見知らぬ空
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それでは、どうぞお楽しみください。
森の切れ目まで、100歩もなかった。
その間に、背中の側から光が追いついてきた。木の幹の片側だけが白く塗られ、足元の草が一斉に色を持つ。
振り返った瞬間、目の奥へ細い針が何本も刺さった。斜面の下に広がる霞みの向こう、低い稜線から白い塊が顔を出していた。見えたのはそこまでだった。視界が白く割れ、涙が勝手に流れ、足元の根に踵を取られた。
出てきたばかりの石室から、奈落へ戻る道はもうない。転移台座は中央から割れ、光は消えた。荷の中の菌床は2日ともたず、武器もない。ここがどの山の中なのかさえ分からないまま、俺は目を開けていられなくなった。
『光量が急増しています。目を閉じてください』
「閉じてる」
『閉じていても、瞼を通して光が入ります。日陰へ移動してください』
背中のシグが言った。俺は片手で目を覆い、もう片方の手で幹を探った。樹皮は乾いていて、指の腹に細かく引っかかった。
来た道を戻った。1度上っただけの階段の段差を、足が覚えていた。石室へ下りると、光は天井の穴から斜めに差すだけになった。俺は壁際の影へ座り込み、しばらく目を開けられなかった。
『瞳孔の反応が遅れています。暗所での生活が長かったためと推定します』
「治るか」
『慣れる可能性が高いです。ただし日数は不明です』
「不明ばかりだな」
『地上の記録を、私はまだ持っていません』
シグの言い方は、責めているようにも謝っているようにも聞こえなかった。
目を開けられるようになったのは、光の筋が石室の床を半分ほど移動してからだった。
俺は布を1枚取り出し、縦に裂いた。1枚では光が白く抜ける。裂いた2本を重ねると、景色の輪郭だけが透けて見えた。それを目の上へ巻いた。
『有効です。光量は推定で3分の1以下になっています』
「見えるものも3分の1だ」
『では、歩行速度も落としてください』
暗視Lv.3は切ったままにした。暗闇を見るための目を、明るい場所で開いていても意味はない。今必要なのは、光に目を慣らすことだった。
俺は背負い布を解き、シグを床へ下ろした。3本の脚が石を探り、補助輪が小さく鳴る。
「最初に確かめる。ここが何か」
『同意します。私も記録を開始します』
石室は、山の斜面へ半分埋まっていた。天井の穴は崩落でできたものらしく、縁から木の根が垂れ、床には落ち葉と土が積もっている。
中央には、転移台座があった。直径は奈落の台座と同じくらいだ。だが、中央から大きく裂け、片側が拳1つ分沈んでいる。裂け目に沿って走る白い線は、どこも光っていなかった。
俺は台座の縁へ手を置いた。冷たい石の感触しか返ってこない。
「シグ」
『接続を試みます』
シグの接続棒が、台座の側面にある小さな穴へ差し込まれた。単眼が3度、細く明滅した。
『応答なし。供給も、命令も確認できません』
「戻る道は」
『この台座からは、ありません』
「そうか」
『戻る予定はありますか』
「ない」
『私もありません』
少しだけ、間があった。シグは接続棒を抜き、壁の方へ向きを変えた。
壁面には古代文字が刻まれていた。ほとんどは削れたか、根に割られている。奈落の施設で見たものと似た書き方だった。
『判読できる部分を記録します』
シグは文字の前を1歩ずつ移動し、止まるたびに読み上げた。
『地上受入区画』
『第――転移――』
『経路 閉――』
最後の1つは、そこで石が欠けていた。欠けた先は、根に押し出されて床へ落ちたらしい。
「閉鎖、か」
『その可能性があります。欠損のため確定できません』
「台座が割れてるなら、閉じたんだろう」
『あなたの推定として記録します』
石室の奥には通路が1本あった。3歩先で天井が落ち、岩と土で完全に塞がっている。人が通った跡はない。少なくとも、ここ何年かは。
「管理してる者はいないな」
『痕跡から見て、長期間放置されています。ただし、放置された期間は算出できません』
崩れた階段と、天井の穴。出口はその2つだけだった。
昼が近づくと、天井の穴から入る光が短くなった。
俺は荷を床へ並べた。菌床は、切り分けると2日分に少し足りない。濾過水は1筒と半分。ほかに固定具、残りの布、シグの交換軸、死んだ命令導体が1本、白い固定槍の欠片、記録帳と短くなった炭筆。武器はない。刃物もない。
『水の残量は、現在の摂取量で2日です』
「山なら沢がある。下れば、どこかで水の音がする」
『沢の位置は不明です』
「音で探す。奈落でもそうしてきた」
『地上での食料調達方法も確認してください』
「探す。木の実でも、根でも」
『毒性の判定は、あなたの毒分解に依存します』
「奈落よりは楽だろう」
『根拠を要求します』
「ここには、食べたら腹の中で動くものが少なそうだ」
