生きる材料
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それでは、どうぞお楽しみください。
落下から推定238日。左脚の布を外すと、乾いた血が皮膚へ張りついていた。剥がすたびに傷口が開きそうになり、俺は水で少しずつ濡らしていった。シグが使用量を記録していく。
声が止まっても、傷は治っていなかった。白い人影を終わらせる前に、俺の身体が先に壊れれば同じことだ。次に治療区画へ入るまでに、これ以上身体をずらすわけにはいかない。
布が外れると、腿の傷が見えた。昨日まで1本だった裂け目の脇に、新しい赤い線が増えている。傷そのものより、周りの肉が硬く腫れていた。
俺は薬草を潰そうとした。
『待ってください。治療記録の追加解析が終わりました』
壁面端末に青い文字が浮かんだ。『生体損傷処置 基礎手順』。その下に、欠けた項目が並んでいた。第1、出血の制御。第2、洗浄。第3、損傷部位の整復および固定。第4、水分と栄養の補給。第5、安静状態の維持。
「当たり前のことしか書いてないな」
『あなたは、その当たり前を継続していません。固定した状態で長距離を歩き、出血後に再度歩行しています。安静状態とは判定できません』
「歩かなければ、食料も水も手に入らなかった」
『否定していません。治癒しなかった理由を示しています』
次の文字が出た。『魔力供給は組織形成を補助する。栄養と水分を代替しない』『固定不良の状態で修復を促進した場合、誤接合および再断裂の危険あり』。
俺は右肩を見下ろした。腕は胸元へ吊っている。だが、布は首から肘を下げているだけで、肩の位置そのものは支えていなかった。歩くたび、腕の重さが傷んだ場所を引いていたのだ。
「これか」
『可能性が高いです。私に医療判断機能はありません。取得した記録から比較しています』
白い人影も同じだった。肉と水と魔力を注ぎ込み、壊れた場所を無理に塞いだ。正しい形へ戻すのではなく、空いた穴へ材料を押し込んでいた。治すための力があっても、治し方がなければ壊れ続ける。
俺は薬草を脇へ置いた。
「先に洗う」
水を布へ含ませ、傷の周りを拭いた。黒い汚れと固まった血が落ちていく。
薬草の匂いは分からなかった。鼻へ近づけても、記録にあるものと同じか判断できない。効き目は覚えている。匂いだけがない。
俺は潰した薬草を傷へ当て、新しい布を重ねた。金属帯は腿の傷へ直接当てず、膝上と股関節の下で支えるように位置を変える。
『昨日までより、歩行時の左右への揺れを抑えられます。肩は、腕の重さを胴体へ分散する必要があります』
残っている布を裂き、肘から背中へ回した。左手だけでは結び目を作れない。シグが接続棒で布端を押さえ、俺が身体を回して締めた。右腕が、胸へ密着する。肩の奥で引かれていた痛みが、少しだけ弱くなった。
「これなら動ける」
『その結論は記録と一致しません』
「さっきよりは動ける」
『それは一致します』
水を飲み、保存食を少量食べた。
これを白い人影を誘うのに使うことも考えた。だが、残りは約3日分しかない。あれが一度触れれば、俺の数日分が数秒で消える。
「食料は使わない。他に追わせられるものはあるか」
『対象は薬用菌床を摂取しました。まともな菌床は食料庫内に残存していますが、対象の近くです。治療区画の廃棄記録に、使用不能となった菌床の隔離槽があります。場所は区画南側の排出室です。前回追跡音が停止した地点から、外壁沿いにおよそ40メートルです』
白い人影が第2障害の近くに残っているなら、南側から回れば直接は近づかずに済む。腐敗した菌床は、修復の材料にはならないかもしれない。だが、白い人影にその区別がつくかは分からない。
「もう1つ必要だ。食えない壁だ」
白い人影は身体を潰し、隔離扉の隙間を広げて出てきた。寝台の固定帯も破った。軽い金属枠では止められない。もっと重く、取り込めず、動かしにくいものが要る。
