書き換えられた道
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それでは、どうぞお楽しみください。
壁面端末に増えた線は、見比べている間にも形を変えた。正門下へ向かう線が薄れ、北側の閉鎖区画を通る線だけが青く残る。
どちらかが第11層への道だ。食料は1日分もない。間違った線を選んで入れば、引き返す分の身体は残らない。
「今、消えたな」
『表示輝度の低下を確認しました。経路情報の更新か、記録の欠損かは判定できません』
俺は端末から目を離し、膝の上で記録帳を開いた。
自分で写した線は1本しかない。西側貯水槽から水路下の保守路へ下り、正門下を抜ける線だ。北保守路には、入口から3歩で引き返した印をつけてある。
その横に、見覚えのない文字があった。
『北保守路。格子開放。第11層への搬送路』
炭筆の太さも、文字の傾きも俺のものだった。
「これは、俺が書いたか」
シグの接続棒が、帳面の上で止まった。
『私の記録に該当する発言と筆記動作はありません』
「書いたことを忘れた可能性は」
『否定できません。ただし、北保守路へ進入した記録もありません。あなたは入口から3歩で撤退しています』
記憶がないだけなら、記録を信じる。そのための帳面だった。だが、記録そのものへ偽物が混じっている。
俺は新しい行の下へ爪を当てた。炭の粉が指先につく。古い文字より黒く、紙の凹みも浅い。
「後から書かれてる」
『筆記時刻は判定できません』
「少なくとも、この頁を書いた時じゃない」
俺は元の記録を指で追った。
『北保守路。入口から3歩先で高さが増す。約10歩先に格子。街区名は削除。奥に未知の足音。進入しない』
その日の俺は、右肩を胸までしか上げられず、左腿にも傷があった。シグは背負い枠の中で、自力では動けなかった。格子を開けて先へ進んだなら、狭い穴でシグを下ろし、また背負い直す必要がある。
「その時の傷は」
『右肩痛、左腿の打撲、左肘から前腕の感覚低下。北保守路からの帰還後、右肩痛の増加は記録されていません』
「格子を開けたなら、増えてる」
今でも、右腕を胸元へ固定したまま立つだけで、肩の奥が痛む。左脚の布には、さっき止めた血が黒く染みていた。
記録より先に、身体が否定している。俺は偽の行を横線で消した。
「ネームレスか」
『可能性があります。最初に接触した個体は、あなたの筆記動作を観測しています』
「文字まで真似た」
『形状の再現は可能と推定します。内容を理解しているかは不明です』
端末の青い線が、また1度揺れた。
俺は帳面を閉じた。ここで正しい線を選んでも、次に見た時には変えられる。端末も目印も記録帳も、1つだけでは使えない。
「西側水路へ行く」
『止血後、11分しか経過していません』
「経路を決めないと、休む場所も決められない」
『記録施設への帰還を推奨します』
「戻る道も確認する」
長剣を左手へ持ち、杖のように床へついた。停止したアーカイブゴーレムの内部では、青い光が消えている。欠けた記録石板は布で包み、シグの仮設躯体へ固定した。
俺は立ち上がる前に、端末の2本の線を帳面へ写した。ただし、同じ頁には書かない。使っていない紙の端を裂き、片方へ正門下、もう片方へ北側閉鎖区画までの線を描く。
『なぜ分けるのですか』
「片方を触られても、もう片方と比べられる」
『両方を改変される可能性があります』
「だから、お前には線の形を記録させる。言葉にはするな」
『了解しました』
2枚を別の場所へ入れた。正門下の線は記録帳の表紙裏。北側の線は、左脚の固定帯の内側へ挟む。
立つと、左脚の傷が脈に合わせて痛んだ。歩幅は狭い。右肩は動かせない。戦う前より悪いが、膝はまだ抜けなかった。
