生贄の噂
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それでは、どうぞお楽しみください。
荷車の道は、夕方近くになって街道へ出た。
草に埋もれた轍が急に途切れ、踏み固められた広い土の道に変わった。道の両側には石を積んだ低い塀が続き、その先に屋根が並んでいた。宿場だった。
朝に最後の黒パンを、昼に残りのクルミを食べた。それからは何も口にしていない。水は足りているが、食べる物も金もない。
そして炭運びの老人は、街道へ出てすぐのこの宿場で、司祭に俺のことを話すと言っていた。食べる物を手に入れられるのはここしかない。俺の話がいちばん先に届いているのも、ここだった。
家は20軒ほど。街道に面して宿が3つと、厩、井戸、鍛冶場らしい煙の出る小屋がある。少し離れた丘の上に白い壁の小さな教会があり、屋根の上に七柱の印を刻んだ円盤が掲げられていた。
俺は塀の陰で足を止め、背中の包みを布の上から軽く叩いた。
「ここからは喋るな」
包みの中から、返事はなかった。了解の合図だと決めていた。
目の布を首まで下ろし、宿場へ入った。街道には荷車が2台止まっていた。1台は布をかけた木箱を積み、もう1台は空だった。厩の前で、見覚えのあるラバが飼い葉を食べていた。背の黒い袋は、もう下ろされている。
俺は道の反対側へ寄った。老人の姿は見えなかった。
いちばん大きな宿の裏へ回ると、女が1人、井戸から水を汲んでいた。年は40を過ぎたくらいだろう。袖をまくった腕が太く、桶を2つ同時に持ち上げていた。
「水を運ぶ。薪も割る」
俺が言うと、女は桶を持ったまま振り返った。
「何だい、いきなり」
「代わりに、食べるものがほしい」
女の目が、俺の顔から足元へ下りた。裂けた服と、布を巻いた両足で止まった。
「金は」
「ない」
「物乞いなら、教会の裏へ行きな。司祭様が朝に粥を配ってる」
「働く」
女はしばらく俺を見ていた。それから、顎で宿の裏手を示した。
「そこの薪を全部割りな。桶も竈の横の甕が一杯になるまで。済んだらパンとスープだ」
「分かった」
「逃げたら、うちの亭主が追いかけるよ」
「逃げない」
女は鼻を鳴らし、裏口の中へ入っていった。
薪の山は、俺の肩ほどの高さがあった。切り株の上に1本立て、壁に立てかけてあった斧を取った。柄は手の脂で黒く光っている。
握った。乾いた木の柄がざらついていた。それ以上のことは、手に返ってこなかった。
振り上げて、下ろした。薪は真っ二つに割れた。刃は止まらず下の切り株へ深く食い込み、切り株に太い亀裂が走った。
俺は柄から手を離した。クルミと同じだ。力を入れたつもりはなかった。入れないつもりで握っても、右手は加減を返してこない。
斧を切り株から引き抜いた。今度は柄を強く握らず、持ち上げるだけにして落とす。刃の重さだけで、薪に当てる。刃は半分まで食い込んで止まり、もう1度落とすと、薪が左右へ倒れた。
それでいい。
俺は同じことを繰り返した。持ち上げる。落とす。握らない。
裏口の中は宿の台所になっていて、戸は開いたままだった。煮込みの匂いと一緒に、話し声が外へ流れてきた。
「ベルガルドは、もう落ち着いたもんだよ」
男の声だった。台所の奥で、客が女と話しているらしい。
「去年は大変だっただろう。砕城犀だったか」
別の男が言った。こちらは声が高い。
「ああ。白金位だの何だの、城壁より大きいだの。俺は荷を積んで逃げる算段までしたさ」
「それが、一晩で片づいた」
「生贄のおかげだろう」
女の声だった。鍋をかき回す音が混じる。
「空の器を黒淵へ落としたら、その夜のうちに止まったって。角笛が7度鳴ったそうじゃないか」
俺は斧を持ち上げ、落とした。薪が割れた。
「ゼロ持ちの小僧だったんだろう」
高い声が言った。
「神印が1つもない。聖板が1枚も光らなかったってな」
「養護院の子だよ。灰鐘村の生き残りだって話だ」
「ああ、あの村か。あれも魔物に食われたんだろう。その子だけ残ったって」
「災いを呼ぶ子だったんだよ、きっと」
女が言った。悪意のある声ではなかった。天気の話をするのと同じ調子だった。
「気の毒だけどね。そういう子は、いるもんさ」
「今ごろは骨も残っちゃいないだろう。黒淵へ落ちて帰った者はいない」
次の薪を立てた。持ち上げる。落とす。握らない。刃は薪の真ん中で止まり、もう1度落とすと割れた。
「けどよ」
最初の男が、少し声を落とした。
「兵隊は、その前から弩砲だの杭だの並べてたぞ。倒れた後は、外殻を荷車で何台も運んでた。俺はその荷車の車輪を直したんだ」
「生贄で止まった魔物を、兵隊が片づけただけさ」
「そうかね」
