黒い心臓
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それでは、どうぞお楽しみください。
黒い心臓は、空中に吊られていた。
高さは俺の背丈の3倍ほど。幅もそれに近い。表面は濡れた黒曜石のように光り、太い血管に似た管が天井と床へ伸びている。
脈打つたび、部屋全体がわずかに沈んだ。振動が足裏から骨へ響く。これまで街で感じていた57秒ごとの脈動とは違った。速い。6秒に1度だった。
俺は入口から3歩の位置で止まった。背後の通路の先で、くぐってきた封印扉は閉じたままだ。その向こうから、守り手が床を引っかく音がときどき届く。追ってはこない。だが、戻れる道でもなかった。
携行の菌は2日分、水は2筒。長剣はもうない。この心臓の封鎖を解いて転移設備へ供給を戻せなければ、地上へ帰る道はどこにもない。
『竜心中枢を確認。外殻損傷率、推定3%。稼働状態は正常ではありません』
シグが俺の左へ並んだ。左側の外装には、正門の扉に擦れた傷が残っている。歩行に支障はないようだが、腕を動かすたびに内部で硬い音がした。
「正常じゃないのに、動いてるのか」
『命令系統が複数存在します。竜心命令、都市防衛命令、封印維持命令。互いに優先権を奪い合っています』
「外で見たのと同じか」
『同じ構造です。ここでは3系統が重なっています』
心臓の周囲には、白い柱が7本立っていた。
柱というより、槍だった。天井から斜めに突き下ろされ、黒い心臓の周囲を囲んでいる。先端は外殻へ触れる寸前で止まり、細い光の糸を何本も伸ばしていた。光は脈動に合わせて明滅する。赤、白、黒。3色が、決まらない命令のように入れ替わった。
「転移設備への供給は」
『遮断されたままです。供給経路は竜心中枢を通過しています』
「戻す方法は」
『外部端末を確認します』
シグが右側の壁へ向かった。俺は心臓から目を離さず、その後ろを進んだ。床には円形の溝が刻まれ、乾いた黒いものがこびりついていた。血にも見えるが、匂いはない。
溝をまたいだ瞬間、声が落ちてきた。
『――アルド』
さっきより、はっきりしていた。シグの声ではない。男の声だった。低く、擦れている。心臓の内側からにも、頭の奥からにも聞こえた。
俺は足を止めなかった。
「誰だ」
『……また、忘れたのか』
心臓が脈打った。視界の端が暗くなる。
濡れた石の廊下。白い外套を着た男の背中。血に染まった手。知らない景色が一瞬だけ浮かび、消えた。
俺は奥歯を噛んだ。記憶を失ったときに起こる空白とは違う。これは、俺の中から抜けたものではない。外から押し込まれた。
『レイ』
「分かってる」
シグが振り返る。
『生体反応に乱れ。接続を受けています』
「切れるか」
『発信源を特定できません。竜心へ近づくほど強くなる可能性があります』
俺は胸元の布を握った。そこには、記録帳が入っている。ミア。押し込まれた景色より、その顔のほうがずっとはっきりしている。
アルドが誰であろうと、今ここで知る必要はなかった。
「端末を見ろ」
『了解しました』
シグは壁の黒い板へ右手を近づけた。触れてはいない。光学部が文字を追っていく。
『外部表示を読み上げます。竜心中枢固定、封印維持、転移供給遮断。解除条件は、中枢固定の停止、または管理権限の承認』
「権限は使えるか」
『照合を開始すれば、施設側との直接接続が必要です』
帰還命令がシグを奪う。ここまで来て、それを試す理由はない。
「却下だ。固定を止める」
『同意します。固定機構は7基です。全基が竜心外殻と連動しています』
白い槍を見た。7本。守り手につながっていた供給管と、同じ数だった。
「7本だ。守り手の管と同じだ」
『一致を確認しました。関連は未確認です』
「壊せば転移設備へ流れるのか」
『確証はありません。固定停止後、竜心が封印維持へ回している出力を再配分できる可能性はあります』
「可能性でいい」
戻ってやり直す余裕はない。
俺は右腰から小型刃を抜いた。ヴェノムマンティスの鎌脚から削り出した刃だ。何度も研ぎ直したせいで、作った頃の半分ほどの長さしかなく、先も曲がったままだ。心臓を壊すには足りない。だが、固定機構の隙間を断つなら使える。
俺は一番近い白い槍へ寄った。
槍の根元には、指2本分の黒い管が束になっている。表面を薄い膜が覆い、その下を赤い光が流れていた。
脈動から2秒後、流れが止まる。次の脈動の直前に、白くなる。俺は3回見た。3回とも同じだった。
「黒から赤。赤が止まって、白。そのあと脈動」
『周期6.3秒。白色化は0.8秒です』
「白いときは」
『固定出力が最も低下します』
