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転移の残り香

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それでは、どうぞお楽しみください。

小屋の裏の斜面は、西へ向かって急に上っていた。


俺は目に巻いた布を額まで押し上げ、風の来る方を見た。まだ日は稜線の陰にある。この時間なら、目はそれほど痛まない。


ラバが首を向けて動かなかったのは、この斜面の上だった。その先の山の中ほどに、俺たちが出てきた石室がある。そこから何かが下りてきているなら、東へ下る俺の道も、炭運びたちが帰っていった道も、同じ1本の道だった。


左膝は、上りになると熱を持つ。荷の中の菌床(きんしょう)は残りわずかで、黒パンが1つ。見に行けば、そのぶん東へ進む時間が減る。それでも、背中から何が来るのか分からないまま歩く気にはなれなかった。


「シグ。ここで待て」


『理由を要求します』


「ラバが嫌がったものを見てくる。すぐ戻る」


『あなたの左膝は、斜面の上りで負荷が増大します。同行すれば、あなたは私を背負うことになります』


「だから待てと言ってる」


『では、戻る時刻を決めてください』


「日が小屋の屋根にかかるまでだ」


『記録しました』


シグは3本の脚を畳み、湧水の脇の岩陰へ身体を寄せた。単眼の光が細くなる。俺は杖代わりの枝を突き、斜面へ足をかけた。


落ち葉は夜露で湿っていて、踏むたびに柔らかく沈んで音を消した。


斜面を100歩ほど上がったところで、風の匂いが変わった。甘い臭いだった。熟れすぎた果物に似ている。その底に、乾いた灰の匂いが混じっていた。


俺は足を止め、息を吸い直した。間違いではなかった。


この匂いを、俺は知っている。落とされて最初に目を覚ました場所。灰と骨と破れた布が積もった、奈落(ならく)の底の匂いだった。地上の山で嗅(か)ぐはずのない匂いだ。


俺は枝を左手に持ち替え、右手を空けた。武器はない。硬殻(こうかく)Lv.3なら、手のひらに張れる。それ以上のことは、見てから決める。


風上へ、斜面を横切るように進んだ。木々の間に、浅い沢筋が1本刻まれていた。水は流れていない。雨の日だけ水が走るのだろう。乾いた石と倒木が段になって続いている。


その底に、鹿が倒れていた。いや、鹿だったものだ。首から腹までが開かれ、中身はほとんど残っていない。脚の骨が2本、根元から折られていた。肉を噛(か)み切ったのではなく、関節をねじって外した跡だった。


しゃがんで周りの土を見ると、鹿の血を吸った土に足跡が重なっていた。


人の足に似ている。踵(かかと)があり、指が5本ある。だが、指が長すぎた。人なら指の腹が残る場所に、細い穴が1つずつ深く刺さっている。爪だ。踵(かかと)の跡は浅く、指先の跡が深い。つま先で跳ねるように歩いている。


大きさは2つあった。大きい方は俺の足より長く、小さい方は少し短い。


俺は、その形も知っていた。


灰の中で最初に倒した相手の足だった。灰色の皮膚と白く濁った目、裂けた頬。首に鎖を食い込ませたまま動かなくなった、あの身体の足と同じ形をしている。


グールの足跡だった。


足跡の縁を指でなぞった。崩れていない。夜露を吸って少し丸くなっているが、雨には打たれていない。鹿の傷口も、まだ黒く乾ききっていなかった。蠅(はえ)がたかり始めたばかりだ。


昨日の朝か、その後だ。老人が見たという、東へ逃げた鹿3頭。その群れから、1頭がここで捕まったのかもしれない。


足跡は沢筋の上、西から下りてきていた。俺は沢筋に沿って10歩だけ上った。倒木の上に、同じ爪の跡が引っかき傷のように残っている。さらにその先、苔(こけ)の剥(は)がれた石の上にも。


西の、山の上から来ている。


振り返って、今度は下を見た。足跡は鹿のところで入り乱れ、そこから北へ折れていた。斜面を横切り、古道とは反対側の林の奥へ続いている。道へは下りていない。


北の林は木の間が暗く、何も動かなかった。匂いだけが、風に薄く残っていた。


追えば、たぶん追いつく。


追いついたとして、素手で2体を相手にする。奈落(ならく)でなら、そうしてきた。だが今の俺には刃物もなく、左膝は斜面で熱を持ち始めている。食べる物は、人のいる所まで下りきる分もない。倒せるかどうかではなかった。倒した後に歩けるかどうかだった。


俺は立ち上がった。


追わない。


それを決めるのに、思ったより時間がかかった。


小屋へ戻ると、日はちょうど屋根の端にかかっていた。シグは岩陰から単眼を上げた。


『時刻どおりです。何がありましたか』


「鹿が食われてた」


『狼ですか』


「グールだ」


シグの単眼が、1度だけ大きく明滅した。


『地上に、グールが生息しているのですか』


「知らない。少なくとも、俺は聞いたことがない」


俺は湧水の前に膝をつき、鹿の血に触れた指を洗った。


「ベルガルドの近くで出る魔物は、山から下りてくる獣みたいなやつだ。魂蝕獣(こんしょくじゅう)でも、狼でも。グールがいるなんて話は、子供の脅し文句でも聞いたことがない」


