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手の温度

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それでは、どうぞお楽しみください。

白い残骸の前で、黒い文字だけが消えなかった。


取得しますか。


自己治癒(じこちゆ)Lv.1。取れば、記憶を1つ失う。取らなければ、壊れていく右肩と左脚を抱えたまま、この先へ歩くことになる。俺は返事を保留したまま、右肩の固定を外した。布が緩むと、腕の重さが傷んだ場所を引いた。戦闘前より痛みは強い。石壁へ打ちつけられた時、固定の内側でまたずれたらしい。


『動かさないでください。右肩の支持を継続します』


シグの接続棒が肘の下へ入った。俺は左脚の金属帯を外した。布の内側に、細い血の筋が1本増えていた。傷口は大きく開いていないが、周囲の腫(は)れは引いていない。首には白い指の跡があった。息を吸うたびに、喉の奥が痛んだ。


『戦闘前より状態が悪化しています。取得候補の効果は、名称から推測できますか』


「傷を治す力だ」


『白い対象と同じ修復特性である可能性があります』


床には、神化失敗体(リジェネラント)の残骸が広がっていた。胸から外れた灰色の結び目は砕け、もう動かない。あれは傷を閉じるために、肉と水を使い続けた。保存食も菌床(きんしょう)も、隣の患者まで材料にした。


「同じになれと言ってるわけじゃない」


『危険性を指摘しています。忘却負荷(ぼうきゃくふか)については』


「中。魂適合率(たましいてきごうりつ)は72%。今の枠には入らないが、魂容量を広げられる」


シグの青い光が止まった。


『前回の容量拡張は、ブラインドイール成体の討伐後です。あの時、あなたは新しい技能を取得し、感覚記憶を失いました』


養護院の屋根を打つ雨音。降っていた事実は残っている。ミアと同じ部屋にいたことも、雨漏りの下へ桶(おけ)を置いたことも分かる。だが、音だけがない。思い出そうとしても、桶(おけ)へ落ちる水の形しか浮かばなかった。


「今回も失う」


『拒否した場合の予測を提示します。現在の右肩と左脚の状態では、第12層到達前に長距離移動能力を失う可能性があります。今回は戦闘による悪化を反映しています』


シグは右肩を支えたまま、淡々と続けた。


『拒否すれば記憶は維持できます。ただし、帰還可能性は低下します。取得すれば帰還可能性が上がる保証はありません。技能の消費条件と制御方法が不明です』


「お前ならどうする」


返事はすぐに来なかった。


『私は技能を取得できません』


「そうじゃない」


『質問の意図は理解しています』


シグの接続棒が、肩の布を正しい位置へ押し戻した。


『私は、あなたが失った感覚を復元できません。取得を推奨することは、復元不能な損失を受け入れさせる判断です』


「それでも答えろ」


青い光が、床へ置いた記録帳へ向いた。


『記録上、あなたの最優先目的は、生きてミアのもとへ帰ることです』


「記録じゃなく、お前の判断を聞いてる」


シグは黙った。仮設躯体(くたい)の内部で、小さな駆動音がした。


『……取得してください』


初めて、推奨でも予測でもない言い方だった。


「理由は」


『私は、あなたに帰還してほしいと判断します』


俺はシグを見た。青い光は、こちらを向いたまま動かなかった。


「分かった」


『ただし、取得直後に使用しないでください。記録施設へ戻り、水、食料、固定、休息を確保してから試すべきです』


「その条件なら従う」


俺は長剣を鞘(さや)へ戻した。白い残骸から離れ、壁へ背を預ける。右腕をもう一度胸へ固定し、左脚にも金属帯を巻き直した。


黒い問いへ意識を向けた。取得する。


視界が暗くなった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━

魂喰(こんじき)が発動しました。

獲得対象:自己治癒(じこちゆ)Lv.1

魂適合率(たましいてきごうりつ):72%

忘却負荷(ぼうきゃくふか):中

技能枠が不足しています。

魂容量を拡張します。

忘却庫(ぼうきゃくこ)が拡張されました。

技能枠:4/4 → 4/5

自己治癒(じこちゆ)Lv.1を取得しました。

忘却庫(ぼうきゃくこ)へ格納します。

技能枠:5/5

技能取得の代償を徴収します。

忘却深度:4 → 5

残存記憶率:98.6% → 98.1%

――感覚記憶の欠損を確認。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━


胸の奥へ、冷たいものが入り込んだ。次の瞬間、身体の内側が強く脈打(みゃくう)った。右肩でも左脚でもない。もっと深い場所だった。4つに分かれていた空間の外側が押し広げられ、そこへ新しい何かが収まった。俺は奥歯を噛(か)んだ。


息を吐くと、喉の痛みが戻った。傷は閉じていない。右肩も動かない。左脚の血も、そのままだった。


『取得しましたか』


「ああ。技能枠が5つになった。忘却深度5。残存記憶率98.1%。傷は治ってない」


『自動では発動しない可能性があります。何を失いましたか』


「分からない」


通知は、欠損の場所を教えなかった。


俺は名前を順に思い浮かべた。ミア。顔は分かる。養護院の台所で、焦げた鍋を隠そうとしていた顔。別れ際に渡された記録帳。地上へ帰ると約束したこと。どれも残っている。エイベル。イレーネ・ヴァイス。奈落(ならく)へ落とされた夜。シグと出会った記録施設。どれも消えてはいなかった。


