白骸の治療体
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それでは、どうぞお楽しみください。
落下から推定240日。処置室2の裏にある点検路は、肩幅より狭かった。俺は右腕を胸へ固定したまま、左肩を先にして横向きに進んだ。石壁へ布が擦れるたび、右肩の奥が鈍く痛む。
長剣を取り戻せなければ、小型刃1本で、閉じ続ける傷を壊し続けるしかない。それでは先に俺が倒れる。剣を取り、今日で終わらせる。
シグの仮設躯体は、この幅を通れない。
『私は入口で待機します。食料庫側の格子まで、およそ14メートルです。通常の声量なら記録できます。レイも応答してください』
「分かってる」
暗視Lv.1で奥を見た。灰色の点検路は途中で右へ折れ、その先に細い格子がある。格子の向こうが食料庫だった。
白い人影は見えない。床に、長剣が落ちていた。格子から2歩ほど先。柄がこちらを向き、刃の半分は倒れた棚の下へ入っている。
「見つけた。白いのはいない」
『音もありません』
格子は錆びていたが、外せる状態ではなかった。隙間は、腕が通る程度しかない。
俺は固定用金属帯の端を曲げ、格子の間から差し込んだ。1度目は柄の手前を滑った。2度目で、鍔に掛かった。
左手だけで引くと、棚の下の刃が石床を擦った。音が、食料庫へ広がっていく。俺は動きを止めた。何も来ない。もう一度引いた。長剣が、格子へ近づいてくる。
その時、食料庫の奥で、湿ったものが床を撫でた。
『音を確認しました。距離は判定できません』
暗視の視界の奥、棚の隙間で白い指が動いた。細い。以前より肉が落ち、骨のような形が皮膚の下へ浮いている。
白い人影は床へ伏せたまま、こちらへ顔を向けた。目も口もないはずの顔に、縦の裂け目が開く。
「開けて」
子供の声だった。
俺は金属帯を引いた。長剣の柄が、格子へ当たる。白い人影の腕が伸びた。肘から先が床を滑り、指が剣の刃へ触れる。
俺は金属帯を左手へ巻きつけ、身体を後ろへ倒した。左脚は捻らない。右肩でも引かない。腰と背中で引く。
長剣が、棚の下から抜けた。刃が格子を通り、白い指が空を掴む。
俺は柄を取り、点検路を下がった。白い人影が格子へ顔を押しつける。
「治して」
声だけが追ってきた。
「回収した。戻る。格子からは出られない」
『正面経路へ回る可能性があります』
「予定通りだ」
点検路を抜け、長剣を左手で振ってみた。握りが浅い。左肘から先の感覚が鈍く、刃の重さが指から抜け落ちそうになる。右手は使えない。
俺は柄へ布を巻き、その上から左手を固定用金属帯で緩く留めた。
『武器を手へ固定する行為は、手放す必要が生じた場合に危険です』
「指が開くよりましだ。外せる余地は残してる」
シグが接続棒の先で金属帯の端を確かめた。
『結び目は、左手の指で引けば解ける位置です。記録します』
南側分岐へ向かった。腐敗菌床の槽は、昨日置いた位置にあった。自動兵の胸板も動いていない。決戦場所は両側が石壁で、幅は3歩ほど。北側の曲がり角まで9歩。
俺は菌床槽の蓋へ金属帯を掛けた。
『確認します。対象が進入した後、私は角の後方へ退避します。近づくのは、10秒の動作停止と、呼びかけへの反応消失を確認した時だけです』
「戦っている間は出てくるな」
『同意します』
俺は金属帯を引いた。蓋が指2本分ずれ、黒緑色の空気が隙間から漏れた。匂いは分からない。だが、喉が焼けるように痛んだ。
「退け」
シグが角の向こうへ消えた。
俺は腐敗菌床の反対側、狭めた通路の中央へ立った。左脚は前へ出さない。右脚を半歩前へ置き、石壁へ背を寄せる。
食料庫側へ続く暗闇から、擦れる音が聞こえた。1度。止まる。2度目は、近かった。
