灰の村
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それでは、どうぞお楽しみください。
分かれ道に、2本目の石柱が立っていた。
休み小屋を出て2日目の昼前だった。炭運びの老人は、この道を東へ下れば2日で街道へ出ると言った。荷の中の食べる物は、もう数えるほどしか残っていない。寄り道をしている余裕は、どこにもないはずだった。
道はそこで二手に分かれていた。本道は東へ下り続け、細い方は南の谷へ折れている。石柱は石橋の袂にあったものと同じ形で、膝ほどの高さの表面を苔が覆っていた。
南を向いた面を、指でこそげた。矢の形が出てきた。その横に、2つの文字が彫られていた。
俺は、しばらく手を止めた。
『レイ。読み上げてください』
背中でシグが言った。
「灰鐘」
『あなたの記録帳の、最初の頁にある地名です』
「知ってる」
最初の頁の2行目に、ミアの字で書かれている。『18歳。灰鐘村の生き残り。』。俺はその1行を、何度も読んできた。読むたびに、自分のことが書いてあると分かった。分かるだけだった。
文字の下には、もう1つ図が彫られていた。丸の中に、放射状の線が何本か走っている。
『これは何ですか』
「車輪だ。荷車が通れる道、という印だと思う」
『南の道は、荷車の道ですか』
俺は細い道を見た。2本の轍の跡が、かろうじて分かる。だがその間には草が腰まで伸び、道の真ん中から細い木が何本も生えていた。俺の背より高いものもある。
「だった、だな」
何年も、誰も通っていない。
『寄り道をしますか』
シグが聞いた。
「食料は」
『菌床が今日の分で終わります。黒パンが1つ。クルミが2つ。水は十分です』
「荷車の道なら、どこかで大きな道へ下りてる。村から城塞へ荷を運んだはずだ」
『それは推定ですか』
「推定だ」
『遠回りになる可能性があります』
「分かってる」
俺は石柱から手を離した。
行って何かを思い出すとは思っていなかった。7歳より前のことは、探しても何も出てこない。黒淵へ落とされる前、浄化の前に身体を調べられ、イレーネに聞かれたときもそうだった。村の名前。山があった。鐘があった気もする。答えられたのは、それで全部だった。
「思い出しに行くんじゃない」
『では、何のためですか』
「記録帳に書いてある場所を、自分の目で見ておく」
シグは少し黙った。
『記録と照合する、ということですね』
「そういうことにしておけ」
俺は南の道へ足を踏み入れた。草が膝に絡み、左膝が鈍く痛んだ。
谷へ下りる道は、1時間ほどで開けた。
山に囲まれた、小さな窪地だった。底を細い沢が流れ、両側の斜面は灰色の岩肌が剥き出しになっている。沢の石も、どれも同じくすんだ灰色だった。斜面の中ほどに横穴の入口が見え、打ちつけた板で塞いである。板は黒く腐り、半分落ちていた。
「鉱石を掘ってたんだな」
『岩肌の色と、沢の石の色が一致しています』
窪地の平らなところに、家の土台が並んでいた。四角く組まれた石が、草の中にいくつも続いている。壁も屋根もない。石の上に残っているのは、黒く焦げた柱の根元だけだった。
俺は目の布を外した。谷の中は日が遮られ、光は目に刺さらなかった。
『基礎と推定される石組みを数えます』
シグを背中から下ろすと、3本の脚が草を分けて進んだ。単眼が石組みを1つずつなぞっていく。
俺は立ったまま、谷を見回した。山があった。周りは全部、山だった。どの山を見ても、見覚えがあるとは思えなかった。
『38です』
「38軒か」
『家屋と推定される基礎が38。より大きな基礎が1。ほかに、用途の分からない石組みが5つあります』
大きな基礎は、窪地の真ん中にあった。近づくと、石組みの上に黒い塊が横たわっていた。俺の背丈ほどの高さの、口を開けた釣り鐘だった。地面に半分埋まり、縁から上へ太い亀裂が走っている。表面は、沢の石と同じ灰色の金属だった。
鐘はあった。
手を伸ばし、亀裂の縁に触れた。冷たい。表面はざらつき、指に灰色の粉がついた。それだけだった。鐘の音は浮かばなかった。この鐘の前に誰かと立った覚えも、見上げた覚えもない。
違和感に気づいたのは、土台の石を見て回っているときだった。
焼けた石が多すぎた。
家の土台は、どれも黒く焦げていた。それはいい。家が燃えれば、土台も焼ける。だが、焦げ方が深すぎる。土台の石が熱で割れ、ところどころ層になって剥がれていた。
「シグ。養護院の竈の石は、毎日火を焚いても、ここまで割れなかった」
