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閉鎖区画を出る

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それでは、どうぞお楽しみください。

目を開ける前に、水筒の口が唇へ触れた。


『飲んでください』


俺は目を開け、差し出された水を2口飲んだ。身体の熱は残っていたが、眠る前のように喉の奥から焼けるほどではない。腹の痙攣(けいれん)も止まっている。


食料は今日で尽きる。眠る前に、残りが1日分を下回ったのは覚えていた。傷が治るのを待つ余裕はない。ここを出る前に、開けたままの治療区画を閉じる。


「どれだけ寝た」


『4時間37分です。途中で3度、水分を摂取しました』


「覚えてない」


『返答はありました。記録上、意識は不明瞭でした』


上体を起こそうとすると、シグの接続棒が胸へ触れた。


『先に確認します』


「動ける」


『眠る前も同じように起き上がろうとして、背中が寝床へ戻りました』


俺は左肘を床へついた。肘から先の感覚は薄い。それでも力を入れることはできた。背を壁へ預けるところまで起き上がり、息を整える。視界は揺れなかった。


右肩は固定したままでも、奥に重い痛みが残っている。左脚は膝を少し曲げただけで、傷の周囲が引かれた。


『発熱は低下しています。痙攣(けいれん)は睡眠開始から1時間9分後に停止。新たな出血はありません』


「食料は」


『保存食候補が半食分。干し肉が3片です。現在の摂取量を維持した場合、1日未満です』


長く休めば、傷は少しずつ治る。だが、休むための食料がない。自己治癒(じこちゆ)Lv.1を使えば、残りはもっと早く消える。


俺は水をもう一口飲み、壁へ手をついて立った。左脚へ体重をかけると痛んだが、膝は折れなかった。


『歩行確認は5歩までです』


「区画まで行く」


『許可していません』


「扉を閉じる。あそこを開けたままでは出られない」


東側の旧治療区画は、駆動力が足りず、隔離扉に指1本分の隙間が残っている。中の供給は止めた。神化失敗体(リジェネラント)も倒した。


それでも、患者の声と空の寝台を残した区画を、開けたままにはできなかった。


『途中で休息を取ってください。自己治癒(じこちゆ)Lv.1も追加で使用しません』


「使わない」


俺は寝床の横へ置いた記録帳を取った。眠る前に、シグが書いた行が増えている。


『自己治癒(じこちゆ)Lv.1。右肩へ45秒使用。完全停止まで8分12秒。水1筒の約3分の1。通常より追加1食分。発熱、空腹、脱水、痙攣(けいれん)、全身脱力。右肩は軽度改善。完治せず』


その下に、俺が言った言葉が残っていた。


『治るために食べる。食べられない時は使わない』


「もう1つ書け。暗視(あんし)Lv.2。毒分解(どくぶんかい)Lv.3。上がった時、忘却値の変化はなかった」


シグの接続棒が炭筆を挟んだ。紙の上を、黒い線が進む。


『記録しました』


「失ったものもだ」


接続棒が止まった。


『すでに記録されています』


「読め」


『「ミアの指先の温かさを思い出せない。傷を手当てされた事実、言葉、表情、布の結び目は保持」』


俺は右腕を吊(つ)る布の結び目を見た。ミアが結んだ形は覚えている。俺が片手で解けるよう、輪を大きく残していた。


あの時、触れられた指が冷たかったのか、温かかったのか。何も浮かばなかった。


今の布へ触れれば、指先に冷たさは分かる。失ったのは、温度を感じる力ではない。ミアの指だけが、記憶の中で俺へ触れなくなっていた。


『記録は残っています。私は、温度を復元できません』


「分かってる」


俺は記録帳を閉じた。結び目は同じ形だった。


それで十分だとは思わなかった。だが、ないものを探して水と食料を減らすつもりもなかった。


長剣を左腰へ吊(つ)り、鞘(さや)が左脚へ当たらない位置まで帯を上げた。鎌脚(かまあし)製の小型刃は胸元へ差す。水筒は1本だけ持った。保存食は残りをまとめ、干し肉1片を半分に割った。


『半分食べてください』


「区画で食べる」


『今です』


俺は干し肉を受け取り、噛(か)んだ。硬い繊維に、味はほとんど残っていない。それでも腹へ入ると、全身の震えがわずかに遠のいた。


『不足していますが、出発可能と判定します』


記録施設を出る前に、目印を順に確かめた。入口脇の石、床の灰、壁の浅い傷、黒い布、骨片。位置はシグの記録と一致した。


長机下の保守扉も閉じたままだった。隙間へ撒(ま)いた灰に、新しい跡はない。


正面扉を細く開け、外を見た。忘都(ぼうと)の街路は暗い。崩れた建物の向こうに、青い線が途切れながら走っていた。


俺は暗視(あんし)Lv.2を使わなかった。肉眼で歩ける場所に、余計な力を使う理由はない。


「巡回記録」


『直近の自動兵通過から19分。2体目は1体目の41秒後に通過しています。旧記録では次は11分後。ただし、現在の周期は不定です』


「水路沿いを行く」


正面の街路を横切り、外壁の影へ入った。左脚を庇(かば)い、歩幅を狭くする。右腕は胸元へ固定したまま、左手を壁へ添えた。


シグの仮設躯体(くたい)が後ろからついてくる。補助輪が石の継ぎ目へ引っかかるたび、三脚の向きを変えて乗り越えた。俺が手を貸す前に、自分で接続棒を壁へ当てて身体を押す。


