地上の水
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それでは、どうぞお楽しみください。
夜明け前の森は、灰色だった。
暗視Lv.3を使わなくても、木の幹と足元の石くらいは見分けられた。空の端がわずかに白み、その光が葉の隙間から落ちてくる。目は痛まなかった。
筒の水は2日ともたない。菌床も2日分に足りない。どちらかが尽きる前に水の音か人の道へ当たらなければ、この知らない山の中で終わる。俺はシグを背負い、斜面を東へ下った。
地面は柔らかい。落ち葉の下に湿った土があり、踏むたびに少し沈む。奈落の石床なら、足を置いた場所がそのまま体重を受けた。ここでは1度沈んでから止まる。その分だけ、左膝へ遅れて重さが来た。
途中で、倒れた木の枝を拾った。腕ほどの太さで、長さは俺の肩まである。杖にするつもりで握ると、手の中で乾いた音がした。樹皮が割れ、指の形に窪んでいた。
『何か折れましたか』
「枝だ。握っただけで割れた」
『握力の調整が必要です。右手と左前腕は感覚が低下しています』
「分かってる」
分かっていても、どれだけ力を入れたかが指から返ってこない。俺は握り直した。今度は、枝の重さを手のひらに乗せるだけにした。杖を突くと、左膝の負担が少し減った。
水の音が聞こえたのは、日が稜線を越える少し前だった。
低い、途切れない音だった。奈落の水路のように壁へ響かず、木々の間で細かく散っている。水流感知はもうない。流れの形を肌で読むことはできない。俺は耳だけを頼りに斜面を横切った。
岩と岩の間を、細い沢が流れていた。幅は2歩ほど。底の小石が1つずつ見えるほど澄んでいる。水面の上を、小さな魚の影が2つ、流れに逆らって止まっていた。
俺はシグを岩の上へ下ろし、膝をついた。
『水質を判定する手段は、あなたの舌と毒分解だけです』
「知ってる」
両手で水をすくった。指の間から溢れるほど冷たい。口へ入れると、冷たさが歯に染み、喉を通って胃へ落ちた。それだけだった。
俺は待った。舌の奥に苦味が来るのを。喉が焼けるのを。腹の底が冷え、毒分解Lv.5が動き出すのを。
何も来なかった。
『反応はありますか』
「ない」
『毒分解の反応がない、という意味ですか』
「全部だ。味もない。毒もない」
もう1度すくって飲んだ。やはり何も起きない。
奈落では、飲むたびに身体のどこかが身構えた。毒の重さで、その水がどれほど危ないかを量ってきた。ここの水には、量るものがなかった。
「飲んでいいのか、分からなくなる」
『身体が安全を確認できないため、判断を保留しているのだと推定します』
「安全だから、確認できないのか」
『その表現は正確です』
俺は腰の筒を外した。1本は石室を出てから下りてくる間に空になり、もう1本に奈落の濾過水が半分だけ残っている。黒い菌床の臭いが、筒の口からかすかに上がった。3か月近く、これを飲んで生きてきた。
『その水を捨てますか』
「ああ」
筒を傾けた。濁った水が岩を伝い、沢へ落ちる前に土へ吸われた。
『奈落の水の廃棄を記録します』
「そこまで記録するのか」
『あなたが3か月近く飲んだ水です』
空になった筒を2本とも沢で洗い、満たした。重さが手首に戻ってきた。これで、水の方は数えなくていい。
沢沿いに少し下ると、太い木が1本立っていた。根元に、緑の皮に包まれた丸い実がいくつも落ちている。皮の一部は黒く腐り、中から硬い殻がのぞいていた。
「クルミだ」
『食用ですか』
「殻を割れば食える。たぶんな」
拾って、指で挟んだ。殻は硬い。そう思って力を入れた。乾いた音と一緒に、殻が粉のように砕けた。中身も潰れ、殻の破片と混ざって手のひらに張りついた。
『失敗ですか』
「割りすぎた」
2つ目は、指ではなく手のひらで挟んだ。力を入れるのではなく、少しずつ体重を乗せる。殻の中で何かが軋む感触が、遅れて届いた。そこで止める。殻に1本、筋が入っていた。筋に爪を差し込み、左右へ開くと、今度は中身が形を保っていた。
口に入れると、油の味がした。薄い皮が少し渋い。噛むほど、口の中に重さが残った。毒分解Lv.5は、また黙っていた。
「奈落では、毒のないものの方が珍しかった」
『地上では逆である可能性が高いです』
「まだ信じきれない」
『では、急がずに確認してください』