『竈の火より高い温度で焼かれた、ということですか』
「それに、全部だ」
俺は沢の向こうを指した。
「沢の向こう岸の家も、同じように焼けてる。風で火が移ったなら、沢を越えた先は焼け方が弱くなるはずだ」
『38の基礎の焦げ方に、目立った差はありません』
「村の端から端まで、同じだけ燃えた」
焦げた柱の根元に指をかけると、炭になった木が崩れて落ちた。
『あなたの推定を聞かせてください』
「推定はない。変だと思っただけだ」
魔物は火を使わない。少なくとも俺は、火をつける魔物を知らない。それ以上は考えなかった。考える材料がなかった。
骨は、鐘の周りに集まっていた。
最初は、白い石だと思った。草の間から、形の揃わない白いものがいくつものぞいている。1つを持ち上げると、軽かった。獣の頭の骨だった。狼に似ているが、牙が上下に2列ある。その隣にも、また隣にもあった。
『同じ形の頭骨が、ほかにもあります』
シグの単眼が、草の間を順に照らした。
『頭骨と推定されるものが、少なくとも27。形状から、3種類以上。すべて人間のものではありません』
「27」
俺は頭骨を下ろし、周りを見た。
38軒の村だ。大人が100人いたかどうか。鉱石を掘る男たちと、薬草を摘む女たちと、子供と年寄り。その村が、これだけの魔物を殺せたとは思えなかった。
骨を1つずつ見ていった。矢の跡がない。鏃が刺さったままの骨もない。刃が当たった切り口も見つからなかった。代わりに、太い脚の骨が真ん中で折れていた。頭骨の1つは、横から押し潰されたように割れている。
枝で、骨の下の土を掘った。草の根の下から、黒い層が出てきた。灰だった。骨は、その灰の上に載っていた。
『骨が、灰の層の上にあります』
「村が燃えた後で、死んだってことだ」
『その推定は、観測と矛盾しません』
もう1つ、気づいたことがあった。
牙が、残っていた。2列の牙も、爪のついた足の骨も、そのままだった。山で獲った魔物の牙や皮は、売れる。兵が魔物を倒せば、倒したものは持ち帰る。
ここでは、誰も持ち帰らなかった。
村の東の端に、低い盛り土が並んでいた。
石を1つずつ載せただけの墓だった。数えかけて、やめた。名前を刻んだ石は1つもない。
俺はその前に立った。どれかに、俺の父親と母親がいるのかもしれない。いないのかもしれない。どれが誰かは分からない。分かったとしても、俺はその顔を知らない。
『レイ』
「何だ」
『あなたの心拍が、少し上がっています』
「歩いたからだ」
『そうですか』
シグはそれ以上聞かなかった。
墓から目を離し、鐘の方を振り返った。
養護院で、年上の子供たちが話していたのを覚えている。俺が見つかったとき、魔物の死骸に囲まれて座っていたと。傷ひとつなく、泣きもしなかったと。だから、あいつは呪われている。村を食わせて、自分だけ残ったのだと。
その話を、俺は疑ったことがなかった。自分が覚えていない以上、否定する材料もなかった。
だが、今は1つだけ分かる。
鐘の周りに転がっている骨の数を、7歳の子供が生き延びられる数だとは、どうしても思えなかった。
「シグ。誰が、これを殺した」
『不明です』
「そうだな」
俺も知らない。知らないことが、今までより少しだけ重かった。
日が山の端にかかると、窪地の中は早く暗くなった。
俺は鐘の土台の陰に火を起こさずに座り、残りの菌床を食べた。これで終わりだった。黒パンは明日に残した。荷車の道が明日のうちに大きな道へ出なければ、その先に食べる物はない。
記録帳を開き、最初の頁の2行目を指でなぞった。『18歳。灰鐘村の生き残り。』。それから後ろの空いた頁を開き、炭筆を当てた。
『落下から推定338日。灰鐘村の跡。家の土台38。割れた鐘が1つ。何も思い出さなかった』
『焼けた石が多すぎる。村の端から端まで、同じだけ焼けている』
『魔物の骨が多すぎる。27以上。灰の上にある。矢と刃の跡がない。牙が残っている』
『誰が殺したのか、分からない』
書き終えてから、しばらく最後の1行を見ていた。
『記録しました』
「お前の方には、何と残した」
『あなたが書いたことと、あなたが墓の前で3分11秒立っていたことです』
「そこまで要るのか」
『あなたが何も思い出さなかったことも、ここへ来たことも、事実です』
俺は記録帳を閉じた。
夜風が窪地を下りてきて、割れた鐘の口の中で低く鳴った。
音と呼べるほどのものではなかった。それでも俺は、しばらくその方を見ていた。




