上へ続く保守路
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それでは、どうぞお楽しみください。
目を開ける前に、水の音を数えた。太い管を流れる低い音が6回。濾過槽から落ちる水が2回。途中で混じる金属音はない。
俺は目を開けた。
西側貯水槽の石扉は、閉じた時と同じ位置にあった。扉の前へ撒いた灰にも乱れはない。床へ寝かせた長剣の柄には、細い布が結ばれたままだった。黒い粉も、増えた線も見えなかった。
今日、保守路へ入る。正門の封鎖の下を回り込み、第11層へ抜けるはずの道だ。中で止まれば、引き返す分の食料はない。抜けた先の扉が、帰りにも開くとは限らなかった。
「何時間だ」
『4時間38分です。落下から推定242日目へ移行しました。途中覚醒は7回。右肩を庇う動作が5回。左脚の出血増加は確認されません』
シグは入口の脇で三脚を畳んでいた。接続棒だけを持ち上げ、俺の顔へ向ける。
「眠れてる」
『継続睡眠は最長52分です。記録上は、断続的な休息です』
十分ではない。だが、立てないほどではなかった。
俺は左脚の固定帯へ指を入れた。布は乾き始め、傷の周りだけが硬い。結び目は外さず、緩みがないことだけ確かめた。
右肩は胸元へ固定したままだった。起き上がると奥に鈍い痛みが残ったが、昨日より増えてはいない。
左肘から先は冷えているように感じる。指は動く。小型刃の柄を握ると、薬指と小指へ伝わる圧だけが薄かった。1度柄を離し、もう1度握り直しても、薄さは変わらなかった。
「食料を出せ」
『保存食候補を使用しますか』
「ああ。干し肉は残す」
半食分の保存食候補を2つに割った。片方を口へ入れ、残りを布で包み直す。傷んだ脂の苦さは分かる。腹へ落ちたあとも、毒分解Lv.3の反応はなかった。
『全部食べることを推奨します』
「保守路の長さが分からない。止まった時に使う分が要る」
シグはすぐに返さなかった。接続棒の先が、包み直した布の上で止まった。
水を飲み、空いた筒を貯水槽で満たした。濾過層を通った水は冷たく、濁りはない。
装備も確かめた。長剣の刃には、アーカイブゴーレムの爪を受けた場所へ浅い欠けが3つあった。鞘口は割れ、布を巻かなければ刃が抜け落ちる。小型刃の先端は、青い供給線を切った時にわずかに曲がっていた。
左足の履物は、外側の縫い目が半分ほど開いている。右足には履物がない。代わりに巻いた布も薄くなり、石を踏んだ場所だけ黒く固まっていた。
『長剣の折損確率は算出できません。強い側面衝撃は避けるべきです』
「いつも避けたい」
『記録上、一致しません』
俺は返事をせず、長剣を左腰へ吊った。小型刃は固定帯の外へ差す。記録帳は表紙裏と綴じ糸を確認してから、布で二重に包んだ。
昨日分けた2枚の経路図も開いた。正門下へ向かう紙には切れ込みが1つ。北側の偽経路には2つ。線は変わっていない。
「出る」
『歩行状態を確認します』
「歩きながらでいい。転んだら止めろ」
『転倒前に停止を求めます』
俺は石扉を少しだけ開け、外を見た。貯水槽の前に新しい足跡はない。低い保守路の入口も、昨日と同じ形で口を開けていた。壁の青い線は1本だけだった。
俺は入口の前へ膝をついた。
穴は肩幅より少し広い。右側を太い水管が塞ぎ、左側の壁には細い溝が走っている。最初の10歩ほどは、身体を横へ傾けなければ進めない。シグの仮設躯体は、そのままでは入らなかった。
『私を先行させた場合、障害発見後の後退が困難です。レイが先行した場合、私の通過中に前方から接近されても対応できません』
「俺が先に見る。安全なら、お前を引く」
『退路側の監視がなくなります』
「入口に糸を張る」
鞘へ巻いた布から細い端を裂いた。入口の左右へ小石を積み、間へ布糸を低く張る。誰かが通れば石が落ちる。ネームレスが形だけを真似ても、音までは消せない。
俺は長剣を鞘ごと前へ押し、左肘と右膝で進んだ。右肩を壁へ触れさせないようにすると、左脚の固定帯が床を擦った。10歩に届く前に息が速くなる。
