焼き切る命令
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それでは、どうぞお楽しみください。
菌床拠点へ戻ったとき、俺の身体はまだ熱を吐いていた。
皮膚ではない。骨の内側を、細い焼けた線が何本も走っている。右腕は肘から先が重かった。指を握っても、動いたという感覚が1呼吸遅れて返ってくる。
転移設備へ続く供給線は、俺が外したままだ。つなぎ直せば、地上へ帰る道が開く。だが、この火を抱えたまま設備に触れれば、また命令ごと食わせる。シグの胸の中には、施設へ戻れという命令もまだ残っていた。
『体温上昇。呼吸間隔、不安定』
「分かってる」
『分かっている者の歩行ではありません』
シグは6歩先で止まった。俺も壁に手をついた。
命令管路から伝わる熱は弱い。竜心を止めた影響だ。だが、菌床を温めるには足りる。俺は濾過水を2口だけ飲んだ。乾いた菌床を削り、残っていた補助栄養と混ぜる。
火を使う気にはなれなかった。今の俺の中には、消せていない火がある。
『休息を推奨します』
「その前に確認する」
俺はシグの胸を見た。ひびの入った外装の奥に、中枢核を囲む命令環がある。施設帰還命令は、まだそこに残っていた。
「戻れという命令は、強くなってるか」
『竜心停止直後より低下。ただし消失していません。現在も拒否可能です』
「拒否できなくなる可能性は」
『あります』
短い答えだった。俺は腰を下ろした。
今すぐ焼けば、失敗する。黒い火は命令だけを選んだ。だが、選んだのは俺ではない。暴れた火が、たまたま命令管路を食っただけだ。シグの中枢で同じことをすれば、記録も、自我も、全部焼く。
「2日使う」
『何にですか』
「火の止め方を覚える」
『私の命令環への接触は、その後ですか』
「覚えてからだ。覚えられなければ、やらない」
『記録しました』
眠る前に、固定の外れた薬指と小指を伸ばした。曲がったまま固まりかけていた2本を、細い金属片に添わせて隣の指へ縛り直す。それから、右腕へ自己治癒Lv.1を流した。
熱を持った筋肉が鈍く脈打つ。裂けた細い血管と、痙攣した筋が少しずつ整っていく。だが、骨の内側を走る焼けた線には届かなかった。治る痛みと、治らない痛みがあった。俺は治る方だけを拾った。
4呼吸流し、止める。水を飲み、身体を横たえる。
眠りは浅かった。黒い火が、胸の奥で何度も瞬いた。そのたびに目を開け、右手の指が動くかを確かめてから、また目を閉じた。
落下から推定332日。
目を覚ますと、熱は下がっていなかった。右腕の感覚は少し戻っている。
俺は骨折した薬指と小指を、添え木ごと確かめた。腫れは減っていた。左胸の痛みも、息を浅くすれば耐えられる。
菌床の補助栄養を口に入れた。加熱が足りない。湿った苦味の奥に、腐敗した甘さが混じっていた。
『摂取を中止してください』
「残りは少ない」
『毒性反応を検知』
「自然毒なら処理できる」
腹の底が冷えた。直後に、毒分解Lv.4が動いた。菌の毒。腐敗毒。濾過しきれなかった水の濁り。別々の刺激が、喉から胃へ落ちる間にほどけていく。
以前なら、1つずつ重さを感じた。今は違った。毒が入るたび、身体が判断する前に薄くなる。呼吸をしている間も、眠っていた間も、処理は途切れていなかった。
熱は残った。魔力経路の火傷も残った。毒だけが消えた。消えるものと消えないものを、身体の方が先に分けていた。
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《技能成長》
毒分解:Lv.4 → Lv.5
通常の自然毒と腐敗毒を常時無効化できるようになりました。
忘却値に変化はありません。
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表示が消えても、身体は静かに毒を削り続けた。
『毒性反応、消失しました』
「だから言った」
『記録には、摂取前の警告も残します』
俺は残りを食べた。食べなければ、治るものも治らない。
水と栄養を入れてから、左胸と右手へ自己治癒Lv.1を流す。その前に、肋骨のずれを押さえ、指の添え木を締め直した。形を整えずに治せば、間違った形で固まる。
短く流す。止める。水を飲む。また流す。
5度目で、治癒の感触が変わった。広く薄く漏れていた力が、傷んだ場所へ集まった。筋の裂け目が寄り、骨の周囲の腫れが引いていく。
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《技能成長》
自己治癒:Lv.1 → Lv.2
修復速度と資源効率が向上しました。
忘却値に変化はありません。
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痛みは消えない。骨も1度では繋がらない。だが、同じ量で直せる範囲が増えた。
俺は右腕にも流した。痙攣した筋肉は緩み、皮膚の下の細い損傷も塞がった。骨の内側に残る熱だけは、動かなかった。
『変化なし。魔力経路の損傷は肉体側と一致しません』
「魂の側か」
『その表現が最も近いと推定します』