記録施設の外で停止させた自動兵を思い出した。シグの接続で機能を止めた後も、街路に倒れたままになっている。外装は厚く、片脚は破損していた。
「自動兵を使う」
『局所停止です。命令経路が再接続された場合、動作を再開する可能性があります。私が接続している間なら、中枢を抜くことは可能です。ただし、外装の解体には時間が必要です』
シグの青い光が、固定した俺の脚と肩を順に照らした。
『本日は移動しません。あなたが次に言う内容は予測できます』
「今日は記録を読む。明日、動く」
シグが止まった。
『予測との差異を記録します』
俺は壁へ背を預け、端末の文字を追った。治療記録に、白い人影を倒す方法はなかった。あるのは、負傷者を生かすための手順だけだった。
出血を止める。汚れを落とす。壊れた場所を正しい位置で固定する。水と食料を入れ、動かさない。どれも、俺が奈落で削ってきたものばかりだった。
その日は、立ち上がらなかった。何度か固定を締め直し、水と保存食を決めた量だけ摂った。眠る前、左脚の布に新しい血は滲んでいなかった。
翌日。落下から推定239日。
固定を外さずに立つと、左脚の横揺れは減っていた。痛みは残っている。右肩も治ってはいない。だが、腕の重さで引かれる感覚は弱かった。
『本日の目的を確認します』
「腐敗菌床を取る。自動兵の中枢を抜く。使える外装を運ぶ。声がしても近づかない。長剣は回収しない」
最後の1つを言う前に、少しだけ間が空いた。食料庫へ残した長剣は必要だった。小型刃だけでは、白い人影の同じ場所を何度も壊せない。だが、今日は取りに行かない。
『記録しました』
最初に、自動兵のもとへ向かった。街路の曲がり角で、石造りの壁に背を預けたまま倒れている。胸部の青い線は消え、頭部も動かない。右脚の膝下は、以前の攻防で歪んだままだった。
シグの接続棒が、自動兵の首元へ入った。
『命令経路、遮断状態を維持。補助核に微弱な反応があります。外装を開けば抜けます』
俺は左手で小型刃を持ち、胸部外装の継ぎ目へ差し込んだ。右腕は胴へ固定したまま動かさない。刃をてこにして、留め具を1つずつ外していく。
硬い。左肘から先の感覚が鈍く、力を入れているつもりでも刃が滑った。2度目に滑ったところで、シグが止めた。
『左手の握力が低下しています。刃先が自分へ向いています。角度を変えてください』
俺は1度手を離した。外装の隙間へ金属片を挟み、刃先が身体へ向かない位置から押す。3つ目の留め具が外れた。
胸部外装が開き、灰色の核と細い配線が見えた。シグの接続棒が、配線を順に押さえていく。
『この3本を、上、左、中央の順に切断してください。間違えた場合、補助核が再起動します』
小型刃で、言われた順に切った。最後の線が切れると、核の奥に残っていた光が消えた。
『完全停止を確認』
討伐の通知はなかった。機械の中から、魂に触れる感覚も返ってこない。前に確認した通りだった。
俺たちは自動兵の外装を外した。胸板2枚、片脚の外殻、腕の関節部。どれも重く、一度には運べない。街路の段差を利用し、金属帯を輪にして引いた。シグは前で進路を記録し、外装が壁へ引っかかる時だけ接続棒で向きを変える。
運び先は記録施設ではない。治療区画へ続く南側の分岐近くへ置いた。完全に塞げば、白い人影は別の道を探す。人1人が通れる幅を残し、その先を決戦場所にするつもりだった。逃げ道は2つ。俺とシグが下がる道と、白い人影が腐敗菌床へ向かう道。食料庫へ戻る道だけを、自動兵の外装で狭くする。
次に、南側の排出室へ向かった。暗視Lv.1で外壁沿いの影を確かめながら進む。白い人影の声はしなかった。第2障害の方角からも、金属音は聞こえない。静かすぎた。だが、音が途絶えても、あれが止まったとは限らない。
排出室の扉は、下半分が腐食していた。蹴れば崩れそうだったが、左脚は使えない。俺は小型刃で腐食部を削り、手が入る隙間を作った。