暗視Lv.2を使った。灰色の通路は、緩く下りながら西へ続いていた。壁際の青い線は途中で天井へ上がり、太い水管の向こうへ消えている。
入口から15歩で高さが増した。俺は片膝を立て、後ろを振り返った。
「ここまで来い。左の脚から入れる」
『了解しました』
シグは仮設躯体を横へ倒した。補助輪を畳み、3本の脚を1本ずつ穴へ差し込む。俺は接続棒の根元へ布を回し、左手で引いた。
金属が石へ擦れる。途中で後脚が水管の継ぎ目へ引っかかった。
「右へ2センチ」
『私の姿勢では駆動できません』
俺は身体を戻し、左手をシグの後脚へ伸ばした。指先で継ぎ目を探るが、薬指と小指では角が分からない。小型刃の背を差し込み、脚の下へ空間を作った。
『右肩を使用しないでください』
「使ってない」
布を腰へ回し、左脚を床へ押しつけた。1度目は動かなかった。
呼吸を整え、腰を後ろへずらす。シグの脚が継ぎ目を越え、仮設躯体が半歩分進んだ。その代わり、左足の履物から糸が切れる音がした。
『止血状態に変化なし。履物の外側が完全に開きました。現在の通路で停止することを推奨しません』
「同じ意見だ」
さらに引き、シグを高さのある場所まで通した。入口の布糸は切れていない。石が落ちる音もなかった。
俺たちは保守路を西へ進んだ。
通路の床には、水が指1本分ほど流れている。俺は左手をつき、水流感知Lv.1を使った。流れは前方から来ていた。一定ではない。しばらく弱まり、短く強くなったあと、また元へ戻る。
「水門が動いてる」
『周期を記録します』
3回分を待った。弱い流れが68秒。強い流れが12秒。間隔はほぼ同じだった。
「先に強くなる場所がある。強いのが過ぎたら動く」
『水門または排水口と推定します。68秒以内の移動距離を算出します』
強い流れが過ぎてから進んだ。40メートルほど先で、通路は2つに分かれた。
左は水管と一緒に下へ沈んでいる。右は乾いた石段になり、正門の方向へ戻りながら上へ続いていた。壁の表示はほとんど剥がれ、残っているのは欠けた文字だけだった。
『門下排水』
『上部保守』
「地図と照合できるか」
シグが接続棒を壁の溝へ入れた。青い光はつかない。
『外部供給がありません。形状記録では、左側が主排水路です。第11層へ接続する搬送路は右側と推定されます』
「推定か」
『正門下の表示記録と、現在までの傾斜からの推定です』
俺は左の水へ小石を落とした。流れが強くなった瞬間、小石は暗い穴へ吸い込まれた。人が歩ける深さではない。
右の石段には、古い擦れ跡が続いている。俺は左手の指でその溝をなぞった。補助輪の跡ではない。幅の違う2本の溝と、その間に何か重いものを引いた跡だった。
「搬送路だ」
『一致する可能性が高いと判断します』
階段は、一段が低く作られていた。人が歩くためではなく、荷台を引き上げるための斜面に近い。シグは補助輪を戻したが、自力では上がれなかった。
俺は布を仮設躯体の前へ結び、腰へ回した。
『現在の負傷状態では推奨できません。私を一時的に分解してください。部品の携行は可能です』
「部品のお前は、後ろを見られない」
シグは答えなかった。布が張るまで、接続棒は動かなかった。
1段目へ左足を置く。痛みはあった。だが、膝は抜けない。右足を引き上げ、腰でシグを引く。補助輪が段差へ当たり、三脚が石を掻いた。
5段進むごとに止まった。右肩は固定したままでも、身体を前へ倒すたびに痛む。左脚の布は水を吸い、傷の周りへ冷たく張りついた。
『歩幅、通常時の5割。呼吸数が上昇しています』
「段数は」
『23段です。上端は確認できません』
さらに上がった。47段目で、長剣の鞘が壁へぶつかった。巻いていた布がずれ、刃が半分抜ける。
俺は膝をつき、左手で刃を戻した。鞘口の割れが広がっている。
「次に抜けたら、鞘を捨てる」
『記録します。長剣の刃に欠け3か所。鞘口の亀裂拡大。鎌脚製小型刃の先端変形。左足の履物は外側が開放』
「食料もだ」
『保存食候補4分の1食分。干し肉1片半。水2筒。落下から推定242日』
数字へすると、残っていないものが多かった。それでも、記録できるうちは進める。
