忘却の黒炎
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それでは、どうぞお楽しみください。
まず4日、何もせずに休んだ。
菌床を食べ、水を飲み、眠った。左肩と右脇腹の布は毎日替えた。外れた左膝は金属板で固定し、右手の薬指と小指は隣の指へ縛ったままにした。肋骨は、深く息を吸うと痛んだ。それでも4日目には、壁まで歩けた。
急ぐ理由はある。内郭の奥では、竜心がまだ転移設備への供給を止めている。止めたままなら、地上へ帰る道はない。だが、焦って踏み込んだ結果が今の身体だった。武器はもうない。菌床も、休むたびに減っていく。次に負ければ、ここまで身体を戻せるとは限らない。
5日目、菌床を多めに食べたあとで、自己治癒Lv.1を6秒だけ使った。左膝と胸の奥が熱を持った。骨の内側を、指で押し広げられているような熱だった。反応は2分47秒で止まった。
『反応の停止を確認しました』
「水をくれ」
水を飲み、もう一度食べる。傷は消えない。だが、左脚へ体重を乗せても膝がずれなくなった。胸の痛みも、浅く走るだけなら耐えられる。
6日目は使わなかった。
「今日はやめておく」
『同意します。菌床の消費を優先して抑えてください』
7日目、俺は壁へ刻んだ2つの数字を見た。11.4秒と、5.7秒。
『命令空白は竜心の供給経路にも生じる可能性があります』
シグが言った。
「影が槍を移るのは、供給経路を使う」
『推定です』
「空白の間は移れない」
『推定です』
「十分だ」
『前回も、あなたは同じ発言をしました』
俺は壁から目を離した。シグの光学部は、まっすぐ俺を向いていた。
「今回は撤退条件がある」
『確認します』
「最初の2周期で固定機構を3基以上壊せなければ退く。左膝がずれたら退く。胸の痛みで息を止めたら退く。お前との連絡が切れたら退く」
『武器はありません』
「竜の攻撃を使う」
口部攻撃は、白い槍の台座ごと石を消した。俺の刃より強い。影は俺を狙う。なら、射線の先へ固定機構を置けばいい。
『最後の一撃は』
「壊れた槍を使う」
前回の攻撃で、台座ごと抉られた固定機構がある。残骸が残っていれば、白い槍の破片は武器になる。
「残ってなければ、退く」
『撤退条件へ追加します』
死ぬまで続ける戦いではない。勝てる形がなければ戻る。それから、もう一度来る。
「行くぞ」
落下から331日。第12層へ入って89日目だった。
東側正門の前で、シグは右側管路の保守切替器へ接続棒を入れた。俺は古い布を細く裂き、切替器と床の重りを結んだ。竜心の脈動から23秒後に重りが落ちれば、封印命令の再送が遅れ、5.7秒の空白が生まれる。布が切れれば終わりだから、1度しか使えない。
『私が残り、手動で繰り返す方法もあります』
「却下だ」
『理由を確認します』
「一緒に帰るからだ」
シグは答えなかった。接続棒を抜き、俺の横へ戻る。
『記録しました』
正門内の攻撃筒と黒い柱は、まだ互いを攻撃対象としていた。赤い光と黒い杭が交差する間を進む。硬殻Lv.3は、右脇腹と左膝だけに薄く展開した。広げすぎず、体力を残す。
封印守護体は、外郭通路の奥に倒れていた。生きている。白い外殻の半分が黒く焼け、呼吸のたびに背の杭が軋んだ。赤い左目が俺を追う。だが、立ち上がろうとはしなかった。
「次に来たとき、まだ生きてたら避ける」
『討伐しないのですか』
「今は竜心だ」
内郭扉へ着いた。前回シグが使った外部操作溝は、黒く焼けていた。扉は降りきっている。だが、竜の光が抜けた下の縁が歪み、床との間に人ひとり分の隙間が残っていた。俺が先に這って入り、シグを引き込んだ。
黒い心臓は脈打っていた。残る白い槍は6本。壊れた台座のそばに、槍の先端が落ちている。長さは俺の前腕ほどで、断面は鋭い。俺は布を巻いて握った。右手の2本は固定したまま使わない。親指、人差し指、中指で支える。
『握力低下を確認』
「落としたら退く」
黒い粒が集まり、心臓の前に竜の影が現れた。
『戻ったか、アルド』
影の声が、前と同じ低さで部屋に落ちた。
「レイだ」
『名を替えても、同じことをする』
「同じなら、今度は逃げる」
竜の眼が細くなった。口の奥に黒い光が集まる。
『周期開始』
シグの声で数え始める。2.8秒。俺は1本目の白い槍を背にした。光が放たれる直前、右へ踏む。すぐ横で床が消えた。光は俺の後ろを通り、白い槍の根元へ当たる。槍が折れた。
