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死者の残した道

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それでは、どうぞお楽しみください。

空腹で目が覚めた。腹の奥が縮むたびに、吐き気が喉まで上がってくる。落とされてから、水しか口に入れていない。


右手首の鎖は動いていなかった。水路の入口へ張った輪も、重ねた石もそのままで、グールが入ってきた形跡はない。眠った時間は分からない。分かるのは、この岩室に食べ物がないことだけだった。


左肩の熱は残り、右足首は布の下で腫(は)れて、床へつくだけで鈍く痛んだ。それでも、落とされた直後よりは動ける。動けるうちに動かなければ、次に目を覚ましたときには立てなくなっているかもしれない。


湧き水を飲み、脛(すね)の布を外した。新しい血は出ていない。水で洗って巻き直し、記録帳を胸元へ入れた。


探すものは決めてあった。書くための筆と、水を運ぶ器と、傷へ使える布だ。食べ物は、見つかれば口へ入れる。


俺は鎖を入口から外して腰へ巻き、暗視(あんし)を使った。岩室が灰色に浮かび上がる。矢印の示す穴へ、右足から入った。


通路は肩幅ほどの下り坂で、天井も低かった。左肩を守るため、右手を壁について身体を支えながら進んだ。3本線の印は10歩ほどの間隔で続き、分かれ道では、乾いた風の来る左の壁に刻まれていた。


印は深さも長さも揃っていなかった。古い傷の上から、新しく削り直した跡もある。最初に通った者のあとから、別の誰かが同じ印を使ったのかもしれない。人が何度も通った道なら、行き先がある。同時に、戻れなかった者もいる。


足元に、人の指の骨が3本だけ落ちていた。噛(か)まれた跡はない。俺は踏まないよう、横を通った。


やがて、崩れた岩が正面を塞いだ。3本線は岩の手前で途切れている。


右側の床に、灰の積もっていない場所があった。膝をついて顔を近づけると、岩の下に細い隙間があり、向こうから風が来ていた。誰かが通ったあとで、天井が崩れたらしい。


腹を床へつければ抜けられるかもしれない。だが、左肩を前へ伸ばせない。大きな岩の脇には、拳ほどの石が噛(か)んでいた。あれが抜ければ上の岩が少し沈み、反対側の隙間が広がるはずだった。


鎖の端を小石へ回して鉄輪へ通し、岩から2歩離れて右手で引いた。1度目は動かない。足を壁のくぼみへ置き、背中を反対側の壁へ押しつけて、右腕だけでもう一度引いた。肩から脇腹まで筋が張り、上から砂が落ちてきた。


小石が抜け、こちらへ転がった。鈍い音とともに大きな岩の右端が床へ落ち、通路全体が揺れた。左側の隙間は閉じ、右側に人の頭が通るほどの隙間が残った。


崩れる音が続かないのを待ってから、鎖を先に押し込み、記録帳を胸の中央へ移した。右腕から隙間へ入り、顔、肩、胸の順に岩の下を抜けていく。


左肩が石に触れ、痛みで身体が止まった。戻れば、もう一度ここを通ることになる。息を吐き、右腕で床を掻(か)いた。白い衣が岩に引っかかり、背中で裂ける音がした。腰まで抜けたところで、今度は右足首が岩の縁に当たった。目の前が白くなり、しばらく息ができなかった。


向こう側へ出ても、すぐには立てなかった。左肩の奥が脈打(みゃくう)ち、右足首の布は緩んで、足首が熱を持っていた。骨がずれた感触はない。


振り返ると、隙間は残っていた。帰るときにも使える。俺は鉄輪で、3本線の下へ短い1本を足した。自分がここを通った印だった。


その先は、2人が並べるほどの幅があった。床には平らな石が敷かれ、壁際には錆(さ)びた金具が等間隔に打ち込まれている。1つには燃え尽きた松明の柄が残っていた。人が作った道だ。


石畳に薄く積もった灰の上を、細い線が何本も走っていた。鎖を投げると、灰の下から指の爪ほどの白い虫が散り、壁の割れ目へ逃げ込んだ。


食べられるかもしれない。腹が鳴った。だが、毒があるかどうかも分からないものを、この身体で試すわけにはいかない。俺は追わなかった。


3本線は、ここでは刃物ではなく黒いもので描かれていた。指でこすると粉がつく。炭だった。紙へ押しつければ跡が残る。だが、壁の線を削れば帰り道が分かりにくくなるし、指についた量では数文字しか書けない。炭を使った者がいたなら、残りがどこかにあるはずだった。


通路の先に、扉のない四角い入口があった。上の石板には7つの円が刻まれ、どれも中央を縦に割られている。七柱神の印に似ていた。神の印を刻むなら、傷つけずに残すはずだ。ここにいた誰かが、わざと割ったのかもしれない。


耳を澄ましても、風の音しかしない。俺は中へ入った。


部屋は横に長く、壁際に石の寝台が6つ、中央に崩れた炉がある。野営に使われていた場所だった。


人の遺体が3つあった。入口近くで壁へ背を預けた1人は、胸骨の間に折れた矢を残している。奥の寝台の1人は、毛布の下から白骨の腕だけが出ていた。炉の前の1人は上半身を石台へ伏せ、右手を何かに重ねていた。首から上は、ほとんど骨になっている。