自己治癒Lv.2でも届かない。覚えておくべき限界だった。
俺は右腕を布で吊り、左手を開いた。
「試すぞ」
床には、シグが帰り道で外してきた命令導体が並んでいた。竜心外郭の、命令の死んだ管路から切り取ったものだ。
3本ある。1本目には、何も残っていない。2本目には、扉を閉じる命令が残っている。3本目には、施設へ戻れという古い信号を、俺が眠っている間にシグが複写した。
『複写信号は命令形式のみです。私との接続はありません』
「それでいい」
『右腕は使いませんか』
「右は昨日の熱が抜けてない。左でやる」
『了解しました。停止の合図は私が出します』
「頼む」
俺は1本目へ左手を向けた。
胸の奥を探る。黒炎Lv.1は眠っていた。起こそうとすると、昨日の熱が右肩まで走った。力で引けば暴れる。俺は息を吐き、指先まで通す道を1本に絞った。
1呼吸。左の人差し指に、爪より小さな黒い炎が灯った。
導体へ触れる。何も起きない。金属は冷たいままだった。
「止める」
火は消えた。胸の奥に戻るのではない。供給を切れば、その場で消える。
『消失を確認。導体に変化はありません』
2本目へ触れた。黒い火は金属を焼かなかった。表面を走る淡い命令光だけに食いついた。閉鎖命令が、1文字ずつ欠けるように消えていく。
俺は半分で供給を切った。火は止まった。残った命令光は、そこから先へ流れていった。
『停止を確認。侵食距離、指先から約6センチ』
「もう1度」
同じ場所へ火を置く。今度は約3センチで止めた。
次は、指先だけにまとわせる。その次は、触れずに飛ばす。黒い粒は2歩先で崩れた。
「届かないな」
『出力が途中で散っています』
もう1度。3歩。4歩目で、細い黒い火が導体に届いた。命令光だけを噛み、焼印のような黒い痕を残す。
『到達距離、約3メートル。命令接続への干渉を確認』
俺は膝をついた。吐いた息が熱い。視界の端が暗くなる。
『中止してください』
「今日はここまでだ」
黒い火はまだ粗い。だが、出す場所と、止める瞬間は選べた。
翌日まで休んだ。
落下から推定333日。
シグは菌床拠点の中央に座った。胸部外装が開いている。中枢核の周囲に、3重の命令環が見えた。
白い環は駆動。青い環は記録と識別。赤黒く明滅する細い環が、施設帰還命令だった。
『帰還命令は外周環から中枢核へ接続。切断位置はここです』
シグが1本の針で示した。細い。指1本分ずれれば、青い環に触れる。
「失敗したら」
『記録損失、自己識別の欠落、または停止』
「戻せるか」
『困難です』
「やめるなら今だ」
『実行を要請します』
「命令だからか」
『いいえ』
返事は早かった。
『施設帰還命令は、私の現在判断と競合しています。競合の除去を選択します』
俺はシグの単眼を見た。光は揺れていなかった。
「分かった」
俺は頷いた。命令ではない。少なくとも、今の返事はシグが選んだ。
俺たちは手順を決めた。シグは外周環と中枢核の間に、死んだ導体片を差し込む。火が境界を越えたら、導体ごと排出する。俺は左手だけを使う。1呼吸を超えない。
「失敗したら2度目はない」
『承知しています。私も同じ条件を記録しました』
「始める」
『記録開始』
俺は赤黒い環を見た。暗視Lv.3を深めると、命令光の脈動が暗闇の中で浮かんだ。速い。3回に1度、わずかに弱まる。
弱まった瞬間を待つ。1回。2回。3回目。
左の人差し指に黒い火を灯し、触れた。
火は赤黒い命令へ食いついた。同時に、俺の胸の奥で何かが引かれた。施設全体へ繋がる古い命令が、シグを通して俺の火を引き込もうとしている。
広げるな。焼くのは1本だけだ。
赤黒い環が震えた。青い環へ、黒い火が寄る。
「まだだ」
『境界まで約3ミリ』
3ミリ。紙より薄く思える距離だった。
俺は火を押さえた。いや、押さえるのではない。食う場所を、命令の継ぎ目だけに絞る。
赤黒い光の下に、古代文字が1つ見えた。
帰還。
その1文字へ、火を沈めた。
音はなかった。赤黒い環が、途中で切れた。
「止める」
供給を断つ。黒い火が消えた。
次の瞬間、右腕から肩、胸へ焼けた杭が通った。俺は床へ倒れた。息が吸えない。歯が鳴る。全身から汗が噴き出した。
『レイ。応答してください』
「……動くな」
シグの胸部では、青い環が回っていた。白い環も消えていない。赤黒い環だけが、二度と光らなかった。
俺は震える手で水を飲み、右腕へ自己治癒Lv.2を流した。筋肉の痙攣は少し止まった。だが、魔力経路に焼きついた痛みは残った。
魂に近い傷は治らない。黒い火を使った代償だけが、身体の奥に積み重なっていた。
「確認しろ」
シグの単眼が細く明滅した。長い沈黙だった。
『駆動系、正常。記録領域、欠損なし。自己識別を維持』
「命令は」
また沈黙した。
『施設帰還命令を確認できません』
汗が目に入り、視界が滲んだ。俺は床に横たわったまま、目を閉じた。
焼き切れた。シグを施設へ縛っていた、最後の1本だけを。
『命令が消失しました』
声は同じだった。
だが、その言葉の後に続くものを、俺は決めなかった。
もう、決める必要はなかった。
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