力の加減
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それでは、どうぞお楽しみください。
怒鳴り声が聞こえたのは、道が大きな岩の張り出しを回り込む手前だった。
男の声が2つ。少し遅れて、獣の鳴き声が上がった。蹄が石畳を叩き、荷が揺れる音がする。草の中へ続いていた3人分の靴跡は、この岩の先で道へ戻っていた。
俺は足を止め、岩陰から先を見た。
20メートルほど先で、道幅が少し広くなっていた。ラバが1頭、黒い袋を背に山のように積んで立っている。その手綱を、白髪の老人が両手で握っていた。老人の前には若い男が立っていた。額が切れ、血が眉を伝っている。手には木の棒を持っていたが、先が震えていた。
2人を囲んでいるのは、3人の男だった。1人は髭の濃い男で、片手に錆の浮いた剣を下げている。1人は大柄で、節の多い棍棒を肩に担いでいた。最後の1人は痩せていて、短い刃物を持ち、右足に体重をかけないように立っていた。焚き火の跡で見た、右足を引きずる靴跡の主だった。
「荷は全部置いていけ。ラバもだ」
髭の男が言った。
「これを持っていかれたら、村は冬を越せん」
老人の声はかすれていた。
「なら、冬まで待たずに済むようにしてやろうか」
大柄な男が笑い、棍棒を肩から下ろした。
俺は背負い布を解いた。シグを岩陰の草の中へ下ろし、上から布をかける。
「ここにいろ。喋るな」
『了解しました』
相手は3人で、剣と棍棒と刃物を持っている。俺の手には何もない。奈落なら、相手の動きを見るまで岩陰から出なかった。それに、出ていけばこの顔と身なりを見られる。人に会えば、まず怖がられる。そう言ったのは、今朝の俺だった。
若い男の額から落ちた血が、石畳に点を作っていた。それを見てから、俺は目に巻いた布を額まで押し上げた。昼の光が刺さる。目を細め、涙が落ちるのを待たずに歩き出した。
最初に気づいたのは、痩せた男だった。
「おい」
3人がこちらを向いた。俺は道の真ん中を、10歩ほどの距離まで進んで止まった。
「何だ、てめえ」
「乞食か。山で死に損なった亡者か」
大柄な男が、俺の足に巻いた布と、裂けた服を順に見た。
「やめろ」
俺は言った。
「何をだ」
「その2人から離れろ。荷も置いていけ」
髭の男が鼻で笑った。
「素手で、裸足で、痩せこけた奴が何を言ってる」
「帰れと言ってる」
「おい、黙らせろ」
大柄な男が前へ出た。距離は7歩。男は棍棒を両手で持ち上げ、頭の上で振りかぶった。狙いは俺の頭だった。大きく、遅い。振り下ろす前に、肩と腰がはっきり沈んだ。
俺は踏み込んだ。右手が、男の喉へ向かっていた。考えたわけではない。奈落で1年、同じ形の隙を見るたびに、そこを潰してきた。首の前の、息の通り道。そこを打てば、どんな獣でも動きが止まる。
人間だ。
指先が喉に届く手前で、腕を引いた。代わりに、振り下ろされてくる男の手首を掴んだ。止めるだけのつもりだった。だが、右手の感覚は鈍い。握った強さが、指から返ってこない。
手の中で、湿った枝を折ったような音がした。棍棒が石畳へ落ちた。男は一拍遅れて叫び、膝から崩れた。俺が手を離すと、男の手首は、曲がるはずのない向きに垂れていた。
「ぐ、あ、ああっ」
男は手首を抱えて石畳を転がった。
髭の男が、剣を横へ振った。狙いは俺の右脇腹だった。身を引けば、振り抜いた刃の先にラバと老人がいる。俺は左の手のひらへ硬殻Lv.3を張った。灰色の殻が指先まで覆う。迫ってくる刃を、その手で掴んだ。
刃は止まった。髭の男が引こうとする。俺は放さなかった。ただ、指を閉じた。剣が、俺の手の中で真ん中から折れた。
髭の男は、残った柄と短い刃を見下ろした。何が起きたのか分からない顔だった。俺は空いた右手で男の胸を押した。距離を取らせるだけのつもりだった。
男の身体が、後ろへ飛んだ。3メートルほど先の石畳へ背中から落ち、そのまま転がった。押したとき、手のひらの下で何かがたわむ感触があった。男は仰向けのまま口を開け、息を吸えずに喉を鳴らしている。
「動くな!」
叫び声がした。
痩せた男が、若い男の首へ腕を回していた。刃物の先が、額から血を流している顔の下、喉元へ当てられている。
「来るな。来たら、こいつを刺す」
俺は止まった。距離は6歩。今の俺の脚なら、刃物が動く前に届く。