白い腕が床を掴んだ。
白い人影は、第2障害の金属枠を身体へ絡ませたまま現れた。片方の肩が削れ、胸は薄く、腹部は内側へ窪んでいる。それでも両腕は長かった。指先を床へつき、脚を引きずりながら進んでくる。
顔の裂け目が開いた。
「おなか、すいた」
知らない女の声だった。
白い人影は俺ではなく、腐敗菌床のほうへ向いた。胸板の間へ、身体を押し込んでくる。肩が金属へ当たり、白い肉が削れた。傷は閉じ始めたが、その分だけ周囲の胸と首が細くなった。供給は戻っていない。俺は待った。
白い人影の上半身が胸板を越えた。床へ置いた自動兵の脚殻へ右手をつき、身体を持ち上げる。重心が前へ移った。その瞬間、俺は踏み込んだ。
長剣を左から右へ振る。刃は白い人影の胸を斜めに裂いた。手応えが軽い。白い肉の下に、硬いものはなかった。
人影は声を出さず、長い左腕を振った。予兆は肩の膨らみだった。俺は石壁へ身体を寄せた。指先が胸元を掠め、右腕の固定布を引く。右肩の奥に痛みが走った。だが、布は外れなかった。
俺は最初の傷へ剣先を突き込んだ。白い人影が後ろへ下がる。胸の裂け目は、もう閉じかけていた。端から白い糸が伸び、互いへ結びついていく。
『閉鎖開始、前回より遅いです。現時点で6秒。完全閉鎖していません』
角の向こうから、シグの声がした。
俺は同じ傷を、横へ切り開いた。白い糸が切れ、胸の奥に灰色の影が見えた。
人影の右腕が床を叩いた。腐敗菌床の槽が揺れる。白い人影は俺を押し退けず、槽へ腕を伸ばした。戦うより、食うことを優先したのだ。
俺は背後へ回らなかった。左脚では追えない。通路の中央を保ったまま、槽と人影の間へ剣を差し入れた。
白い指が刃を掴んだ。掌が裂ける。だが、血は出なかった。裂けた指の肉が細い糸になり、剣へ巻きついてくる。
引けば、左手から剣が抜ける。俺は柄を留めた左手ごと、石壁へ押しつけた。刃の向きを固定する。白い人影が剣を引いた。自分から、胸の傷を刃へ近づける形になった。
俺は右脚で床を押した。刃が、最初の裂け目へ戻る。白い糸がまた切れ、灰色の影が広がった。丸い核ではなかった。何本もの細い管が絡んだ、拳ほどの結び目だった。
「中枢らしき構造を確認した」
『位置を記録します。胸部中央、最初の斬創の奥です』
白い人影の顔が、俺へ向いた。
「せんせい。痛い」
男の声だった。俺は答えなかった。
白い人影が刃から手を離した。両腕を縮め、身体を低くする。胸の傷を守る姿勢だった。次に来るのは、正面からの突進だ。
俺は左脚を動かさず、剣先を胸の高さへ置いた。
人影が床を蹴った。その足が、自動兵の脚殻へ乗る。外殻が転がり、白い身体が右へ傾いた。俺は剣先を下げなかった。傾いた胸の傷が、そのまま刃へ重なった。
衝撃で、左肘が曲がった。感覚の鈍い指が開きかける。硬殻Lv.2を、左手の甲から前腕へ展開した。灰色の殻が手首を固め、柄を支える。刃が、胸の結び目へ届いた。
それでも、白い人影は止まらなかった。剣を身体へ刺したまま、俺へ覆いかぶさってくる。
背中が石壁へ打ちつけられた。固定した右肩へ衝撃が伝わり、息が詰まる。長い指が、首へ回った。
左腕では押し戻せない。剣は胸へ入っている。抜けば、また閉じる。抜かない。俺は柄を下へ押した。刃が白い胸の中で傾き、灰色の結び目を裂いた。
白い人影の指が、首を締めた。視界が狭くなる。
『レイ。呼吸音が変化しています』
「まだ、来るな」
声が掠れた。
人影の胸の傷から白い糸が伸び、刃を包み始めた。結び目の裂け目も、閉じようとしている。俺は柄を元へ戻し、同じ位置へもう一度押し下げた。閉じかけた管が切れる。白い人影の背中が窪み、首を締める指が少し緩んだ。