『炭運びの老人も、狼を疑っていました』


「そうだ。この辺りの人間は、あの足跡を知らない」


『臭いはありましたか』


「あった。奈落(ならく)の底の臭いだ。最初に落ちた場所の」


『足跡の向きを教えてください』


「西の上から下りてきて、鹿を食って、北の林へ入った。2体だ」


『西の上。転移施設跡の方角です』


「分かってる」


今朝も、同じ返事をした。分かっていて、口に出していないことがあった。


俺は小屋の壁に背を預け、息を吐いた。


「シグ。あの石室の壁の文字を、もう1度読め」


『地上受入区画。第――転移――。経路 閉――。以上です』


「閉じたんだろう、と俺は言った」


『はい。あなたの推定として記録しています』


「お前は、どう思う」


『推定を述べてもよいですか。確度は低いです』


「そのために聞いてる」


シグは接続棒を少しだけ伸ばし、湧水の脇の土に短い線を3本引いた。数えるときの癖だった。


『1つ目。第12層の転移設備の表示は、「帰還経路 待機」のように、経路の名前と状態を並べる形でした。石室の「経路 閉――」も同じ形なら、閉じた、とは限りません。閉じている途中なのか、閉じる手順を待っているのか。第12層で私が見た状態の表示に、「閉」で始まるものはありませんでした』


1本目の線の横に、小さな点が打たれた。


『2つ目。私たちが出発した側の設備は、今も動いている可能性があります。竜心(りゅうしん)を壊したことで、転移設備への供給は戻りました。私たちは接続片を差し直して転移しましたが、設備を止める手順は実行していません』


「止め方を知らなかった」


『私も知りませんでした』


2本目の線の横にも、点が1つ増えた。


『3つ目。こちら側の台座は、到着した時点で割れていました。割れたことで経路が閉じたのか。閉じる役目の台座が割れたために、閉じられなくなったのか。私の記録からは判断できません』


俺は、割れた台座を思い出した。中央から裂け、片側が拳1つ分沈んでいた。白い線はどこも光っていなかった。光っていないから、死んでいると思った。


『そこに、今日の観測が加わります』


シグは3本の線の先に、横へ1本線を引いた。


『ラバと山の獣の異常は、ここ何日か、と老人は言いました。私たちが地上へ着いたのは、推定で3日前です。時期が近いです。そして、転移施設跡の方角から、地上で知られていない種類の足跡が下りてきています』


「つまり」


『帰還経路の接続が、閉じ切っていない可能性があります。推定です。断定はできません』


湧水の音だけが、しばらく続いた。


閉じ切っていない。俺たちが通ってきた道が、まだどこかで開いている。その向こうには、1年近く俺が這(は)い回った暗闇がある。


「俺たちが通った道から、あいつらが出てきたってことか」


『その可能性がある、ということです。別の理由でグールが地上にいる可能性も、否定できません』


「どんな理由だ」


『私には思いつきません。思いつかないことは、存在しない証拠になりません』


正しい言い方だった。正しいからといって、胸の奥の重さは消えなかった。


帰るために、あの設備を動かしたのは俺だ。帰りたかったのも、起動すると言ったのも俺だった。


『あなたが今考えていることを、私は記録できません。ですが、表情から推定はできます』


「何だと思う」


『自分のせいかもしれない、と考えています』


俺は答えなかった。答えなかったことも、たぶん記録された。


「確度が低いなら、なぜ今言った」


『あなたの推定を、私は記録しました。「台座が割れてるなら、閉じたんだろう」。それを修正するかもしれない材料が出たら、伝えるのが私の役割です』


「黙っていれば、俺は閉じたと思ったまま歩けた」


『はい。その方がよかったですか』


少し考えた。


「よくない」


『そう判断すると推定していました』


戻って確かめる、という考えも浮かんだ。


石室まで、ここから山道を1日半。台座はシグが接続しても応答しなかった。行っても、壁の欠けた文字の続きが見つかるとは限らない。閉じ方も知らない。そして、その間に食料が尽きる。


「戻っても、何もできない」


『同意します。現時点で、私たちが施設跡で実行できる手順はありません』


「なら、進む」


俺は荷を引き寄せ、記録帳を出した。


炭筆を当てる前に、1度だけ北の林を思い浮かべた。あの2体がどこへ向かうのかは分からない。この山のどこかに、炭を焼く村がある。老人たちはそこから下りてきた。


知らせる相手も、知らせる方法もなかった。老人たちは、もう東の曲がり角の向こうだ。追いついて、グールがいると言って、信じてもらえるとも思えない。素手で剣を折る男の言葉だ。


俺は書いた。


『落下から推定337日。休み小屋の西の斜面で、グールの足跡2つ。鹿が食われていた。西の上から下り、北の林へ』


『石室の文字「経路 閉――」は、閉じたとは限らない。帰還経路が閉じ切っていない可能性。シグの推定。確度は低い』


少し迷ってから、1行足した。


『俺の推定「閉じたんだろう」は、間違っていたかもしれない』


『記録しました』


「お前の方にも残せ」


『すでに残しています』


記録帳を閉じた。昼の光が強くなる前に、少しでも東へ進みたかった。俺はシグを背負い、石畳へ出た。


歩き出してから、1度だけ振り返った。来た道は西へ上り、木々の向こうで見えなくなっている。その先の山は、昨日と同じ形をしていた。


風はまだ、西から吹いていた。甘い臭いは、もう混じっていなかった。


それでも俺は、しばらく風の匂いを確かめながら歩いた。

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