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帰る場所の味

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それでは、どうぞお楽しみください。

背後で続いていた、肉を裂く音が止まった。湿った足音が1つ、水へ入った。


振り返らなかった。走れば、右足がもたない。音を立てれば、死体の山に残っている群れまで呼ぶ。


水は、進むほど深くなっていた。足首までだった黒い流れが脛(すね)へ達し、爪で裂かれた傷へ入り込む。冷たさのあとから痛みが広がり、右足を置くたびに、捻(ひね)った足首の奥が脈打(みゃくう)った。


暗視(あんし)で見る水路は、幅が肩2つ分ほどで、天井は低かった。10歩先で右へ曲がっている。左肩は戻したばかりで、胸より上へは動かせない。右手には錆(さ)びた短い刃があり、左腕には切れた鎖を巻いていた。


鎖が石へ当たれば、居場所を教えることになる。俺は鎖を腰へ巻き直し、輪の間へ白い衣の裾(すそ)を挟んで音を殺した。生贄(いけにえ)のために着せられた白さは、血と灰で、もうほとんど残っていなかった。


俺は壁へ右手を添え、流れに逆らって進んだ。水は膝近くまで深くなり、底の丸い石が踏むたびに足を滑らせた。左肩を壁から離そうと身体を斜めにすると、そのぶん右足へ重さがかかった。


背後の水音は、1体分だけだった。死体の山で聞いたときより遅い。足を下ろす前に水面を掻(か)き、底を確かめてから進んでいる。水には慣れていないのかもしれない。それでも、今の俺より遅いとは言えなかった。


曲がり角を抜けた先、右の壁に腰の高さの裂け目があった。人が横向きでやっと入れる幅で、中に水は来ていない。


隠れられるかもしれない。行き止まりなら、捕まる。


背後の足音が、曲がり角へ近づいた。あと4歩ほどだ。考えている時間はなかった。


俺は裂け目へ身体を入れた。左肩が岩へ触れ、漏れかけた息を歯で止めた。横向きのまま奥へ進み、刃の先で前を探ると、2歩で壁に当たった。


行き止まりだった。


外で水が跳ね、グールが裂け目の前を通り過ぎていった。俺が水路を進み続けたと思ったらしい。


だが、数歩先でその音が止まった。鼻を鳴らす音が、こちらへ戻ってくる。


脛(すね)から垂れた血が、裂け目の入口にも付いていた。


俺は刃を握り直した。この狭さなら、一度に入ってこられるのは頭と片腕だけだ。目か喉を狙える。


ただ、倒せたとしても、また魂喰(こんじき)を使うつもりはなかった。暗闇を見る力は、もう持っている。同じものを喰らって何が手に入り、何を取られるのかは分からない。黒パンの味の次に何が抜けていくのかを、今は確かめたくなかった。


灰色の指が、裂け目へ入ってきた。爪が岩をなぞり、入口の血の跡に触れる。続いて肩がねじ込まれ、白く濁った片目が見えた。頬の皮膚が岩に押しつぶされても、グールは身体を押し込むのをやめなかった。


伸びた爪が、俺の胸元を探る。あと半歩分入れば届く。


そのとき、水路の下流で別の鳴き声がした。死体の山の方から、2つ、3つと水へ入る音が続いた。群れが、こちらへ動き始めている。


目の前の1体が振り返ろうとした。だが、頭と肩が岩に挟まり、すぐには抜けない。


群れが来れば、この裂け目は逃げ場のない穴になる。だが今、群れの一番手前にいるのは、半身を岩に突っ込んで動けないこいつだった。さっきまで聞こえていたのは、倒れた1体を群れが喰う音だった。


俺は腰の鎖を外し、裂け目の奥の岩へ叩きつけた。鉄輪が石を擦(こす)り、甲高(かんだか)い音が水路へ抜けた。もう一度鳴らす。近づいてくる水音が速くなった。


挟まった1体が焦って身体を抜こうとした。腕が水路へ戻り、爪が岩に引っかかる。その背中へ、外から来たグールが飛びついた。


狭い入口の向こうで2つの身体がぶつかり、水が跳ね、低い唸(うな)り声が重なった。


血の臭いに集まるものは、動けなくなった同族も獲物にする。それなら、音と血で群れの向きを変えられる。


俺は鎖を握ったまま、裂け目の奥で待った。争う音が水路の下流へ移り、骨が石へ当たる音が遠ざかってから、ゆっくりと外を覗(のぞ)いた。


水面に、黒い筋が流れていた。どちらの血かは分からない。今なら進める。


俺は水路へ戻り、上流へ歩いた。10歩進むと水は腰まで達し、流れも強くなった。傷めた右足が、何度も持っていかれそうになる。壁のくぼみに指をかけ、一歩ずつ底を探った。