「遅い」


『あなたの歩幅は、決着の後に拠点へ戻った時より23%低下しています』


水路の音が近づいた。崩れた石管の下を抜け、東側の細い路地へ入る。途中で2度休んだ。


2度目に腰を下ろした時、左脚の布を確かめた。新しい血はついていない。右肩の腫(は)れも増えていなかった。


「残り距離は」


『約46メートルです。返答速度は正常。呼吸数は出発時より増加しています』


「戻るほどじゃない」


『同意します』


治療区画の隔離扉は、開けた時と同じ隙間を残していた。糸の目印は切れていない。床へ薄く撒(ま)いた灰にも、外へ向かう跡はなかった。


俺は隙間へ耳を寄せた。水滴の音はしない。患者の声も、床を擦(こす)る音もない。


「内部反応」


『接続前のため確認不能です。前回停止した3系統は、外部表示上では再起動していません』


「入らない。ここで閉じる」


シグが隔離扉脇の端子へ接続棒を差した。薄い青の線が、1本だけ点いた。


『緊急搬入経路――開放』


欠けた文字が、扉の上へ浮かぶ。


『開放命令が残っています。通常閉鎖は拒否されます』


「命令を消せるか」


『端末側からは不可能です。駆動部の緊急解放器を物理的に戻せば、扉の自重で閉鎖できます。右側外装の内部です』


俺は小型刃を抜き、扉脇の細い継ぎ目へ差した。右手は使えない。左手だけで刃を捻(ひね)ると、外装がわずかに浮いた。


『上から12センチです』


指を入れ、金属板を引いた。左肘から先の感覚が薄く、掴(つか)んだ厚さが分かりにくい。爪を継ぎ目へ掛け、腕ではなく身体を後ろへ倒して板を外した。


内部に短い鎖と、倒れた黒い取っ手があった。


『それです。引いた状態で固定されています』


「戻せば閉じるな」


『扉が急に動く可能性があります。退避距離を確保してください』


俺は固定用金属帯を1本取り出し、取っ手の鎖へ通した。帯の端を左手へ巻き、扉から3歩離れる。シグはさらに2歩、後ろへ下がった。


「引く」


『記録を開始します』


金属帯へ体重をかけた。鎖が軋(きし)み、黒い取っ手が少し起きる。左脚の傷が引かれた。力を緩めると、取っ手が元の位置へ戻った。


『右へ4センチずらしてください』


「先に言え」


『内部構造が動いて確認できました』


帯を掛け直した。今度は正面へ引かず、身体を右へ倒す。取っ手が溝を外れ、内部へ戻った。


隔離扉が低く震えた。指1本分の隙間が狭くなる。俺は帯を離し、壁へ背をつけた。


重い石と金属が擦(す)れ、扉が自重で落ちていく。最後に鈍い音が響き、隙間が消えた。


扉の上の文字が変わった。


『隔離閉鎖』


その下へ、黒い線が戻った。


『閉鎖を確認しました』


「開けた時と同じか」


『緊急搬入経路は解除。内部3系統は停止を維持。外部からの再開放には、別の開放命令または物理操作が必要です』


「内側からは」


『確認できません』


俺は扉へ左手を当てた。振動はない。


ここで死んだ者の声が、まだ中に残っているかは分からない。記録へ残った声と、倒したものの中に混ざっていた魂情報が同じだったのかも分からない。分からないまま、扉を閉じた。


「記録しろ。東側治療区画を再封鎖。供給3系統は停止。内部反応は確認できず」


『記録しました』


「神化失敗体(リジェネラント)から取得した技能と、失った感覚も同じ記録へつなげろ」


『関連記録として接続します』


シグの青い光が、1度だけ明滅した。


『これで戻るのですか』


「いや」


俺は壁へ背を預けたまま、簡易地図を広げた。


記録施設へ戻って休んでも、食料は増えない。自己治癒(じこちゆ)Lv.1も使えない。水だけを飲み、傷が治るのを待てば、先に身体が動かなくなる。


「長く残る方が危険だ」


『同意します。現在の食料では、安静と探索を両立できません』


「第11層へ下りる」


『正門経路は封鎖されています』


「別の道を探す。西の水路下に保守路がある。北の格子は後回しだ」


『記録施設直下の保守扉は調査しませんか』


「食料があればな」


アルドの個人記録庫も、直下の閉鎖区画も残っている。


『急ぐな。先に生き延びろ』


欠けた記録の言葉だけが、頭に残っていた。


「拠点へ戻り、持てる物だけ選ぶ。休息後、西側水路から下層経路を探す」


『現在の負傷状態では、全所持品の携行は不可能です。水と固定用金属帯を優先します。記録帳は』


「置いていかない」


返答だけは、考える必要がなかった。


俺は地図を畳み、立ち上がった。左脚はまだ痛む。右肩も治っていない。腹はもう、次の食事を求めていた。


それでも、閉じた扉の前で待ち続ける理由はなくなった。


帰路へ入る前に、シグが接続棒を壁の端子へ向けた。


『西側水路の保守記録に、新しい応答があります』


「何だ」


『記録端末の接続要求です。発信元は、正門下の保守層』


青い光の奥で、古い文字が1行だけ点いた。


『記録保全対象を確認。搬送経路を閉鎖します』


遠くで、石と金属の噛(か)み合う音がした。


俺たちが使うはずだった、西側水路の方角だった。

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それでは、次回の更新でお会いしましょう!


第1話はこちら → (https://ncode.syosetu.com/n3368ms/1)

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