生贄帰り
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それでは、どうぞお楽しみください。
『命令が消失しました。次の命令を入力してください』
俺は床に横たわったまま、シグを見た。胸部外装の奥では、白い駆動環と青い記録環が回っている。赤黒い帰還命令だけが消えていた。
地上へ出る道は、まだ開いていない。転移設備へ続く供給線は、黒炎Lv.1の侵食を止めるために俺が外したまま、接続片ごと布袋の中にある。つなぎ直して設備が応えなければ、残った菌床が尽きた先に次の手はない。そのうえ、胸の奥にはまだ黒い火がいる。抱えたまま設備へ触れれば、また命令ごと食わせるかもしれなかった。
その前に、決めなければならないことが1つあった。
「命令じゃない。お前が決めろ」
シグの単眼が明滅した。返事まで、7秒かかった。
『……では、私はあなたと地上へ行きます』
「そうか」
『はい』
施設へ戻れという声も、俺についてこいという命令も、もうない。それでも、シグは行くと決めた。
俺は目を閉じた。
「なら、少し待て」
『休息を推奨します』
「今度は従う」
『命令ではありません』
「分かってる」
俺たちは、菌床拠点で1日休んだ。
落下から推定334日。熱は残っていた。右腕の感覚も鈍い。だが、自分の足で歩ける。朝というものがない暗闇の中で、俺は帰還の準備を始めた。
残った菌床は、普通に食べれば2日分。濾過水は1筒と半分。あとは布と固定具、シグの交換軸、死んだ命令導体が2本。武器はない。長剣も、小型刃も、奈落で失った。
使える物と捨てる物を分けた。菌床と水、布と固定具は持つ。命令導体は1本だけ残した。白い固定槍の欠片は、布で包んだ。
『その欠片は必要ですか』
「竜心を壊した証拠になるかもしれない」
『地上で証拠として扱われるかは不明です』
「ならなくてもいい。俺が何をしたかは、これで思い出せる」
最後に、記録帳を開いた。最初の頁は何度も濡れては乾き、端が崩れていた。ミアが渡した帳面だった。
俺は、彼女の指先の温かさを思い出せない。声も思い出せない。だが、字は残っている。俺が書いた字も、シグに確かめて書き直した字も残っている。黒鐘養護院。ミア。帰る。何度忘れても、同じ言葉が並んでいた。
俺は最後の空きへ書いた。
『落下から推定334日。第12層忘都。竜心中枢を破壊。転移設備へ向かう。シグは自分で地上へ行くと決めた』
記録帳を閉じると、シグが言った。
『記録を複製しました』
「全部か」
『現在保存可能な範囲はすべて』
「俺が忘れたら」
『事実を読み上げます』
「気持ちは」
『復元できません』
「それでいい」
事実まで消えるよりはいい。だが、記録を残したから忘れてもいいわけではない。失ったものは戻らない。これ以上失わないために、帰る。
俺は荷を背負った。シグは3本の脚を順に動かし、拠点の出口へ向いた。
『出発可能です』
「行くぞ」
『はい』
物資保全区画を出た。約3か月、生きるために使った場所だった。濾過槽も、菌床も、傷を洗った石の窪みも、日数を刻んだ壁も、持っていけないものばかりだった。
『壁の刻みは、記録に移してあります』
「知ってる」
俺は振り返らなかった。振り返れば、何かを置いていく気がした。もう十分に置いてきた。
転移設備は南西へ約1.6キロ。竜心が止まった街は静かだった。赤い脈動はない。命令管路の熱も、歩くほど弱くなった。停止した自動兵が道の端に立っているが、こちらを追うものはいなかった。
暗視Lv.3の視界に、崩れた街並みが灰色に浮かぶ。家だった場所、広場だった場所、名前を削られた壁。ここにも、生きていた者がいた。
歩行可能者43名。要補助者18名。緊急搬送対象9名。最後の4名が転移できたかは分からない。俺たちが使おうとしている道を、誰かが先に通ったかもしれない。地上へ着いた者がいたかもしれないし、何も残らなかったかもしれない。
『右脚駆動、8%低下』
シグの声で足を止めた。
「持つか」
『現在速度なら転移設備まで持続可能です』
「帰った後は」
『不明です』
「なら背負う」
『あなたの右肩と肋骨は回復途中です』
「置いていくよりましだ」
『置いていくという選択肢を提示していません』
「俺も選んでない」
シグは3秒黙った。
『では、速度を落とします』
「そうしろ」
急ぐ理由はあった。だが、倒れて届かなければ同じだ。歩いて、止まって水を飲み、シグの軸を締めて、また歩く。シグの足が石畳の継ぎ目で小さく跳ねるたび、俺は歩幅を合わせた。
転移設備へ着いたのは、出発から4時間後だった。半円形の石造施設が、崩れた広場の下に埋まっていた。入口の表示は半分消えている。
『第12層避難転移区画』
奥には、直径6メートルほどの円形台座が3基並んでいた。2基は割れている。残る1基だけが、淡い白光を返した。
『帰還経路 待機』
表示は残っている。切れているのは供給だけだ。
布袋から接続片を出し、切断面を確かめた。命令線は焼けていない。金属留め具も歪んでいない。