「そういうことは、あんまり言わない方がいいよ」
女の声が、少しだけ硬くなった。男は笑って、それ以上言わなかった。
俺は、切り株に立てた薪を見ていた。角笛は、俺が落とされる前に鳴った。長く1度。短く7度。ヴァルターが砕城犀討伐と呟いたのを、俺は足場の上で聞いた。
あの夜、魔物はもう死んでいた。それでも石板は開いた。ここでは、俺が落ちたから魔物が止まったことになっている。
俺は斧を下ろした。薪が割れた。
「そういえば、娘がいたろう」
高い声が言った。
「広場で、司祭様に食ってかかった娘」
「いたいた。代官様にもだよ。生贄で止まる証拠はあるのかって」
女が笑った。呆れたような笑い方だった。
「養護院の娘でね。その小僧の妹分だとか。血はつながってないらしいけど」
「最後は鉄門の先の山道まで追いかけていって、返せって叫んだそうだ。兵隊が3人がかりで引き離したって」
「度胸があるのか、分かってないのか」
「今はどうしてるんだい、その娘」
「さあね。養護院にいるんじゃないか。空の器の仲間だって言う人もいるけど」
俺の手の中で、斧の柄が鳴った。乾いた、短い音だった。見下ろすと、握った場所の木に細い亀裂が走っていた。
俺は指を開いた。1本ずつ、柄から離した。
抗議した娘。空の器の仲間。
ミアの名前は、1度も出なかった。俺の名前も出なかった。ゼロ持ちの小僧と、その妹分。宿場の台所では、それで足りるらしかった。
「それより、山の話を聞いたかい」
女が話を変えた。
「今朝、炭焼きの爺さんが司祭様のところへ来てたんだよ。古道で妙な男に会ったって」
「妙な男?」
「裸足で、ぼろを着て、素手で野盗の剣を折ったって。背中に、喋る古い遺物を背負ってたってさ」
高い声が吹き出した。
「山の亡者か。爺さん、酒でも飲んでたんだろう」
「司祭様は笑わなかったよ。昼には、ベルガルドの教会へ使いを出した」
台所が、少しだけ静かになった。
老人は、言ったとおりにした。荷を守ったことも話すと言っていたが、台所まで届いたのは、剣を折ったことと背中の遺物のことだけだった。
俺は薪の山を見た。あと10本ほど残っている。
足音が裏口へ近づいた。女が、湯気の立つ木の椀とパンを持って出てきた。割られた薪の山を見て、それから切り株の亀裂を見た。最後に、亀裂の入った斧の柄を見た。
「……ずいぶん力があるんだね」
「悪かった。柄を割った」
「柄なんか、亭主がまた付けるさ」
女は椀とパンを差し出した。俺は受け取った。パンは2つあった。
女の目が、俺の背中の包みへ動いた。それから、布を巻いた両足へ。何も言わなかった。
「残りも割る」
「いいよ、もう。十分さ」
女は裏口の戸に手をかけ、振り返らずに言った。
「あんた、名前は」
「言わない」
「そうかい」
女はしばらく黙っていた。
「司祭様は、朝が早いよ。日が昇る前に起きて、街道を見回るんだ」
戸が閉まった。
宿場を出たのは、日が落ちきってからだった。街道を東へ少し歩き、畑の端の積み藁の陰へ座った。
スープはまだ温かかった。豆と、何か分からない根が入っていた。俺はそれを飲み、パンを1つだけ食べた。もう1つは、明日に残した。
「もういいぞ」
包みの口を開けると、シグの単眼が小さく光った。
『あなたは、自分が死んだ人として話されるのを聞きました』
「ああ」
『生贄のおかげで魔物が止まった、とも』
「止まってない。俺が落ちる前に死んでた」
『その記録は、あなたの記録帳にあります。角笛の回数も』
「覚えてる」
シグの単眼が、ゆっくり明滅した。
『ミアのことも、聞きました』
俺はすぐには答えなかった。東の空の下に、明かりは見えない。ベルガルドは、街道を1日の先だ。
「空の器の仲間、だそうだ」
『あなたが生きていると知られた場合、その言葉がどう変わるか、推定できますか』
「できる」
それ以上は言わなかった。
記録帳を開き、月明かりで書いた。
『落下から推定339日。街道の宿場。薪を割ってパンとスープをもらった』
『生贄のおかげで砕城犀が止まった、と言われていた。俺は死んだことになっている』
『ミアは、抗議した娘と呼ばれていた。空の器の仲間だと言う者もいる』
『宿場の司祭が、ベルガルドの教会へ使いを出した』
最後の行を書いてから、炭筆を止めた。名乗らなかった。名乗れば、あの台所の話は、明日には別の話になる。
『記録しました』
「日が昇る前に出る」
『司祭が街道を見回る前に、ですね』
「そうだ」
俺は積み藁に背を預けた。藁の匂いがした。遠くで、宿場の犬が1度だけ吠えた。
昼に出た使いは、もう街道のずっと先にいる。明日、俺が城壁の下に着く頃には、ベルガルドの教会は、山から下りてきた男の話を聞き終えているはずだった。