「今は確認できない。拠点へ戻ってからだ」


立ち上がろうとすると、左脚に痛みが走った。技能を得ても、身体は戦闘直後のままだった。シグが接続棒を伸ばし、右肩を支えた。


『低速なら移動可能です。レイも同じ条件に従ってください』


俺は返事をせず、接続棒へ肘を乗せた。


『同意と記録します』


決戦路を出る前に、神化失敗体(リジェネラント)の残骸を確認した。動きはない。腐敗菌床(きんしょう)の槽は蓋を閉じ、自動兵の胸板で押さえた。食料庫へ続く道も、狭いまま残しておく。治療区画の再封鎖は後でいい。今日は戻ることだけだ。


歩き出した。左脚へ体重を乗せるたび、固定の内側で傷が痛んだ。


新しい技能を意識すると、身体の奥に細い流れがあるのが分かった。右肩へ向ければ、何かが動き出しそうだった。俺はそこで止めた。


『今、歩幅が変化しました。使用しましたか』


「してない。力の向け方を確かめただけだ」


『発動と確認の境界が不明です。繰り返さないでください』


記録施設へ戻るまで、普段の倍近い時間がかかった。入口の目印は動いていない。灰の線も、布の結び目も残っていた。シグが先に室内へ入り、入口と長机下の保守扉を確認した。


『侵入痕跡はありません』


俺は壁際の寝床へ座った。右肩の布を外し、今度はシグの記録に従って状態を確かめる。腫(は)れは増えている。腕を前へ動かそうとすると、肩の奥で鋭い痛みが走った。戦闘前より可動域が狭い。左脚は傷の端が少し開いていた。出血は止まりかけている。首には指の跡が残り、飲み込むたびに痛んだ。


『自己治癒(じこちゆ)Lv.1の使用は、処置後に限定します。水と食料も先です。白い対象の記録では、修復は材料を消費しました。あなたの技能が同じとは断定できませんが、備えるべきです』


「材料は、俺の身体か」


『推定です。確認できるまで、そう扱ってください』


俺は水を飲んだ。喉を通るたびに痛んだが、1筒の残量を見ながら少しずつ飲み続けた。保存食も食べた。残りが減る。治るために食べるという考えは、まだ身体に馴染(なじ)まなかった。


傷を洗うため、布へ水を含ませた。左手だけでは、右肩の後ろへ届かない。シグが布を接続棒で挟んだ。


『触れます』


「やれ」


冷たい布が肩へ当たった。そこで、別の光景が浮かんだ。


養護院の小さな部屋。欠けた椅子。俺の左手に巻かれた白い布。向かい側にミアがいた。薪(たきぎ)割りで掌(てのひら)を切った俺に、勝手に動くなと言っていた。


「痛いなら痛いって言えばいいのに」


言葉は残っていた。怒った顔も覚えている。小さな指が俺の手を押さえ、布を結んだ。


その指が、どれほど温かかったのか。


分からなかった。冷たかったわけではない。感触がない。手を押さえられていた事実だけがあり、そこにあるはずの温度が抜け落ちていた。


俺は左手を見た。傷跡はもう残っていない。


『呼吸が変化しました。止めますか』


シグが聞いた。接続棒は肩の手前で止まっていた。


「続けろ。痛みじゃない」


俺は記録帳を開いた。濡れて波打ったページをめくる。養護院での出来事を記した古い欄に、短い文があった。


『薪(たきぎ)割りで左の掌(てのひら)を切った。ミアが手当てした。痛いなら言えと怒られた』


事実は合っている。


俺は炭筆を持った。指先が震え、最初の線が歪(ゆが)んだ。もう一度引き直し、その下へ書き足した。


『ミアの指先の温かさを思い出せない』


シグは何も言わなかった。接続棒は布を挟んだまま、肩へ触れずに待っていた。


「記録した。手当てされたことは覚えてる。言われた言葉も、顔も分かる」


『温度だけが欠損していますか』


「ああ」


『私の記録へ追加します』


シグが肩の洗浄を再開した。布は冷たかった。その冷たさは分かる。今、触れているものの温度は分かった。失ったのは、あの時の温度だけだった。


手当てを終え、右肩と左脚を固定し直した。俺は横になった。


新しく得た力は、身体の奥に残っている。使えば、傷は治るかもしれない。何を消費し、どこまで治せるかは分からない。それでも、もう取得前には戻れなかった。


「シグ。起きたら試す」


『休息、水分、食料の摂取後に、短時間だけ使用します。異常があれば即座に停止してください』


「分かった」


『今回は、同じ返答を記録として受け取ります』


俺は答えず、目を閉じた。


ミアが俺の手へ布を巻いた光景は残っていた。怒った声も、結び目の形も覚えている。


だが、指先の温度だけは、記録帳へ書いても戻らなかった。

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それでは、次回の更新でお会いしましょう!


第1話はこちら → (https://ncode.syosetu.com/n3368ms/1)

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