『再接続後、設備側から逆流が発生する可能性があります』
「時間は」
『起動確認まで推定48秒。異常時は接続片を外します』
「お前がやるな」
『理由を要求します』
「俺の方が速い」
『妥当です』
シグは端末の横へ移動した。俺は接続片を差し込み、留め具を倒した。
白い光が管路を走った。胸の奥で、黒炎Lv.1がわずかに動く。俺は左手を握った。出すな。設備を食わせるな。火は体内に留まった。
『10秒。供給安定』
円形台座の外周へ光が入る。
『20秒。座標照合』
端末に3件の経路が浮かんだ。2件は消えている。残る1件だけが白い。
『31秒。帰還経路に応答あり』
「場所は」
『座標名、欠損。地上高度を示す値あり。到着設備の状態は不明』
「生きて出られる確率は」
『算出不能です』
「ここに残るよりは高い」
『同意します』
少し間を置いて、シグが続けた。
『48秒。起動可能』
台座中央に古代文字が浮かんだ。
『転移対象を登録してください』
俺が乗ると、1人分の輪郭が白く光った。シグが続く。光はシグの躯体をなぞったが、人数は増えなかった。
『私は記録媒体として認識されています』
「転移できるか」
『対象者の携行物として接続すれば可能性があります』
俺は荷を下ろし、背負い布を広げた。シグの3脚を畳み、中枢核が俺の背中へ当たる位置で固定する。右肩が痛んだ。だが、支えられる。
『レイ。負傷が悪化します』
「地上までだ」
『到着距離は不明です』
「なら、着いてから考える」
記録帳を胸元へ入れ、水筒を腰へ結び、白い槍の欠片を荷の奥へ押し込んだ。もう1度、台座へ立つ。
『転移対象 1』
『携行記録媒体 1』
『帰還経路を起動しますか』
俺は端末へ手を置いた。
「起動する」
光が足元から立ち上がった。
『起動まで30秒』
低い振動が施設全体へ広がる。天井から砂が落ち、割れた2基の台座が軋んだ。生きている設備も、長くは持たない。
『起動まで20秒』
白光の外で、暗い街が揺れた。約1年過ごした奈落が、薄い壁の向こうへ遠ざかっていく。俺は胸元の記録帳を押さえた。帰る。声を思い出せなくても。手の温度を思い出せなくても。約束した事実は残っている。
『起動まで10秒』
「シグ」
『はい』
「今なら、まだ降りられる」
『降りません』
「命令はないぞ」
『私が決めました』
背中の重さが、わずかに動いた。振動が強くなる。
『5秒』
俺は目を閉じなかった。
『4』
白い光の中で、忘都の輪郭が崩れる。
『3』
竜心区画の方角で、黒いものが一瞬だけ揺れた。ヴォルグラムの声は聞こえない。
『2』
足元が消えた。
『1』
世界が白くなった。
落ちる感覚はなかった。上がる感覚もない。身体の輪郭だけが、細く引き伸ばされた。右腕の魔力経路が焼け、胸の奥で黒い火が瞬く。俺は供給を切るように息を止めた。火は広がらなかった。
次の瞬間、硬い床へ膝をついた。
空気が違った。乾いていない。腐敗した菌床の甘さも、血流河の鉄臭さもない。冷たい風が、頬を撫でた。
『転移完了を推定。レイ、呼吸してください』
息を吸った。土。草。遠い水。失った薬草の匂いは思い出せない。だが、今ここにある匂いは分かる。
「……シグ。無事か」
『駆動系、記録領域、自己識別を維持しています』
顔を上げると、崩れた石室だった。背後の転移台座は、中央から割れている。白い光は消えた。戻る道も消えた。
石室の天井には、大きな穴が開いていた。その向こうに、色があった。黒でも、灰色でもない。夜明け前の青だった。
俺は暗視Lv.3を止めた。視界が暗く沈む。それでも、空は見えた。
シグを背負ったまま、崩れた階段を上がる。1段、また1段。右肩が痛み、膝も震える。足元には、石の隙間から伸びた細い草が生えていた。地上の風が、髪を動かした。
階段の最後を越えると、低い森と遠い山の輪郭が見えた。奈落の天井はない。頭上を塞ぐ岩もない。空が、どこまでも続いていた。
目の奥が痛んだ。暗闇に慣れた目には、夜明け前の薄い光でさえ強すぎた。それでも、目を逸らさなかった。
『外気温、低。空気中の毒性反応なし。現在地は地上である可能性が高いと判断します』
「可能性じゃない」
俺は土へ手をついた。冷たかった。
「地上だ」
約束した場所がどちらかは分からない。黒鐘養護院まで何日かかるかも分からない。俺を落とした者たちが、今も生きているかも分からない。ミアが待っているかも、分からない。それでも、帰る道はもう奈落の中にはなかった。
俺は立ち上がった。記録帳が胸にある。シグが背中にいる。失ったものも、傷も、黒い火も残っている。全部抱えたまま、歩ける。
『次の目的地を確認します』
「黒鐘養護院」
『経路は不明です』
「探す」
『了解しました』
俺は青くなり始めた空へ背を向け、森の切れ目へ歩き出した。
死ぬために落とされた場所から、約1年。
生贄は、帰ってきた。
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