刃先を膜へ当てた。押しても入らない。守り手の外殻ほどではないが、今の刃では力任せに切れなかった。
俺は手を離し、周囲を見た。槍の側面に、細い亀裂がある。そこだけ黒い管が露出していた。守り手が暴れた影響か。あるいは、もっと前についた傷か。
亀裂へ刃を入れれば届く。
『――アルド』
心臓の方から、声が近づいた。
『お前は、帰すと……言った』
また景色が入り込んでくる。燃える街。膝をつく黒い竜。その額へ手を置く誰か。顔は見えない。
「誰をだ」
『……我を』
心臓の鼓動が速くなった。6.3秒。5.8秒。5.2秒。間隔が詰まっていく。
俺は刃を握り直した。
「お前がヴォルグラムか」
返事はなかった。代わりに、心臓の表面へ赤い線が走った。線は鱗の形を作り、すぐに沈んだ。
『音声の発信主体を判定できません。保存記録、残留思念、竜心中枢の自律応答。いずれも可能性があります』
「答えは要らない」
『レイ』
「ここで知っても、帰れない」
ミアの顔は思い出せる。髪の色も、目の色も、声も残っている。妹がいて、帰ると約束した。それで足りる。
それまで誰だったかを知るために、今の約束を捨てる気はない。
「転移設備を開ける。それが先だ」
『了解しました』
シグが俺の隣へ立った。右腕を上げ、白い槍へ向ける。
『切断後の反応は予測不能です。私が外殻変化を記録します』
「命令が来たら」
『拒絶します』
「動けなくなったら置いていく」
『推奨しません』
「なら動け」
『了解しました』
4回目の脈動を待った。黒、赤、停止。そして白。
俺は踏み込んだ。止血した左肩が引きつれたが、構わなかった。
小型刃を亀裂へ突き入れ、管の束へ押し込む。浅い。手応えがない。刃を寝かせ、全身の重さをかけた。甲高い音が鳴り、刃の根元が軋む。黒い管が1本、裂けた。
熱い液体が右手へかかった。皮膚が焼ける。それでも手は離さない。さらにひねる。2本目が切れた。
『右手に熱傷を確認』
「後でいい」
白い槍の光が消えた。
その瞬間、心臓が止まった。音も、床の震えも消えた。守り手が扉の向こうで立てる音さえ、聞こえなくなった。
静けさの中で、背後の通路の先から、重いものが外れる音がした。閉じていた封印扉が、低く軋みながら持ち上がっていく。
『固定機構1基、停止』
シグの声だけが響く。
『竜心出力、急速上昇』
黒い心臓が膨らんだ。俺は刃を抜き、後ろへ跳んだ。
1秒。2秒。3秒。遅い。何かが来る。
「下がれ!」
次の鼓動が部屋を叩いた。
床が割れた。空気が黒く染まり、俺の身体が入口側へ投げ飛ばされる。背中から床へ落ち、息が抜けた。左肩の傷が開き、固定した布の下が温かく濡れていく。それでも、小型刃は離さなかった。
『レイ、応答してください』
「生きてる」
起き上がる。心臓の前に、黒いものが集まっていた。
煙ではない。鱗。角。翼。黒い粒が形を作り、人より大きな竜の上半身になっていく。脚はない。腰から下は、心臓へ伸びる影とつながっていた。胸の中央に、赤い亀裂がある。俺が切った管と、同じ位置だった。
『未知の実体化現象を確認。竜心出力の凝集体と推定』
「推定でいい。攻撃は」
『不明です』
「弱点は」
『不明です』
「逃げ道は」
『封印扉は開放後、閉鎖を再開しています』
背後を見た。心臓が止まった間に持ち上がった扉が、通路の先でゆっくり降りてくる。隙間は人ひとり分。今なら戻れる。
だが、戻れば切った固定機構がどうなるか分からない。再起動されれば、同じ手は使えないかもしれない。心臓の周囲には、まだ6本の白い槍が光っている。ここを開けなければ、転移設備は死んだままだ。
黒い竜の頭が持ち上がった。閉じていた眼が開く。赤い瞳だった。
『アルド』
今度の声は、部屋ではなく、目の前の影から聞こえた。
『約束を果たせ』
圧が増した。膝が沈む。硬殻Lv.3の表面が、触れられてもいないのに軋んだ。
強い。守り手より、はるかに。
俺は右手の火傷を衣の裾へこすりつけた。小型刃を逆手に持つ。
「俺はアルドじゃない」
黒い竜が首を傾けた。
「俺はレイだ」
答えが正しいかは分からない。それでよかった。今の俺が決めた名だ。
「帰るために、お前を壊す」
竜の口が開いた。奥に、黒い光が集まっていく。
シグが俺の前へ半歩出た。
『攻撃予兆。回避を推奨』
「記録しろ」
『何をですか』
「こいつの全部だ」
最初の攻撃で倒せるとは思っていない。刃も足りない。身体も万全ではない。それでも、何が返ってくるかは、殴らなければ分からない。
俺は黒い心臓へ向けて走った。
竜の影が、笑ったように見えた。
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