竜の影
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それでは、どうぞお楽しみください。
黒い光が、竜の口から放たれた。音はなかった。光が床へ触れたあとで、石が消えた。
砕けたのではない。幅1メートルほどの溝だけを残し、その先にあった白い槍の台座まで抉り取られている。俺は右へ転がった。遅れて熱が来て、頬の皮膚が焼けた。
背後の通路の先では、心臓が止まった間に持ち上がった封印扉が、また降りてきている。ここで固定機構を止めきれなければ、転移設備は死んだままだ。手にあるのは、曲がった小型刃1本だけだった。
『直線攻撃。予兆2.8秒。射線は口部正面』
シグの声を聞きながら立つ。黒い竜の影は、心臓の前から動いていなかった。腰から下は黒い粒のまま、竜心へつながっている。
届く。俺はそう判断して、左から回り込んだ。残る固定機構は6基。一番近い白い槍まで、ここから12歩。
影の右腕が上がった。
『右爪』
身を沈める。何もない空間から黒い爪が3本伸び、胸の高さを通り過ぎた。避けた。そう思って1歩進んだところで、右脇腹が裂けた。
爪の軌道からは、腕1本分離れていたはずだった。布が開き、血が流れる。見えている形より、攻撃の範囲が広い。俺は右脇腹へ硬殻Lv.3を重ねた。傷は塞がらない。流れる血を殻で押さえるだけだ。
「次」
『口部攻撃から1.9秒後に右爪。次動作は未確認』
竜の左翼が開いた。黒い粒が広がり、床の塵が浮く。
「伏せろ!」
シグへ叫んだが、翼は振られなかった。代わりに、部屋全体が横へ動いた。身体が床を滑り、白い槍の台座へ叩きつけられる。左肩で受けた。傷が開く感覚があり、固定していた布が赤く染まっていく。
息を吸うと、胸の左側が痛んだ。骨は折れていない。まだ動ける。
『3動作目。翼の展開から0.6秒。広範囲圧力』
「間は」
『次の攻撃まで計測中』
影が薄くなった。竜心へ戻っていくように見えた。俺は立ち上がり、白い槍へ走った。8歩、6歩、3歩と距離を詰め、刃を構える。
槍の根元に亀裂はない。膜を切るには、同じ場所へ何度も刃を当てる必要がある。1度目で、表面に傷がついた。2度目は刃先が滑った。
3度目を振り下ろす前に、黒い竜が目の前にいた。移動は見えなかった。心臓の前にあった影が消え、白い槍から染み出すように現れていた。
『遅い』
低い声が、影の喉の奥から響いた。
左腕が振られる。俺は左前腕と胸へ硬殻Lv.3を展開した。衝撃が殻を抜けた。足が床から離れ、2回転して落ちる。
小型刃が手から飛んだ。白い槍の下へ滑り込み、黒い膜の隙間へ刺さる。手を伸ばした。遠い。
竜の影が刃を見た。爪が下ろされ、乾いた音がした。鎌脚の刃が3つに折れ、黒い爪の下で砕けた。
奈落で初めて自分のために作った道具だった。肉を切った。布を切った。髪と髭を整え、傷口から腐った部分を削った。何度も研ぎ直して、ずっと持ってきた。
『レイ、後退してください』
「まだだ」
『武器を喪失。右脇腹の出血が増加しています』
「1回見た」
『何をですか』
「攻撃の順番だ」
立つ。右脚へ力を入れると、膝が震えた。影は白い槍の前にいる。心臓との間を、黒い帯がつないでいた。あれを断てば、影が消えるかもしれない。武器はない。それでも、帯なら引きちぎれる。
俺は走った。竜の口に黒い光が集まる。2.8秒。正面を外す。1歩目、2歩目。光が放たれた瞬間、左へ踏んだ。すぐ横で床が消える。
次は1.9秒後に右爪。腰を落とし、見えない幅まで考えて、さらに1歩離れる。爪が通った。今度は当たらない。
次は翼。0.6秒。床へ伏せても避けられない。なら、飛ばされる方向を選ぶ。俺は白い槍へ背を向けた。圧力が来て、身体が前へ押し出される。狙いどおり、竜の影へ近づいた。