だが、届いたあとが分からなかった。刃物を持つ手首を掴めば、さっきと同じ音がする。腕ごと引き離そうとすれば、肩が抜けるかもしれない。足元の石を投げれば、頭が割れる。硬殻の手なら刃そのものを掴める。だが、刃は若い男の喉に当たっている。掴んだまま引けば、喉ごと裂ける。
殺す方法なら、いくつも浮かんだ。喉も、こめかみも、首の後ろも、6歩の先にあった。殺さずに止める方法は、1つも浮かばなかった。
「放せ」
俺は言った。
「そいつを放して、仲間を連れて帰れ」
「て、てめえ、何なんだ」
「追わない。約束する」
痩せた男の目が、俺と、地面で手首を抱える仲間と、折れた剣を順に見た。刃物の先が震え、若い男の首に細い赤い線が浮かんだ。
「今なら、全員歩いて帰れる」
痩せた男は、若い男を突き飛ばした。若い男は石畳へ手をつき、そのままラバの陰へ這って逃げた。
痩せた男は刃物を構えたまま、後ずさりした。髭の男の脇へしゃがみ、肩を貸して立たせる。大柄な男も、片腕を抱えたまま立ち上がった。
「そいつを走らせるな」
俺が言うと、痩せた男の肩が跳ねた。
「胸の骨が折れてるかもしれない。担いで、ゆっくり歩け」
「……てめえがやったんだろうが」
「だから言ってる」
痩せた男は何か言い返そうとして、やめた。
「化け物……」
大柄な男が、俺を見て言った。涙と涎で顔が濡れていた。
3人は道を外れ、北の林へ入っていった。髭の男は1歩ごとに咳をして、そのたびに身体を折った。俺は追わなかった。
道には、折れた剣と棍棒が残った。
俺は自分の右手を開いた。指は5本とも動く。痛みは、折れかけていた薬指と小指に少しあるだけだった。男の手首を握った感触は、ほとんど残っていない。残っていないのに、音だけは耳に残っていた。
左の手のひらからは、硬殻がもう消えていた。刃を握った場所に、傷はない。赤い筋すらなかった。
力を抜いたつもりだった。棍棒を止めるだけ、胸を押して離すだけのはずだった。奈落の魔物なら、あの程度で骨は折れなかった。あいつらの手足は硬く、打っても打っても起き上がってきた。だから俺は、打ち込む場所と強さだけを覚えた。止めるための強さを、覚えたことはなかった。
奈落で学んだのは、殺すか、逃げるかだけだった。その間にあるものを、俺は何も持っていない。
次に向き合うのが、剣を扱い慣れた兵士だったら。俺の腕を止められるほどの人間だったら。
俺はきっと、また喉を狙う。
振り返ると、老人がラバの手綱を握ったまま俺を見ていた。若い男は、ラバの腹の陰にしゃがみ込んでいた。額と首の血を押さえている手が、まだ震えている。
俺は1歩近づいた。若い男が、びくりと肩を跳ねさせた。俺は足を止めた。3人を相手にしたときより、その距離の方が遠く感じた。
「傷は」
「……浅い」
答えたのは老人だった。
「首は皮1枚だ。額は、あいつらの棒で殴られた」
「洗った方がいい。水ならある」
「いや、いい。こっちにもある」
老人はすぐに首を振った。断る速さで、どう見られているのかが分かった。
「助かった。礼は言う」
「礼はいらない」
「あいつらは、この道によく出るのか」
「夏の終わりからだ。炭を下ろす日を、どこかで聞きつけてくる」
老人はラバの背の黒い袋へ手を置いた。袋の口から、黒い粉がこぼれていた。炭だった。
「あんた、どこから来た」
「山から」
「山の上には、何もないはずだ」
俺は答えなかった。
「爺さん、こいつ……」
若い男が小さく言った。老人は目で黙らせた。
「名前は」
「言わない」
「そうか。山には、名乗らん者も多い」
老人はラバから手を離さないまま、道に落ちた剣の半分を拾った。折れ口を指でなぞる。刃は、そこだけ新しい金属の色をしていた。それから、俺の左手を見た。
「刃を素手で折る奴は、見たことがない」
「俺も、折るつもりはなかった」
「つもりがなくて、ああなるのか」
老人の声は責めていなかった。ただ、確かめていた。確かめて、どこまで離れていればいいのかを測っていた。
「あんた、人間か」
「人間だ」
老人は返事をしなかった。代わりに、剣の破片を持ったまま、指で胸の前に小さく円を描いた。七柱へ祈るときの仕草だった。
そのとき、ラバの陰の若い男が、俺の後ろを見て目を細めた。
俺が来た方向。大きな岩の張り出しの下、草むらの中。
布の端から、小さな光が1つ、こちらを見ていた。




