残された証言
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それでは、どうぞお楽しみください。
閉じた点検扉の向こうで、何かが1度だけ擦れた。
俺は長剣の柄へ左手を置いた。音は続かない。扉の下の隙間にも、青い光や黒い粉は見えなかった。あの扉は、こちらからはもう開かない。この先の道は、板に残った記録から探すしかなかった。
「保守路か」
『金属の収縮音と推定します。扉の再開放反応はありません』
「記録は」
『復元を継続しています。ただし、先に左脚の再固定を推奨します』
記録板へ向いていた接続棒が、俺の脚へ下がった。さっき滲んだ血は、固定帯の外まで広がっていた。流れ続けてはいないが、このまま歩けばまた開く。
俺は荷台の陰を確かめた。避難搬送区画は、封鎖板の内側から奥へ40メートルほど伸びていた。左右に空の荷台が6台。中央には黒く焼けた案内柱があり、その先で通路が右へ曲がっている。天井の青い灯りは3つだけ生きていた。人影はない。
「ここで直す」
『休息時間も必要です』
「記録を読んでいる間なら休める」
『同じ行為ではありません』
長剣を抜いて刃を見た。増えた欠けはない。鞘へ戻し、鞘口へ巻いた布だけを外して左脚の固定へ回す。
履物は外側が完全に開いていた。残った糸を小型刃で切り、底布をずらして傷へ触れない形に巻き直した。
固定帯を緩めると、血で硬くなった布が皮膚へ張りついていた。水を少しだけ使って剥がす。
『使用量、1筒の約20分の1です』
傷の端は開いていたが、深く裂け直してはいない。新しい布を重ね、金属帯を腿の外側へ当てた。
右肩は固定したまま動かさない。左手だけで結び目を作ると、薬指と小指が布を落とした。2度目は、目で指の位置を確かめた。
「シグ。端を押さえろ」
『了解しました』
変形していない脚の1本が、布を床へ固定した。俺は結び目を締め、足を伸ばしたまま荷台へ背を預けた。痛みは減らない。だが、傷が動く感覚は止まった。
「読め」
シグは記録板へ向き直った。曲がった三脚は、先端がわずかに外へ開いていた。移動のたびに、補助輪より遅れて石を掻く。
接続棒を最も手前の板へ触れさせると、板の縁へ青い光が走った。
『記録番号の大半が欠損しています。時間情報も復元できません』
「アルドの記録はどこからだ」
『搬送責任者欄です。個人識別情報は削除されています』
「名前だけ残ったのか」
『はい』
青い光が、割れた板から隣の板へ移った。最初に浮かんだのは、人数だった。
『歩行可能者、43名』
『要補助者、18名』
『緊急搬送対象、9名』
その下は焼けている。別の板には、行き先だけが残っていた。
『第12層転移区画』
俺は記録帳へ数字を写した。
「この転移区画は、地上へつながるのか」
『行き先情報は欠損しています。第12層に転移設備が存在したことだけ確認できます』
「今も動くかは分からない」
『はい』
それでも、初めて形のある帰路が出た。第12層へ行き、転移設備を探す。地上へつながる保証はない。だが、閉じた正門や削られた名前よりは先へ続いていた。
「続けろ」
『次の記録を復元します』
短い雑音のあと、別の文字が浮かんだ。
『負傷者を先に送る。歩ける者は保守路へ』
区画へ入ってすぐ、一番手前の板で読んだ文と同じだった。今度は、その続きが残っていた。
『荷台が足りない。担架を解体し、固定板として使え』
『水は負傷者へ。歩ける者は第11層北槽で補給する』
『搬送を止めるな』
命令だけではなかった。次の板には、別の筆跡があった。文字の幅が狭く、途中から線が震えている。
『西通路で自動兵が起動。負傷者3名を動かせない。閉鎖許可を求む』
その下へ、深く刻まれた返答が残っていた。
『閉鎖を許可しない。荷台を戻す。俺が西通路へ行く』