『1基停止。右爪まで1.9秒』
見える爪より2歩遠くへ出る。黒い線が胸の前を通った。
『翼圧まで2.2秒』
次の槍へ背を向ける。翼が開き、圧力に押された身体が台座へ近づいた。左膝はずれない。胸は痛む。息は止めない。撤退条件を、ひとつずつ確かめた。
『次周期まで6.7秒』
影が薄くなる。次の固定機構へ移ろうとしている。その途中で、黒い粒が止まった。白い槍と竜心をつなぐ光が、一斉に消える。
『空白開始』
正門の重りが落ちたのだ。影は移動できない。心臓と槍の間で、輪郭を崩している。
俺は一番近い槍へ走った。翼圧を受けた接続部に、白い亀裂が入っている。槍の破片を差し込んで体重をかけると、1基が倒れた。
『残り4基。空白3.1秒』
隣の槍まで5歩。間に合う。破片を根元へ打ち込む。硬い。右手の固定が軋んだ。左手を添えて押すと、亀裂が広がった。
『空白0.8秒』
槍が折れた。同時に命令が戻り、赤い光が床を走った。
竜の影が目の前に現れる。爪が来る。硬殻Lv.3を左前腕と胸へ重ねた。受けずに、斜めに逸らす。殻の表面が削れ、身体が横へ回った。それでも、倒れずに残った。
『3基停止。撤退条件に該当しません』
「続ける」
影の胸に赤い亀裂がある。前より広い。固定機構が減り、輪郭も薄くなっていた。
『なぜだ』
竜の影が言った。
『なぜ、お前はまだ帰ろうとする』
翼が開く。俺は床へ槍の破片を突き立て、両腕でつかんだ。圧力が来て、身体が浮く。破片が床を削り、3歩押されたところで止まった。
「帰ると決めたからだ」
『誰のために』
口部へ光が集まる。俺は4本目の槍へ向かった。
「妹のためだ」
『その声も、いずれ忘れる』
足が止まりかけた。まだ、忘れていない。怒った声も、泣きながら呼んだ声も、お兄ちゃん、と言った声も、どれもまだ俺の中にある。
『口部攻撃』
シグの声で身体が動いた。光を避ける。4本目の槍が消えた。
右爪を外へ避け、翼圧を5本目へ向けて受ける。台座へ叩きつけられ、胸の骨が鳴った。息を吐く。止めない。槍の破片を接続部へ入れ、翼圧で生じた亀裂へ押し込む。5本目が倒れた。
残り1本。
黒い心臓の脈動が乱れた。6秒。4秒。2秒。間隔が縮むたび、床の震えが強くなる。部屋全体が痙攣し、最後の槍から黒い竜が現れた。
輪郭は崩れていた。片翼がない。右腕も肘から先が粒になっている。それでも圧は強く、俺の膝が沈んだ。
『アルド』
竜の声が震えた。
『今度こそ、我を置いていくのか』
「俺はお前を知らない」
『ならば思い出せ』
赤い眼が光った。燃える街が見えた。黒い竜の額へ触れる手。誰かが泣いている。声は聞こえない。俺が見たことのある景色ではなかった。
俺は槍の破片を握り直した。
「思い出すために、帰るんじゃない」
最後の固定機構へ走る。
「今いるやつのところへ帰る」
竜の口が開いた。黒い光が集まる。俺は射線から外れず、最後の槍を背にした。
『レイ、右へ』
「まだだ」
光が膨らむ。2.8秒。残り0.4秒で右へ跳んだ。左膝が痛み、身体が傾く。黒い光が左肩をかすめ、布と皮膚が消えた。だが、光は最後の槍へ当たった。白い柱が折れる。
7基すべてが止まった。
竜の影が崩れた。黒い粒が心臓へ吸い込まれ、心臓の外殻が割れる。中央に、赤い亀裂が走っていた。
『中枢露出』
俺は走った。武器は白い槍の破片だけ。右手は3本の指しか使えない。左肩から血が流れている。それでも届く。
『アルド』
心臓の奥から、竜の声がした。
『約束を――』
「俺の約束は、帰ることだ」
槍の破片を赤い亀裂へ突き入れた。浅い。両手を重ねる。右手の固定が外れ、折れた指が曲がった。構わず、肩で押す。亀裂が広がり、黒い心臓の奥に赤い核が見えた。白い先端が核へ触れ、最後の脈動が俺の腕を伝った。
押し込む。
核が割れた。黒い心臓が止まった。
音のない光が、部屋を満たした。身体の奥へ、熱いものが流れ込む。俺は膝をついた。視界へ文字が浮かんだ。
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《討伐結果》
討伐対象:竜心中枢ヴォルグラム 1体
討伐吸収が完了しました。
能力値が上昇しました。
生命:44 → 105
筋力:41 → 100
耐久:60 → 120
敏捷:65 → 115
魔力:24 → 150
知覚:67 → 130