シグは返事をしなかった。記録しているのか、反論を探しているのかは分からなかった。
次に、シグの脚を試した。石室の外の斜面は、奈落の石畳とは違う。柔らかい土と、落ち葉と、根が絡んでいる。
シグは階段の上から土へ脚を下ろした。1歩目で補助輪が沈んだ。2歩目で左の脚が根に引っかかり、右の脚が遅れた。
『右脚駆動、8%低下を維持。斜面では姿勢制御の負荷が増大します』
「歩けるか」
『平地なら可能です。この斜面では、20歩ごとに停止が必要です』
「なら、坂は背負う」
『あなたの右肩と肋骨は――』
「分かってる。平らなところはお前が歩け。交代だ」
『交代、を記録します』
シグは3本の脚を畳み、俺の背へ戻る姿勢を取った。そういう動きを、いつの間にか覚えていた。
日が傾き始めると、目がずいぶん楽になった。
俺は布をずらし、階段の上から周囲を見た。石室は、低い森の斜面の中ほどにあった。上の方には、もっと高い山が幾重にも重なっている。下の方は緩く下り、その先は薄い霞みの中だった。
朝、俺は光に背を向けて、山の上へ歩き出していた。
「シグ。朝の光はどっちから来た」
『斜面の下方、霞んだ低い稜線の上です。太陽の移動を5時間記録しました。現在は反対側へ傾いています』
「なら、朝日の方が東だ」
『その前提で方位を仮置きします』
傾いた日は、背後の高い山の方へ下りていく。
「日が沈むのは、あの高い山の向こうだな」
『現在の軌道から、そう推定します』
ベルガルドでは、日はいつも城壁の西に重なる山の向こうへ沈んだ。音や匂いではない。見て知っていた景色の並びは、まだ頭に残っていた。
「ベルガルドの西には山がある」
『ベルガルド。黒鐘城塞都市ですね』
「そうだ。砕城犀は西の山から下りてきた。黒淵も、城塞の西の端から山へ入った先にあった」
『つまり』
「ここが同じ山の中なら、ベルガルドは東だ。下っていけば着く」
『同じ山である根拠は』
「ない」
シグの単眼が1度だけ明滅した。
『確度は低いと記録します』
「低くても、ほかに手がかりがない」
それに、上へ向かう理由もなかった。奥の山は高く、岩が多い。水を探すにも、人を探すにも、下る方がいい。同じ山でなかったとしても、下った先で川か道に当たれば、そこから考え直せる。
『同意します。ただし、菌床が尽きるまでに人の居住地へ着けなければ、引き返す余力はありません』
「分かってる。だから、上には行かない」
東の空は、もう色を変え始めていた。俺が1年ぶりに見る夕方だった。空の端が赤くなるのではなく、全体が少しずつ暗く沈んでいく。奈落の赤い光とは違い、どこにも源がなかった。
今日は、目を慣らすだけで終わった。進んだのは森の切れ目までの100歩足らずで、菌床だけが減っていた。
夜が来る前に、記録帳を開いた。
紙の端は湿気で波打っている。最初の頁から順にめくると、ミアの字と、俺の字と、シグに確かめて書き直した字が続いた。
最後に書いたのは、奈落を出る前の1行だった。その下の空きへ、炭筆を当てる。
『落下から推定334日。地上へ戻った。古代の転移施設跡。台座は割れ、帰る道はない』
『西の山の中と推定。東へ下る』
『行き先、黒鐘養護院』
最後の行を書くとき、炭筆の先が少しだけ紙を押し込んだ。
『記録しました』
「お前の方にも残せ」
『すでに残しています。あなたの字の癖も含めて』
「字の癖まで要るのか」
『あなたが書いたことの証明になります』
俺は記録帳を閉じた。
天井の穴の向こうで、光が1つ、また1つと増えていった。奈落の天井にも光る石はあった。だが、あれは手を伸ばせば届く場所にあった。ここの光は、どれだけ見上げても距離が分からない。
「シグ。あれは記録できるか」
『星の位置は記録可能です。方位の確認にも使えます』
「なら、残しておけ」
『了解しました』
俺は壁に背をつけ、膝を立てた。左膝が鈍く痛んだ。右肩も、朝シグを背負って歩いた分だけ重い。
ミアが待っているなら、同じ空の下にいる。そう考えようとした。
言葉は浮かんだ。帰ってきて、とミアは言った。一字も欠けずに覚えている。その言葉だけが、音を持たずに浮かんでいた。
俺は目を閉じた。瞼の裏が暗い。奈落の暗さとは違い、朝になれば終わる暗さだった。
『レイ。夜明け前と夕方は、あなたの目の負担が少なくなります』
「移動はその時間にする。昼は日陰で休む」
『記録します。出発は明日の夜明け前ですか』
「そうだ」
風が天井の穴から入り、落ち葉を1枚、床へ運んだ。黄色く縁の枯れた葉だった。
俺はそれを拾い、指先で回した。何の木の葉かは分からない。ただ、奈落の中には1枚もなかったものだった。
葉を床へ戻し、包みの菌床を指で数えた。2日分に足りない。
夜が明けたら、この知らない山を下りる。水の音が先か、菌床が尽きるのが先かだった。