『搬送責任者 アルド・クロウ』
俺は炭筆を止めた。
「声は残ってないのか」
『音声記録領域は失われています』
第10層の個人記録庫に残っていた『急ぐな。先に生き延びろ』を思い出した。同じ男が言ったのかもしれない。
だが、声も、宛先もない。今の記録にあるのは、負傷者を置いていかなかったという事実だけだった。
「西通路はどこだ」
『現在位置から右へ続く通路が該当する可能性があります。ただし、区画図は欠損しています』
「自動兵の記録は残ってるか」
『断片があります』
シグの接続棒が3枚目へ移った。そこは黒く焼け、中央に細い線しか残っていなかった。
『都市防衛命令――継続』
『竜――命令――優先』
『避難搬送命令――競合』
「竜」
『前後が欠損しています。名称、種別、命令者は確認できません』
天井の灯りが1つ消えた。
通路の奥で、金属が規則正しく打ち合う音がした。1度。間を置いて、2度。
シグが接続棒を記録板から外した。
『移動音ではありません。固定機構の切り替え音と推定します』
「記録にあった自動兵か」
『断定できません』
俺は長剣を抜こうとして、鞘を固定する布を使ったことに気づいた。鞘口は開いたままだった。腰を上げた瞬間、長剣が半分滑り出る。
左手で柄を掴み、刃だけを抜いた。
「休息は終わりだ」
『14分しか経過していません』
「音が止まるまで動かない。記録を続けろ」
荷台の車輪へ長剣の背を預け、奥を見た。金属音は3度目を打たなかった。
代わりに、右の通路から冷たい風が流れてきた。血と油の臭いはない。古い石と、乾いた金属の臭いだけだった。
シグが次の板へ接続する。
『復元可能領域が狭いため、文の順序を保証できません』
「分かるところだけ読め」
『負傷者9名、第12層へ搬送完了』
『要補助者、残り11名』
『西通路、通過不能』
青い文字が1度消え、違う位置へ戻った。
『搬送責任者権限により、防衛区画を手動停止』
『停止維持、38秒』
『次の荷台を送れ』
俺は右の通路を見た。アルドは自動兵を壊していない。止まる時間を作り、その間に負傷者を通した。
「毎回38秒か」
『この記録だけでは不明です。別の断片を照合します』
次の板には、数字だけが縦に残っていた。『41』『36』『43』『停止失敗』『39』。最初の38秒と合わせても、長さは揃っていない。そのうち1つは、止まってすらいなかった。
「命令が競合してるなら、切り替わるたびに違う」
『可能性があります。第10層の自動兵は都市防衛命令だけを保持していました。ここでは別系統の命令が干渉していた可能性があります』
断定しない。シグは、残っていないものを埋めなかった。
俺は記録帳へ、そのまま書いた。
『第11層避難搬送区画。自動防衛命令と、竜に関係する命令が競合した可能性。停止時間は一定ではない。失敗記録あり』
書き終えると、シグが別の板を読み始めた。
『歩行可能者、保守路への誘導完了』
『要補助者、残り4名』
『転移区画から応答なし』
『第12層側で封鎖発生』
そこで文字が途切れた。俺は息を止め、次の光を待った。
浮かんだのは、命令ではなかった。
『アルド、もう閉じろ』
書いた者の名は削れていた。返答は、少し離れた場所に残っていた。
『4人残っている』
『歩けない』
『だから置いていかない』
最後の線は深かった。板の表面が割れ、文字の半分が欠けている。
『先に送れ。俺は――』
その先はなかった。
「残り4人は」
『搬送完了記録を確認できません』
「遺体の記録は」
『ありません』
置いていかなかった。助けられたとは書かれていない。
俺は記録帳へ、見つかった文だけを写した。助かったとも、死んだとも書かなかった。
シグの青い光が、俺の手元へ向いた。
『アルド・クロウとあなたの関係を示す記録は、現在まで確認されていません。名称の一致以外に、同一性を示す情報もありません』