61段目で、斜面の上に黒い板が見えた。正門を内側から塞いでいる封鎖板だった。厚い板が3枚重なり、青い留め具で石壁へ固定されている。
俺たちが通ってきた保守路は、その下を回り込み、板の向こう側へ出ていた。
「正門は」
『閉鎖状態です。外部からの開放命令は受理されていません』
「開けなくていい」
封鎖板の脇に、人ひとり分の点検扉があった。取っ手はない。下部に細い接続口だけが残っている。
シグが接続棒を差し込んだ。しばらくして、扉の縁へ青い光が走る。
『記録媒体を確認』
前面に文字が浮かんだ。
『避難搬送路 手動通過』
『接続先 第11層』
「開けられるか」
『駆動力が不足しています。留め具1基のみ解除可能です』
「1つでいい」
青い留め具が外れた。
俺は小型刃を扉の隙間へ入れた。先端が曲がっているため、深く入らない。固定用金属帯へ持ち替え、隙間を少しずつ広げる。
右肩は使えない。左手だけでは、扉が戻ろうとする力に負ける。
「シグ。下を支えろ」
『私の脚部へ損傷が発生する可能性があります』
「戻せなくなったら言え」
シグは三脚の1本を隙間へ差し込んだ。俺が金属帯を引くと、扉が指2本分開いた。三脚が軋んだ。
『外装変形。駆動に支障なし。7秒以内であれば保持できます』
身体を横にして隙間へ入る。右肩の固定帯が扉へ擦れた。息を吐き、胸を薄くする。
先に長剣を向こうへ落とした。続けて記録帳を、投げずに床へ置く。俺が抜けた時、残りは3秒だった。
「脚を抜け」
『私が通過していません』
「分かってる」
扉の向こうから金属帯を差し込み、開いた幅を保つ。シグは仮設躯体を横へ倒し、接続棒から先に通した。
2本目の脚が挟まる。扉が戻り、三脚の外板が潰れた。
俺は金属帯を左手へ巻いた。背を壁へつけ、両脚で床を押す。左腿の傷が開くように痛んだ。それでも、扉は止まった。
「引け」
『レイの左脚から出血反応』
「先に出ろ」
シグが補助輪を回した。潰れた外板を石へ擦りながら、仮設躯体が隙間を抜ける。最後の脚が出た瞬間、俺は金属帯を離した。
点検扉が閉まり、低い音が通路へ響いた。
しばらく、立てなかった。左脚の布へ触れる。指先に血はついたが、流れ続けてはいない。
『再固定が必要です』
「安全を見てからだ」
『現在位置は正門封鎖の反対側です。後方の点検扉は、私の接続では再開放できません』
「戻れないな」
『はい』
俺は閉じた扉を1度だけ見て、それから前へ顔を向けた。
通路は広くなっていた。天井は高く、左右に古い荷台が並んでいる。床には何人分とも分からない足跡が、灰の下で薄く重なっていた。動く影はない。
壁の上部に、まだ読める表示が残っている。
『第11層 避難搬送区画』
その下には、細長い記録板が何十枚も差し込まれていた。多くは割れている。名前の部分だけ削られたものもあった。だが、すべてではない。
一番手前の板には、震えた文字が残っていた。
『負傷者を先に送る。歩ける者は保守路へ』
続きは黒く焼け、読めなかった。
「保守路」
俺は自分がくぐってきた方を振り返った。
「ここを通った奴がいたのか」
『記録板の文面からは、避難経路として指定されていたと推定します。通過者の有無は確認できません』
シグが板へ接続棒を向けた。
『複数の避難記録を確認します。断片化しているため、復元には時間が必要です』
俺は長剣を拾い、閉じた点検扉の前へ置いた。
戻る道は塞がった。残った食料は1食にも届かない。左脚はまた血を滲ませ、シグの三脚も1本が曲がっている。それでも、第11層へ入った。
俺は記録帳を開いた。
『落下から推定242日。第11層、避難搬送区画へ進入。正門は封鎖。保守路から迂回。帰路は再開放不能』
装備と食料の残りも続けて書き、最後に記録板の文を写した。
書き終えた時、シグの接続棒の先で青い光が1度だけ明滅した。
「何だ」
『削除されていない記録を1件確認しました』
「誰の記録だ」
シグはすぐには答えなかった。
記録板の奥で、古い文字がゆっくりと浮かび上がる。
『搬送責任者――アルド・クロウ』
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