『歩行状態を記録します。通常歩幅のおよそ6割。左脚を接地してから右足を出すまでに遅れがあります』
「それも使う」
『経路判定にですか』
「ああ」
俺たちは記録施設へ直接戻らず、外壁沿いに西へ進んだ。
古い水路の上は、石畳がわずかに沈んでいる。見えなくても、足裏へ細い振動が伝わった。3歩進むごとに、長剣の先で床を確かめる。
シグは遅れずについてきた。平らな場所では補助輪が回るが、石の継ぎ目ごとに三脚を置き直す音がする。
最初の目印は、治療区画から27歩の角にあった。外壁の低い位置へ刻んだ3本の傷の下の石を持ち上げる。
隠したはずの骨片がない。代わりに、北を向いた細い石が入っていた。
「変えられてる」
『私の記録では、3本傷の下は骨片1個です』
石を戻さず、道の中央へ放った。
次の目印は水路の分岐近くで、壁の傷は2組のはずだった。見つかったのは3組で、新しい1組は北へ曲がる路地の壁に刻まれている。深さも間隔も、俺が小型刃でつけた傷と同じに見えた。
俺は小型刃を抜き、古い傷へ刃先を重ねた。刃は溝へ半分入る。新しい傷へ当てると、根元まで入った。
「こっちは深い。俺がつけるなら、もっと浅い」
右肩が動かず、左脚にも体重を掛けられない。壁へ刃を深く押し込めば、身体を支える場所がなくなる。傷の形は同じでも、今の俺の力では残せない。
『記録施設を拠点化した時点でも、右肩と左腿の損傷がありました。深い傷を連続して刻んだ記録はありません』
北へ曲がる路地を見た。青い壁線が奥まで続いている。端末に増えた経路と同じ向きだった。
だが、床にシグの補助輪の跡はない。砂と灰は薄く積もったまま、俺の左右で高さが違う足跡も残っていなかった。
今の俺が歩けば、右の足跡だけが深く沈み、左は引きずった長い跡になる。さっきシグに記録させた歩き方だ。
「俺たちは、ここを通ってない」
『一致します』
「なのに、目印だけがある」
俺は路地へ1歩だけ入った。青い壁線が、足元で強くなる。
建物の窓へ、黒い影が映った。俺が止まると、影も止まる。長剣を上げず、左へ半歩ずれた。影は遅れて同じ動きをした。
「いた」
『生体反応なし。壁面設備の出力上昇を確認』
影の手に、細い棒が現れた。炭筆だった。窓の内側へ、俺と同じ傾きの文字を書く。
『第11層』
その下へ、北を示す線を引いた。
ネームレスは道を知っているわけではない。俺が残した記録の形と、第11層へ行こうとしている言葉をつなげている。
「シグ。あの線の先に、端末はあるか」
『建物内に微弱な接続反応を確認。壁面経路へ情報を供給しています』
「切れば消えるな」
『過去の事例とは一致します。ただし、接続箇所は建物内部です』
入口は北側の路地にある。影の前を通れば、また触れられる可能性がある。戦う必要はない。
俺は長剣を床へ寝かせ、石畳の継ぎ目へ小型刃を入れた。青い線は壁から床へ下り、薄い石板の下を通っている。刃で石板を浮かせると、髪より細い青い線が5本、北側の建物へ束ねられていた。
「端末まで行かなくていい」
『接続は断てます。ただし、影が反応する可能性があります』
「分かってる」
俺は固定用金属帯の端を差し込み、青い線の下へ通した。左手だけで引く。線は切れない。だが、石板から少し浮いた。
小型刃を横へ当て、束を押し切る。1本、2本。
3本目で、窓の影が振り返った。
俺を真似ていない。炭筆を捨て、知らない構えで腕を引く。青い刃が、窓から伸びた。
俺は左前腕へ硬殻Lv.2を広げた。刃は窓枠を抜け、灰色の殻へ触れた。冷たさが腕の中へ入る。
場所の順番が揺れる前に、残った2本の線へ小型刃を落とした。
青い束が切れた。窓の光が消える。ネームレスの刃も、俺の腕を抜ける前に薄れた。黒い影は炭筆を持った形へ戻り、そのまま壁へ崩れた。
『レイ・クロウ』
「分かってる」