中には、浅い槽が3つ並んでいた。1つは空。残り2つには、黒緑色の塊が沈んでいる。菌糸は動いていない。表面には白い粉と黒い泡が固まり、近づくだけで喉が焼けるようだった。
『接触と吸入を避けるべきです。排出槽の蓋を閉じた状態で、容器ごと移動させることを推奨します』
蓋は壁へ立てかけられていた。左手だけでは持ち上がらない。俺は金属帯を蓋の取っ手へ通し、肩ではなく腰へ巻いた。後ろへ下がり、身体全体で引く。蓋が、床を擦りながら動いた。
右腕は固定したまま。左脚にはまっすぐ体重を乗せ、捻らない。少しずつ、槽の上へ滑らせていく。シグが端を接続棒で押した。蓋が落ち、腐った空気が弱くなった。
『右肩への負荷増加は確認できません。外側への出血もありません』
槽の下に外装板を差し込み、引きずれる形にした。中身には直接触れずに、排出室から出す。南側分岐まで運び、決戦場所からさらに奥へ置いた。
腐敗菌床へ向かう道だけは、広く残した。白い人影が匂いか古い供給記録を追うなら、そこへ進む。毒で倒すつもりはない。進む方向を選ばせるためだった。
腐敗菌床を置いた道の反対側へ、自動兵の胸板を立てた。固定用金属帯を2本使い、壁の亀裂へ結ぶ。片脚の外殻は床へ横たえた。越えることはできる。だが、長い腕を床へついて進む白い人影なら、必ず姿勢が崩れる。
その先に、狙う場所を決めた。両側が石壁で、幅は3歩ほど。天井の一部が落ち、床には動かせない石材が残っている。白い人影が通れるのは、中央だけだった。
「俺は北へ下がる。お前は戦いが始まる前に、角の向こうへ抜けろ。声は届く」
『私の記録がなければ、対象の消耗量を比較できません。ただし、近くに残れば私は壊されます。条件付きで同意します』
決戦場所から曲がり角まで9歩。シグはそこへ退避する。俺が2度呼んでも返事がなければ、記録施設へ戻る。俺が倒れても、近づかない。その条件を、記録帳へ書いた。
『最後の条件に同意できません。扉の操作と記録は可能です』
「俺が倒れた場所へ来れば、お前も壊される」
『生存確率だけを基準にするなら、あなたも戦うべきではありません』
俺は炭筆を止めた。言い返せなかった。
シグの接続棒が、記録帳の端へ触れた。
『私が近づく条件は、対象が停止している場合に限定します。5秒間の動作停止と、呼びかけへの反応消失を確認します』
「10秒だ」
『同意します』
記録を書き直した。
罠を組み終えた時には、歩行を始めてから40分を過ぎていた。左脚の布に新しい血はない。右肩も、固定前より痛みが増えてはいなかった。治ったわけではない。損傷した場所の動きを減らしているだけだ。それでいい。治すのは、戦いの後だった。今は、壊れた身体をこれ以上ずらさないことが先だった。
拠点へ戻る前に、食料庫へ続く保守通路を確認した。白い人影を見張るためではない。長剣を回収する道を探すためだった。
区画図では、処置室2の裏から食料庫の側壁へ入れる細い点検路がある。正面から白い人影へ近づかずに、剣の落ちた場所まで手を伸ばせるかもしれない。
「明日、ここから入る」
『対象の位置確認が先です。声が聞こえても進入しません。長剣を回収できなくても追いません』
俺は細い点検路の入口へ骨片を置いた。
「回収できなければ、小型刃でやる」
『推奨しません』
「だから回収する」
記録施設へ戻り、もう一度固定を外した。左脚の傷は開いていない。右肩の位置も、少なくとも朝より悪くはなっていなかった。
水を飲み、保存食を食べた。敵へ与えず、自分の身体へ入れる。
壊れたものを戻す材料は、力だけでは足りない。水も、食料も、正しい形も、動かさない時間も必要だった。
白い人影には、もうそれを与えない。俺は自分の傷を固定し、腐敗菌床と機械の残骸で、あれが進める道を1本に絞った。
次に入る時は、観察のためではない。
終わらせるためだった。
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