俺は落ちていた実を集め、皮をむいて荷へ入れた。10個ほどになった。
見上げると、木の葉は縁から黄色くなり始めていた。足元の落ち葉の中にも、同じ色のものが混じっている。
「シグ。落下から何日だ」
『推定335日です』
「1年まで、あと1か月か」
『1年を365日とした場合、30日です』
「落とされたのは、冷たい雨が続いた頃だった」
俺は黄色い葉を1枚拾った。
「もうすぐ、同じ季節になる」
『季節の変化を記録する基準を教えてください。私には地上の季節の記録がありません』
「葉の色と、朝の冷え方。あとは、木の実が落ちるかどうかだ」
『3項目を記録します』
シグの単眼が、木の上と足元の葉を順に照らした。
昼は、沢の脇の岩陰で休んだ。
日が傾き始めてから、左膝の布を解いた。膝の周りは熱を持ち、少し腫れている。斜面を下り続けた分だけ、奈落を出たときより悪くなっていた。沢の水で傷の周りを洗い、固定具をずらして当て直す。布を巻き、結び目を膝の外側へ移した。
それから、菌床を小さく切って食べた。クルミを3つ。水を多めに飲む。
『自己治癒を使用しますか』
「使う。膝だけだ」
『食料残量は、菌床が2日分未満です。クルミで何日分になるかは、算出できません』
「だから膝だけにする」
自己治癒Lv.2を、左膝へ向けた。熱が膝の奥へ集まり、腫れた筋が少しずつ締まっていく。4呼吸で止めた。
すぐに腹が鳴った。食べたばかりの菌床とクルミが、もう足りない。喉も渇く。俺は筒の水を半分近く飲んだ。
『消費量を記録しました。腫れは推定で3割減少しています』
「肩は明日にする」
『食料が確保できた場合に限り、同意します』
「治るために食べる。食べられない時は使わない」
『奈落で、あなたが私に記録させた言葉です』
「地上でも同じだ」
膝を曲げてみた。痛みはある。だが、骨の奥で引っかかるような感触が少し薄れていた。水は沢で汲み直せる。減っていくのは、食べる物の方だけだった。
翌朝、沢を下り続けると、木の切り株が現れた。
断面は黒ずみ、苔が生えている。斧の跡が斜めに残っていた。何年も前のものだ。それでも、人が木を切りに来る場所まで下りてきた。
さらに進むと、沢を渡る小さな石橋があった。石橋の両側へ、道が伸びていた。平たい石が並べて敷かれ、石の間から草が伸びている。石の表面には、車輪の跡らしい浅い溝が2本、ずっと続いていた。
『人工の道路を確認しました』
「古い道だ。けど、使われてる」
石畳の脇の土に、蹄の跡が残っていた。縁が崩れていない。
石橋の袂には、膝ほどの高さの石柱が立っていた。表面に文字が刻まれている。半分は苔に覆われ、俺は指で苔をこそげ落とした。
東を向いた面に、矢の形が彫られていた。その横の文字は、削れていても読めた。
『黒鐘』
しばらく、その2文字から目を離せなかった。
『レイ。読み上げてください。私の記録と照合します』
「黒鐘。東だ」
『あなたの推定は、正しかった可能性が高いです』
「可能性じゃない」
俺は石柱から手を離した。
「この道を行けば着く」
西を向いた面にも文字があったが、そちらは割れていて読めなかった。
石橋の下で、顔を洗った。
水面に、知らない男が映っていた。頬がこけ、目の下が暗い。伸びた髪を刃で雑に切った跡がある。額と顎には、いくつも古い傷が走っていた。服は裂けた布の集まりで、両足には履物の代わりに布を巻いている。
「人に会えば、まず怖がられる」
『人間との接触について、方針を決めてください』
「お前は喋るな。布の中にいろ」
『理由を要求します』
「喋る古い機械を見て、放っておく人間はいない」
『了解しました。ただし、あなたの生命に関わる場合は例外とします』
「それでいい」
シグを背負い直し、石畳の道を東へ歩いた。
1時間ほど進んだところで、道の脇に焚き火の跡を見つけた。灰に手をかざすと、底の方がまだぬるい。周りの土には、硬い靴の跡が重なっていた。3人分。1人は右足を引きずるように歩いている。
焚き火の跡から、靴の跡は石畳を避けて草の中へ続いていた。道の上を歩けば楽なのに、わざわざ横を歩いている。
「見られたくない歩き方だ」
『人間の行動様式について、私は判断材料を持ちません』
「俺もあまり持ってない」
それでも、分かることはあった。靴の跡は、俺の行く先と同じ東へ向かっていた。