「分かってる」
炭筆の先が折れた。力を入れたつもりはなかった。
短くなった先端を小型刃で削る。左手の指がうまく動かず、削った炭が床へ落ちた。
『炭筆の残りは、現在の使用量で算出できます』
「今はいい」
俺は落ちた炭を指で集め、記録帳の端へ寄せた。
「俺が知りたいのは、あいつが誰かじゃない」
『では、何を確認しますか』
「どこまで人を送ったかだ」
記録帳を閉じた。
アルドが俺と同じ魂なのか、ただ同じ姓を持つ誰かなのか。それを決める記録はない。だが、負傷者を先に送った。歩けない4人を残さなかった。答えが欠けても、選んだことは残っていた。
「第12層へ行けば、続きがあるかもしれない」
『転移区画の記録が保持されていれば、搬送結果を確認できる可能性があります』
「なら進む」
『左脚の休息が不足しています』
「あとどれくらいだ」
『最低でも46分を推奨します』
「30分」
『40分です。あなたには、14分で終了しようとした記録があります』
俺は言い返さず、荷台へ背を戻した。
長剣を膝の横へ置き、鞘口へ巻く代わりの布を探す。残っている布は固定用だけだった。
荷台の座面を確かめると、裏側に古い革帯が残っていた。乾いて硬いが、引いても切れない。小型刃で2本に分けた。
1本を鞘口へ巻き、もう1本をシグの曲がった三脚へ結んだ。外へ開いた脚を内側へ寄せると、床を掻く音が少し小さくなった。
『応急固定を確認しました。継続使用で破断する可能性があります』
「第12層まで持てばいい」
『その判断は、あなた自身の装備にも繰り返されています』
「まだ持ってる」
『損耗を否定する根拠にはなりません』
水を1口だけ飲んだ。食料は出さない。残りは4分の1食分と干し肉1片半しかない。ここで食べても、傷を治すには足りなかった。
「板を見る。座ったままでいい」
『座位での作業であれば、休息時間に含めます』
40分が過ぎるまで、俺たちは残りの板を調べた。名前の多くは削られていた。残っていたのは人数、搬送順、閉鎖された通路、停止時間だけだった。
アルドの名は4回出た。どの記録でも、最後の荷台より先に送られた形跡はなかった。
最後の板には、短い文が残っていた。
『転移区画へ送った者の記録を残せ』
『帰れた者が1人でもいるなら、それが証明になる』
署名部分は割れていた。
「これもアルドか」
『判定できません。搬送責任者の記録群に含まれていますが、筆跡情報が不足しています』
俺は署名を書き足さなかった。残った文だけを写した。
その時、右の通路で青い光がついた。床から天井へ、細い線が1本ずつ伸びていく。8本目で止まり、通路の奥に並ぶ金属の影を照らした。
人型ではない。天井と壁から伸びた腕が、通路を挟むように向かい合っていた。先端には刃と、穴の空いた筒が交互についている。中央の床には、荷台の車輪と同じ幅の溝が続いていた。
『防衛区画の一部が起動しました』
「止まる時間は読めるか」
『現時点では不明です。命令の切り替わりを記録する必要があります』
青い線が消えた。壁の腕が、同時に下がる。38秒より短い。
次に光った時、右側の刃だけが動いた。3度目は、左側の筒が床の溝へ黒い杭を撃ち込んだ。同じ動きではなかった。
俺は立ち上がらず、記録帳を開いた。
「数えろ」
『すでに開始しています』
「停止も、動いた場所も全部だ」
『記録します』
第12層へ送られた者が地上へ帰れたのかは、まだ分からない。アルド・クロウが俺にとって何者なのかも、欠けたままだった。
それでも、残された証言は1つだけ道を示していた。歩けない者まで通した先に、転移設備がある。
俺は青い光が消えるまでの時間を、シグと一緒に数え始めた。
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