精神:47 → 160
獲得可能な技能があります。
獲得候補:黒炎Lv.1
魂適合率:91%
忘却負荷:大
技能枠:5/5
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力が増える。折れた指の痛みまで、遠く感じた。だが、傷が治ったわけではない。新しい力が、壊れた身体へ無理に詰め込まれている。胸が焼け、喉が乾く。
続けて、選択が表示された。
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技能枠が不足しています。
保持技能を1つ破棄してください。
暗視Lv.2
硬殻Lv.3
毒分解Lv.4
水流感知Lv.1
自己治癒Lv.1
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5つの名を見て、迷わなかった。ここから地上へ帰る。水の中で戦う力より、傷を治す力を残す。
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水流感知Lv.1を破棄しますか。
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「する」
雨音は、もう失っている。技能を捨てても戻らない。消えたのは、水の流れを身体で読む感覚だけだった。
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魂喰を実行しますか。
忘却負荷:大
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息が止まりかけた。大。これまでは微小か、小か、中だった。何を失うのかは、表示されない。
頭をよぎったのは、ミアの声だった。さっき思い出したばかりの、怒った声。泣く声。俺を呼ぶ声。それが消えるのかは分からない。別の何かかもしれない。養護院の記憶かもしれない。帰りたい理由そのものかもしれない。
『レイ』
シグが近くにいる。
『選択内容を確認できません。応答してください』
すぐには答えられなかった。帰るために、ここまで来た。何を失うか分からなくても、ここで死ねば、もうミアに会えない。声なら、会えばまた聞ける。忘れたままでも、聞き直せる。
「取得する」
黒い竜の魂が、胸の奥へ入った。痛みはなかった。
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魂喰が発動しました。
黒炎Lv.1を獲得しました。
忘却庫へ格納します。
技能枠:5/5
技能取得の代償を徴収します。
忘却深度:5 → 10
残存記憶率:98.1% → 96.3%
――感覚記憶の欠損を確認。
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身体のどこかで、何かが静かに抜けた。何が抜けたのかは、すぐには分からなかった。
俺は床へ手をついた。何が消えたのか、自分の中を順に確かめた。奈落へ落とされた日。菌床の味。シグの名前。どれも残っている。
ミアの顔も浮かんだ。口が動く。音だけがない。泣き声を思い出そうとした。出てこない。怒った声も、笑いながら何かを言った声も、俺を呼ぶ声も。
言葉は残っている。お兄ちゃん。そう呼ばれた事実も分かる。だが、どんな高さだったか。どんな震え方だったか。もう分からない。
消えたのは、声だけだった。
「ミア」
名前を呼ぶ。返事は、記憶の中から戻らなかった。
『レイ、竜心中枢の停止を確認しました。転移供給が再開しています』
シグの声は聞こえる。ミアの声だけがない。
「記録しろ」
『何をですか』
「俺は、ミアの声を失った」
シグの光学部が、俺の顔の上で止まった。
『記録しました』
右手が黒く光った。炎が出た。熱くない。黒い火は指から腕へ広がり、床へ落ちた。石は燃えない。代わりに、床の下を走る赤い命令線が黒く染まった。
『未知の侵食を確認。手を離してください』
「離してる」
炎は消えない。竜心の残骸へ移り、白い槍の破片へ走り、壁の命令表示を黒く焼いた。胸の奥で、新しい力が脈打つ。止め方が分からない。
黒い炎が、俺の両腕を覆った。
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