黒い帯へ手を伸ばす。右手が触れた。熱くない。冷たい。指が沈み、それでもつかめた。両手で帯を引くと、影の輪郭が揺れた。
『離れろ』
影の声に、初めて怒りが混じった。
もう一度引く。帯の内側で何かが裂け、赤い光が漏れた。効いている。
次の瞬間、竜の額が俺の胸へ触れていた。近すぎて、避けるという判断すらできなかった。赤い眼が視界を埋め、影の声が胸の内側で響いた。
『変わらないな、アルド』
『先に死ねば、守ったことになると思っている』
胸の奥で、何かが弾けた。床も、心臓も、シグも消えた。暗闇の中で、骨が折れる音だけを聞いた。
気づいたとき、俺は入口の脇の壁際に倒れていた。
息が入らない。口を開いても、喉が動くだけだった。左胸が潰されたように痛む。肋骨が折れた。右手の指が動かない。左膝は曲がったまま戻らない。額から流れた血が右目へ入った。
『レイ。応答してください』
シグの声が遠い。
「……記録」
『会話を中止してください。呼吸を優先』
「何秒だ」
『11.4秒です』
「もう一度」
『口部、1.9秒後に右爪、2.2秒後に翼圧。そこから6.7秒後に次の口部攻撃。1周期11.4秒』
口、1.9。爪、2.2。翼、6.7。声には出さず、頭の中で数字を並べ直した。
黒い竜がこちらを向いた。口の奥に光が集まる。俺は立とうとした。左膝が崩れた。右手も使えない。武器もない。
勝てない。分かっていたはずだった。最初の攻撃で倒せるとは思っていないと、自分で考えた。だが、俺は倒すつもりで踏み込んだ。見るためではない。帰りたいという焦りを、攻撃に変えただけだった。
『後方の封印扉、開放幅58センチ。閉鎖まで推定9秒』
シグは通路の先の扉の脇にいた。接続棒を外部操作溝へ差し込み、降りてくる扉を押し止めている。正門で擦った左外装の継ぎ目から、煙が上がっていた。
『退避してください』
「お前が先だ」
『拒否します』
「シグ」
『拒否します。あなたが先です』
黒い光が強くなる。2.8秒。俺は右肘で身体を起こし、左脚を引きずった。1歩。息を吐く。2歩。胸が刺されるように痛む。
『残り5秒』
光が放たれた。同時に、シグが接続棒を倒した。封印扉の片側が急に開いた。黒い光は俺の左を通り、扉の外へ伸びる。
扉の向こうで、白い守り手の咆哮が上がった。光が、外にいた守り手へ当たったのだ。衝撃で床が持ち上がる。
俺は転がりながら隙間を抜けた。シグの仮設躯体を右腕で抱え、左膝を床へつけたまま、外郭側へ這う。背後で扉が閉じていく。
最後に見えたのは、黒い竜の影だった。追ってこない。赤い眼だけが、閉じる隙間の向こうで俺を見ていた。
『逃げるのか』
細くなった隙間から、影の声が届いた。俺は答えなかった。扉が閉じた。
外郭通路には、黒く焼けた線が続いていた。守り手の姿はない。遠くで爪が床を打つ音がする。生きている。だが、今はこちらへ向かっていなかった。
『右側保守溝まで、ここから26歩。そこから先は遮蔽があります』
「行く」
『歩行不能です』
「這える」
シグを押すと、補助輪が回った。俺は右肘と右膝で進んだ。左膝は使わない。左肩から流れた血が、床へ点を作っていく。右脇腹の殻は、出血を押さえたままにした。息を浅くする。深く吸うと、折れた骨が内側を刺した。
26歩分を、数えられなかった。途中で2度、意識が切れた。そのたびにシグが名前を呼んだ。
『レイ』
「……いる」
返事をする。それだけを続けた。
保守溝へ落ちたあと、シグが俺の左脚をまっすぐに戻した。膝は外れていた。噛むための布を口へ入れる。
『戻します』
布を噛んだまま、顎だけで頷いた。短い音がした。痛みで視界が白くなった。吐かなかった。吐けば水を失う。