どれも動く様子はなかった。グールにならなかった理由は分からない。


入口の遺体の腰には短剣があったが、柄を持つと中で崩れた。刃は錆(さ)びて鞘(さや)へ貼りついている。革袋には石の鏃(やじり)と、黒く固まった薬草が入っていた。


食べられる物は、どこにもなかった。


寝台の遺体に掛けられた毛布の端を持ち上げると、骨が崩れる音がした。


「借りる」


返事はない。腐っていない部分を裂き、脛(すね)へ巻く細い布を2本と、肩を吊(つ)る幅広い布を1本取った。残りは遺体へ戻した。


炉の前の遺体の足元に、金属の水筒が落ちていた。胴の半分が潰れ、底に細い亀裂が入っている。布で塞げば使えるかもしれない。俺はそれを腰へ結んだ。


炉の灰の中に、黒い棒が見えた。細い木片の先を焼き、布を巻いて固めたものが2本ある。1本は途中で折れ、もう1本は指2本分ほどの長さが残っていた。紙の端へ線を引くと、黒い跡が残った。


炭筆だった。


折れないよう布を巻き直し、革袋の内側へ入れた。目的のものは見つかった。すぐ岩室へ戻るべきだった。


だが、炉の前の遺体が右手で押さえているものが目に入った。革表紙の薄い帳面だった。乾いた指を1本ずつ外して抜き取ると、表紙に半分消えた文字が残っていた。


『ベルガルド西方探索隊 補助記録』


ベルガルド。地上の名前だった。


最初の頁(ページ)は水を吸って貼りついていたが、中央から後ろは、ところどころ読めた。


『投下口から南へ。屍灰坑(しはいこう)の石路を発見。』


『昇降鎖、切断。上から人為的に落とされた可能性。』


頁(ページ)を押さえる指に、力が入った。この者たちは、自分から奈落(ならく)へ入った探索者だった。その帰るための鎖を、地上の誰かに切られたのだ。


『水路で2名喪失。』


『骨をまとう獣を確認。音を立てるな。群れで来る。』


『灰の下に大型の何かがいる。刃が通らない。』


骨をまとう獣。灰の下を動く、刃の通らないもの。どちらも、まだ出会っていない。後半の頁(ページ)は破り取られ、残った紙にも黒い染みが広がっていた。


一番後ろに、折り畳まれた紙が挟まっていた。通路の形を描いた簡単な地図だった。3本線、湧き水、崩落、野営跡。俺が通ってきた場所と一致している。


その先にも線は続いていた。上へ向かう線には大きな斜線が引かれ、横に小さな文字がある。


『落盤。全員で3日掘ったが、上層へ続く縦穴(たてあな)には届かず。』


違う炭で、書き足しがあった。


『投下口へ戻る道もグールの巣になった。』


『残る水、2日。』


『地上へ伝える者がいない。』


文はそこで途切れ、紙の端には、炭が折れたような黒い線だけが残っていた。


俺は斜線を指でなぞった。


上へ続く道は、ここにあった。この者たちは、そこを3日掘った。何人いたのかは分からないが、道具も仲間も、今の俺より多かったはずだ。それでも届かなかった。


片腕しか使えず、刃物も食べ物もない俺が同じ場所を掘っても、結果は変わらない。投下口へ戻る道は、目を覚ましたあの死体の山を通る。


ここへ来るまで、どこかで考えていた。人の通った道があるなら、上へ戻る道もあるかもしれない、と。その道は、俺が落ちてくるずっと前に閉じていた。


炉の前の遺体を見た。この記録を残したのが、この者かどうかは分からない。帰れず、水が尽きかけても、最後まで書き残した者がいた。


俺は自分の記録帳を開き、炭筆を持った。指が冷え、最初の線が震えた。それでも、文字は残った。


『黒パンの味を失った。』


『暗視(あんし)Lv.1を得た代償。』


『ミアの顔、声、銀の鈴、パンを分けた出来事は覚えている。』


失ったものだけでなく、残っているものも書いておく。次に何かが欠けたとき、どこまで残っていたのかが分かる。


『奈落(ならく)の第1層は屍灰坑(しはいこう)と呼ばれている。』


『湧き水の岩室を確保。3本線は人が残した道標。』


『骨をまとう獣と、灰の下を動く刃の通らないものがいる。』


最後に、ミアが書いた最初の頁(ページ)へ戻った。


『あなたの名前はレイ・クロウ。』


その下には何も足さなかった。俺の文字はミアのものより歪(ゆが)んでいたが、それでも読める。


探索隊の帳面と地図を持ち上げた。死者の物だ。だが、ここへ置けば、次に水が入り込んだときに失われる。持っていけば、少なくとも道は残る。


俺は炉の前の遺体へ頭を下げた。


「道を借りる」


地図には、野営跡から先へ延びる線が2つあった。1つは、斜線で閉じられた上り道。もう1つは、灰色に塗られた広い場所を抜け、さらに下へ続いている。その線の先に、見覚えのない2文字が書かれていた。


忘都(ぼうと)。


紙の裏にも文字があった。裏返すと、短い一文だけが、表のどの字よりも強く押しつけて書かれていた。


『上へ戻る道は閉じた。忘都(ぼうと)を目指せ。』


上へ戻れなかった者が、下を指していた。そこに何があるのかは書かれていない。帰り道がある、とも書かれていない。


だが、水が尽きていく中で、この者たちが最後に誰かへ示した行き先は、そこだけだった。


俺は記録帳を開き直し、さっき書いた行の下へ、1行を足した。


『忘都(ぼうと)を目指す。』

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