『現在地、奈落第4大層第10層。同行者、シグ。目的は地上への帰還です』
「分かってる。順番も戻ってる」
俺は息を吐き、硬殻Lv.2を解いた。左肘から先の感覚は、前より薄い。傷はないが、指を閉じるまで一瞬遅れた。
『接触時間、1.4秒。応答に異常なし。記憶混乱の兆候は確認できません』
北へ向いていた青い壁線が消えている。残ったのは、水路に沿って西へ続く古い線だけだった。
俺は新しい傷を削り潰した。北を向く石も、道の外へ捨てる。だが、それだけではまた書き換えられる。
『目印を作り直しますか』
「同じものは作らない」
俺は記録帳から細い紙を1枚裂いた。
『目印を信用するな。帳面だけも信用するな』
そう書き、続ける。
『シグの記録と身体を照合する。右肩を使えない時に開けた扉、左脚を引きずった跡がない道、補助輪の跡がない通路は、俺たちが通った経路ではない』
紙を帳面には戻さず、長剣の鞘の内側へ差し込んだ。シグには、文面ではなく保管場所だけを記録させる。
「正しい道は」
『西側水路下の保守路です。壁面表示、私の移動記録、あなたの記録帳、過去の歩行状態の4点が一致します』
「北側は」
『未確認です。第11層へ続くという情報は、ネームレスが生成した可能性が高いと判断します』
断定はできない。北の閉鎖区画の奥には、今も未知の足音がある。そこへ通じる道が、本当に第11層へ続いている可能性も残る。それでも、今選ぶ理由にはならなかった。
俺たちは西側貯水槽まで進んだ。
水路下の入口は、以前と同じ低い穴だった。右側に太い水管。左側に細い青線。床には、膝をついた時につけた古い擦れ跡が残っている。
シグの三脚では、そのまま通れない。仮設躯体を横へ倒し、1脚ずつ穴へ入れる必要がある。
俺は入口の前へ座った。
「今日は入らない」
『判断を支持します。左脚の再出血後、移動距離は184メートル。右肩痛は増加。左前腕の感覚低下も継続しています。保守路内での停止は、退路を失う危険があります』
「明日、動ける保証もない」
『現在進入するより、止血と休息後の方が到達確率は上昇します』
俺は穴の奥を見た。暗視Lv.2を使うと、灰色の通路が西へ下っている。途中に新しい影はない。青い線も1本だけだった。
ここから先へ進めば、第11層へ向かう。戻るなら、記録施設までの道にはまた偽物が増えるかもしれない。
「この近くで休める場所は」
『貯水槽内。石扉と低い退路があり、水を確保できます』
「食料は」
『保存食候補が半食分。干し肉は1片と半分です』
アーカイブゴーレムとの戦闘後に、1片食べた。残りを使っても、自己治癒Lv.1は使えない。歩くための分まで、身体に喰われる。
俺は左脚の固定帯を確かめた。その内側から、北側の経路を描いた紙を抜く。線は変わっていない。表紙裏の、正門下への線も同じだった。
2枚を重ねる。途中までは一致し、分岐から先だけが別れている。
『捨てますか』
「残す」
『偽の経路です』
「書き換えられたことも記録だ」
正しい道だけ残せば、次に線が増えた時、同じ偽物か見分けられない。
俺は2枚の端へ、それぞれ別の切れ込みを入れた。正門下へ向かう紙は1つ。北側へ向かう紙は2つ。
形を真似されても、切った時の右肩と左脚の痛みまでは残せない。
「明るくなったら、保守路へ入る」
『この層に自然光はありません』
「俺が起きたらだ」
『了解しました』
貯水槽へ向かう前に、振り返った。北側へ続いていた青い線は消えている。
だが、削り潰したはずの新しい傷の横に、黒い粉が細く集まっていた。粉はゆっくりと動き、2本の線を作る。
俺が紙へ入れた切れ込みと、同じ数だった。
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