左肩と右脇腹へ布を巻く。胸は強く巻かない。巻けば呼吸が止まる。右手の薬指と小指は腫れていた。折れている可能性が高い。細い金属片を添え、隣の指とまとめて固定した。
『自己治癒Lv.1の使用は』
「しない」
『同意します。現在の水分と栄養では危険です』
水を1口だけ飲んだ。携行の菌には手をつけない。ここで食べれば、菌床へ戻るまでの分がなくなる。
2時間休み、守り手の音が遠ざかってから動いた。東側正門の攻撃系統は、まだ互いを敵と認識していた。命令空白を作る余裕はない。だが、競合が固定されたままの区画では、赤い攻撃と黒い杭が互いを打ち消していた。止まった攻撃筒の陰を通り、シグが周期を数え、俺が這う時間を選ぶ。
「まだか」
『まだです。……今です』
1度、黒い杭が背中をかすめた。硬殻Lv.3を展開したが、殻の下まで衝撃が残った。それでも止まらなかった。
菌床拠点へ戻ったとき、落下から322日になっていた。扉を内側から閉めたあと、俺は3日動けなかった。
1日目は止血と固定だけをした。汚染水を濾過し、少量ずつ飲む。菌床を加熱する作業はシグが管路の切替器を押し、俺が横になったまま時間を指示した。
「そこで戻せ」
『切替器を戻しました』
2日目に右脇腹の出血が止まった。左肩は腫れた。右手の2本の指は動かない。左膝は固定を外せない。肋骨の痛みで、眠りが何度も切れた。自己治癒Lv.1は使わなかった。治す材料を身体へ入れることを先にした。
3日目、上体を起こした。シグは壁へ記録を映した。
『竜心凝集体の記録。攻撃周期は11.4秒。口部直線攻撃、1.9秒後に右爪、2.2秒後に翼圧、6.7秒後に次周期』
「槍から出た」
『固定機構間の移動時間は0.3秒未満。通常の移動ではありません。竜心から各固定機構への供給経路を利用した可能性があります』
「俺が帯を引いたときは」
『凝集密度が17%低下。胸部の赤い亀裂が0.4秒露出しました』
「効いてた」
『はい。ただし、あなたはその直後に戦闘不能となりました』
壁へ刻んだ数字を見る。11.4秒。外の正門で作った命令空白は5.7秒。ちょうど半分だった。偶然かもしれない。だが、竜心の命令と影の動きが同じ供給路を使うなら、重ねる意味はある。
「俺の敗因は」
『観測前に接近したこと。武器が固定機構の外殻へ適していなかったこと。負傷状態で3動作を連続回避できると誤認したこと。撤退条件を決めなかったこと』
正しい。全部、正しかった。
「他には」
シグの光学部が俺を向いた。答えが来るまで、わずかな間があった。
『帰還を急ぎ、自身の死亡を許容したことです』
俺は答えなかった。黒い竜の言葉を思い出す。先に死ねば、守ったことになると思っている。
アルドがそうだったのかは知らない。俺がそうなりかけたことだけは分かる。俺が死ねば、ミアのところへ帰れない。シグも地上へ出られない。守ったことにはならない。
「次は撤退条件を決める」
『再挑戦を前提としていますか』
「そのために記録した」
『現在は歩行困難です』
「今は行かない」
菌床を口へ入れた。味は薄い。飲み込むたび、胸が痛んだ。
「立てるまで食う。傷を閉じる。11.4秒を使う方法を作る」
『期間は最低4日を推奨します』
「4日で足りなければ延ばす」
シグはすぐには答えなかった。光学部の明滅が、わずかに遅れた。
『記録しました』
壁の数字の横へ、もう1つ刻む。5.7秒。
敗けた。武器も失った。身体も壊された。それでも、次に必要な数字は持ち帰った。
今度は焦らない。
生きたまま、心臓を壊す。
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