やがて、水路は2つに分かれた。左は広く、流れが緩いが、水面に灰と布切れが浮いている。右は狭く、冷たい水が勢いよく流れ込んでいた。臭いは右の方が薄い。


安全な水が要る。俺は右へ入った。


押し戻してくる流れに逆らううち、膝から力が抜けた。壁へ肩を打つ前に右手をついた。その拍子に、錆(さ)びた刃が指から離れた。


刃は水底を滑り、後ろへ流されていった。手を伸ばしても届かない。唯一の刃物だった。


追えば拾えるかもしれない。だが、流れに背を向けて足を滑らせれば、グールのいる下流まで運ばれる。


俺は水面から目を離した。武器より、動ける身体を残す。代わりに鎖の端を右手首へ巻いた。鉄輪でも、殴ることはできる。


天井が少しずつ高くなり、水の音が広がった。水路の先は、小さな岩室になっていた。


奥の壁から水が細く湧き、床のくぼみへ溜(た)まっている。溢(あふ)れた分が、俺の来た水路へ流れていた。灰も死体もなく、床の半分は乾いている。


天井の亀裂は、人が通れる広さではない。入口は1つだけで、逃げ道も1つしかない。それでも、ここなら背中を壁に預けられる。


入口近くの石を、足と背中で押して動かした。片手では持ち上がらない。3つ重ねれば、水路から入ってくるものの足音が変わる。その手前に鎖を低く張り、端を右手首へ巻いた。何かが越えれば、眠っていても分かる。


そこまで終えてから、暗視(あんし)を止めた。完全な闇が戻り、目の奥に残っていた熱がゆっくり引いていった。


湧き水の前へ膝をつき、まず臭いを確かめた。腐臭はない。指先を浸して皮膚が痺(しび)れないかしばらく待ち、それから唇を濡らす程度に口へ含んだ。冷たい。それ以外の味は、ほとんどしなかった。


舌も喉も焼けない。腹にも痛みは来なかった。両手ですくえないため、顔を水面へ近づけて飲んだ。一度に入れすぎて胃が縮み、咳(せき)き込んだ。息を整えてから、少しずつ喉へ流した。


水が入ると、空腹がはっきりした。最後に口へ入れたのは、養護院で受け取った黒パンだった。


帰ったら、ミアはまたパンを半分にするだろう。自分の分をこちらへ寄せ、足りていると言い張る。俺が戻せば怒り、最後には同じ大きさになるまで割り直す。


その朝の場面は、全部思い出せた。怒った目も、割り直すときの手つきも。そこで2人が食べているものの味だけが、どこにもなかった。


黒パンは、養護院の朝だった。働きに出る前の食事であり、ミアと向かい合う時間だった。帰る場所を思うとき、鐘の音や煤(すす)けた壁と同じように、いつもそこにあった。


帰ってミアに半分を渡されても、俺の舌はそれを初めての味として受け取るのだろう。


魂喰(こんじき)が奪ったのは、食べ物の味だけではなかった。帰ったときに確かめられるはずだったものを、1つ消したのだ。


次に何かを喰らえば、もっと大きなものを失うかもしれない。失ったことに、すぐ気づけるとも限らない。記録帳に書かれていないものなら、欠けた場所さえ分からなくなる。


俺は胸元から記録帳を出した。革袋に入れていたため、頁(ページ)は濡れていない。白い頁(ページ)を開いた。


ここへ書く。黒パンの味を失ったこと。暗視(あんし)を得たこと。グールと黒い水路のこと。身体の傷と、通った道も残した方がいい。


だが、書くものがなかった。刃は流された。壁の黒い汚れを指につけて頁(ページ)の端をこすっても、薄い灰色の筋が残るだけで、それも乾く前に消えた。


自分の血なら書ける。脛(すね)の布を外せば、まだ出るはずだった。


俺は頁(ページ)から手を離した。今は、血を一滴でも失うべきではない。濡れた血で書けば頁(ページ)同士が貼りつき、文字も長くは残らない。


「筆がいる」


久しぶりに出した声が、岩室の中で小さく返ってきた。


炭でも、柔らかい石でもいい。水を運ぶ器と、傷を縛る布も要る。食べ物はそのあとだ。帰る道より先に、忘れたものを書き残す手段を見つける。


俺は脛(すね)の布を解き、水で血と灰を落とした。傷は思ったより深くなかった。白い衣の裾(すそ)をさらに裂いてきつく巻き直し、右足首にも布を巻いて動かないよう固定した。左肩は、まだ熱を持っていた。


眠る前に、もう一度暗視(あんし)を使って岩室を調べた。湧き水の周りには小さな虫がいて、壁の上部には黒い苔(こけ)が張りついている。乾いた床に、獣やグールの足跡はなかった。


奥の壁だけ、形が不自然だった。湧き水の右側に、同じ高さで浅い傷が並んでいる。灰色の苔(こけ)に覆われ、遠目には見えなかった。


指で苔(こけ)を削ると、刃物で刻まれた3本の線が現れた。少し離れた場所にも、同じ線がある。さらに苔(こけ)を剥(は)がすと、線は奥の岩壁へ向かって続いていた。


誰かが、ここを通った。


線を辿った先、壁と床の境に、手が入るほどの隙間があった。周りの小石をどけると、冷たい風が指に当たった。向こうに空間がある。


拳で薄い岩を叩くと、乾いた音が返った。何度か押すうちに表面が崩れ、肩が通るほどの穴が開いた。


穴の先には、下り坂の細い通路が続いていた。床は乾いている。壁には同じ3本線が、一定の間隔で刻まれていた。人が迷わないよう残した道標らしい。


道標を残した者がいたなら、その者が使った道具も、どこかに残っているかもしれない。


通路の入口に近い壁には、別の印もあった。横へ伸びた1本の線。その先端を、斜めの2本が挟んでいる。


矢印だった。


帰りたいのは上だ。だが、誰かが残したその印は、奈落(ならく)の奥を指していた。

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