俺は右脚を人影の腹へ当てた。蹴り飛ばすのではない。距離を作るために押す。背中は壁から動かさず、左脚にも体重を移さない。白い身体が、半歩離れた。剣は胸へ残っている。
俺は柄を握ったまま、刃を横へ捻った。結び目が、半分に割れた。
顔の裂け目から、複数の声が重なった。
「治して」
「開けて」
「まだ死にたくない」
白い人影は刃を両手で掴み、引き抜こうとした。俺は手放さなかった。
「俺もだ」
左足は動かさない。右足だけで半歩踏み込み、同じ裂け目へ体重を乗せた。
長剣の切っ先が、結び目の奥へ突き抜けた。硬い感触が1度あり、続いて乾いたものが砕けた。白い人影の腕から、力が抜けた。
俺は剣を抜かなかった。胸の糸が、まだ動いている。柄を上へ戻し、同じ場所を切った。もう一度。白い糸が途切れ、灰色の結び目が床へ落ちた。
人影の身体が、膝から崩れた。俺は石壁へ背をつけたまま、剣先を向け続けた。
「シグ。数えろ」
『1秒。2秒。微細な動作あり』
床へ落ちた結び目から、細い管が人影の胸へ伸びようとしていた。俺は剣先で管を切り、結び目を右足で踏みつけた。靴底の下で、それが脈打った。右足を外し、同じ場所へ剣先を突き立てる。灰色の塊が割れた。
『計数を再開します』
シグの声が、1秒ずつ数えていく。白い身体は、床へ広がったままだった。胸の傷は閉じなかった。声もなかった。
6秒目で、長剣の柄を握る左手が震えた。8秒目で、白い肉の端が乾き始め、人の形が崩れていった。俺は剣先を下げなかった。
『10秒。呼びかけへの反応を確認します。対象、応答してください』
返事はなかった。
シグの補助輪が、角の向こうで動く音がした。
「近づくな。俺が呼ぶまで待て」
『了解しました』
白い人影は動かなかった。灰色の結び目からも、魂に触れる感覚は返ってこない。
失敗したかと思った。その直後、視界の端へ黒い文字が浮かんだ。
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《討伐結果》
討伐対象:神化失敗体 1体
討伐吸収が完了しました。
複数の魂情報が混在しているため、力の残滓は変換できません。
能力値の変化はありません。
獲得可能な技能があります。
獲得候補:自己治癒Lv.1
魂適合率:72%
忘却負荷:中
技能枠が不足しています。
魂容量の拡張が可能です。
取得しますか。
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白い人影の正式な名を、俺はそこで初めて知った。
神化失敗体。
何を目指し、何に失敗したのかは分からない。残ったのは、5人以上の声と、傷を閉じ続ける命令だけだった。
俺は剣を下ろした。
「終わった。来ていい」
シグが角から姿を見せた。仮設躯体の青い光が、床の白い残骸と俺を順に照らす。
『対象の動作停止を確認します。レイ、負傷状態を報告してください』
「右肩に衝撃。左脚は分からない。首を締められた。先に剣を外す」
左手へ巻いた金属帯を緩めた。指を開くと、長剣が床へ落ちた。俺は壁へ背を預け、その場へ座り込んだ。
視界には、まだ問いが残っていた。
自己治癒Lv.1。傷を閉じる力。俺が欲しかったものだった。
右肩も左脚も、このままでは第12層まで持たない。だが、目の前の白い残骸は、その力だけで治り続けた結果だった。水も肉も、隣にいた人間まで材料にして、それでも治療を止められなかった。
「シグ。討伐結果が出た。技能の候補もある」
『取得しますか』
黒い文字と同じ問いだった。
俺はすぐには答えなかった。白い残骸の中で、最後まで閉じなかった胸の傷を見た。
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