ』
「見えてる」
『何が見えるのか、教えてください。私は包みの中です』
俺は包みの口を少しだけ開けた。シグの単眼が外をのぞき、城壁の方向で止まった。
『あれが、ベルガルドですか』
「そうだ」
『大きいです。忘都の外郭より、高さは低いですが』
「比べるな」
『比べないと、記録できません』
城壁の西の端に、目を移した。外壁の角から、細い道が山の方へ折れていた。道は岩壁に沿って上り、北西の山襞の中へ消えている。その先は、ここからは見えない。
見えなくても、道の終わりに何があるかは知っていた。松明の並んだ山道と、古い石の足場と、開いた石板の口。
黒淵だ。
俺はそこから目を離し、城壁の南へ視線を動かした。平地の端の丘が、1か所だけ白く削られていた。採石場だった。削られた斜面の下に、黒い点がいくつも並んでいる。倒れたまま片づけられていない杭かもしれなかった。
あそこで、砕城犀は死んだ。俺が落とされる前に。
「正面から入ったら、どうなる」
俺は城壁を見たまま言った。
『推定を求めていますか』
「俺も考える。お前も考えろ」
『門には兵がいます。入る者を調べます』
「俺の顔を知ってる兵は多い。広場で聖板に触ったのも、雨の中を歩かされたのも、全部見られてる」
頬はこけ、髪は伸び、額にも傷が増えた。それでも、あの行列で石を投げた者の中に、俺の顔を覚えている者はいる。
『見つかった場合、次に起きることを推定します』
「言え」
『生贄が帰った、という話になります。宿場の台所の話し方から推定すると、その話は1日で街中に広がります』
「それから」
『昨日、宿場の司祭がベルガルドの教会へ使いを出しました。山で会った、素手で剣を折る男のことです。教会は、その男とあなたを結びつける可能性があります』
「その次だ」
シグの単眼が、1度明滅した。
『黒鐘養護院が調べられます』
俺は頷いた。
1年前、七柱の石板が並ぶ部屋で、イレーネは言った。彼女を捕らえれば、あなたは逃げない。あいつは、俺を動かすためにミアを使う方法を知っている。知っていて、1度は使わずに見せた。
今、正面から門をくぐれば、ミアは抗議した娘ではなくなる。帰ってきた空の器の、仲間になる。
「正面からは入らない」
『では、どうしますか』
「夜を待つ」
俺は、1年前のあの部屋を思い出した。石板の下の隙間から、煤まみれで出てきたミア。床に広げた、手描きの地図。
地図そのものは、もう持っていない。だが、ミアが言った言葉は残っていた。
「染物屋の裏に排水路がある。昨日の雨で水は多いけど、格子が1つ外れてる。そこから外壁の下へ出られるって、年長の子が――」
『それは、誰の言葉ですか』
「ミアだ。俺を逃がそうとしたときの」
『記録帳には書かれていません』
「書いてない。覚えてるだけだ」
シグは少し黙った。
『その格子は、1年後の今も外れていますか』
「分からない。直されてるかもしれない」
『直されていた場合は』
「壊せば通れる」
『あなたなら、壊せます』
「壊せば、朝には誰かが気づく。気づかれたら、夜のうちに誰かが入ったと分かる」
『では』
「直されてたら、引き返して考え直す」
シグの単眼が、城壁の東の方へ動いた。
『排水路の出口は、どちらにありますか』
「水は低い方へ流れる。山は西だ。なら、出口は東の外壁の下だ。川の方だと思う」
『推定ですね』
「推定だ」
俺は立ち上がり、街道から外れた畑の中を指した。
「日が落ちる前に、城壁から離れたまま南を回って、東へ出る。それまで兵の目に入る場所は歩かない」
『もう1つ、確認させてください』
包みの中から、シグが言った。
『中へ入った後、あなたは養護院へ行きますか』
「行く」
『ミアに会いますか』
すぐには答えられなかった。会いたかった。それだけは、考えるまでもなかった。
だが、会えば何が起きるか。夜中に塀を越えて、生きている俺がミアの前に立つ。ミアは声を上げるかもしれない。上げなくても、誰かに見られるかもしれない。見られなくても、ミアはその夜から、俺が生きていることを1人で抱えることになる。
「まず、外から見る」
『外から』
「塀の外から、あいつが無事かどうかを確かめる。養護院の周りに、誰がいるかも」
『会わないという選択肢も、含まれていますか』
「含まれてる」
言ってから、自分の声が思ったより低いことに気づいた。
『記録しました』
「お前は包みの中にいろ。何を見ても喋るな」
『私を置いていく選択肢は、ありますか』
「ない。連れていく」
『理由を要求します』
「今夜見たものを、明日の俺が間違えるかもしれない。お前が見ていれば、間違えない」
シグの単眼が、ゆっくり明滅した。
『了解しました』
日が傾くまで、俺たちは城壁から離れた畑の端を歩いた。
南の採石場の手前で、川へ出た。城壁の東側から流れ出てくる川だった。川沿いの葦の茂みに身を沈め、城壁の東の角を見上げた。
西の空が赤くなり、やがて、その赤も沈んだ。城壁の上に、ぽつぽつと明かりが灯った。魔導灯の白い光だった。塔の窓にも、同じ光が入る。
そのとき、鐘が鳴った。城壁の内側から、低い音が1つ。間を置いて、もう1つ。
俺は数えた。7つ目が鳴り、余韻が川面へ消えた。1年前と同じ数だった。
『この鐘を知っていますか』
「知ってる。毎朝と毎晩、7つ鳴る」
『あなたは、この音を覚えていますか』
「数は覚えてる」
それ以上は言わなかった。鐘の音は、今ここで聞いたものだった。1年前に聞いた音と同じかどうかは、比べようがなかった。
川の匂いがした。冷たい水と、泥と、上流の街から流れてくる何かの匂い。城壁の東の角の下から、水の落ちる音が聞こえていた。細く、途切れない音だった。
俺はそちらを見た。暗くて、形は分からない。
「もう少し待つ」
『見張りの交代を待ちますか』
「城壁の上の明かりが、動かなくなるまでだ」
俺は葦の中で膝を抱え、胸元の記録帳に手を当てた。
『行き先、黒鐘養護院』
地上へ出た最初の日に、そう書いた。行き先は、あの壁の向こうにある。そして使いの話も、もう同じ壁の向こうにある。
城壁の上の白い光が、1つずつ止まっていった。
俺は、水の音のする方へ立ち上がった。




