治せないもの
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それでは、どうぞお楽しみください。
落下から推定237日。左脚の布には、眠る前についた赤い点以上の染みは増えていなかった。右肩の痛みも消えてはいない。だが、腕を吊ったままなら歩けた。
長剣はない。腰にあるのは鎌脚製の小型刃だけで、それを白い人影へ使うつもりもなかった。今日やるのは、3基の遮断器を止めることだけだ。止められなければ、あれは食料庫で傷を塞ぎ続ける。
『条件を満たしています』
シグが言った。
「不満そうだな」
『私にその感情はありません。あなたが条件を満たさない確率を高く見積もっていただけです』
俺は水を飲み、保存食を少しだけ噛んだ。味を確かめるためではない。途中で動けなくならないためだった。
『撤退条件を確認します。遮断器を3基止められない場合。対象が処置室3より手前へ到達した場合。左脚の出血が増えた場合。私との距離が10歩以上開いた場合。いずれか1つで撤退します。長剣は回収しません。対象を追撃しません』
最後の条件にだけ、返事が少し遅れた。シグの青い光が、俺へ向く。
「追わない」
『記録しました』
記録施設を出た。暗視Lv.1を使うと、崩れた街路が灰色の像へ変わる。自動兵の脚音を避けながら、東側治療区画へ向かった。昨日より痛みは増えていなかったが、歩幅は狭いままだった。
隔離扉の前に置いた骨片は動いていなかった。灰の細い線だけが、昨日より長くなっている。扉の隙間から伸び、骨片の手前で止まっていた。
『幅と表面状態は、対象の腕と一致します。届く前に止まっています。意図的かどうかは判断できません』
白い人影は、ここまで来ていた。だが、身体は出していない。
俺は隠していた金属帯と固定具を取り出した。扉から2歩の位置へ寝台の固定帯を低く張り、両端を金属棒へ巻きつける。さらに4歩下がった狭窄部には、斜めの金属枠を足した。人間なら、横を向けば抜けられる。あの長い腕と崩れた身体なら、どこかを引っかけるはずだった。
『第1障害、第2障害、固定完了。対象が障害を破壊した場合、どちらも再使用できません』
「1度止まればいい。俺たちが逃げる分だけあればいい」
隔離扉を広げた。空気は昨日より湿っていた。甘さのない、生温かい水の臭いがする。俺が先に入り、シグは3歩後ろを進んだ。
処置室7の前を過ぎた時、奥から何かを潰す音が聞こえた。食料庫の方角だった。白い人影は、まだ食っている。
俺たちは右側の通路へ入った。処置室4の扉は半分開いていた。室内には倒れた棚と、乾いた管が2本ある。奥の壁に、縦長の点検板があった。左手で引いたが、動かない。
『下部留め具が残っています』
シグの接続棒が床近くを示した。しゃがむと、左脚が震えた。俺は壁へ背を預け、小型刃を留め具の隙間へ差し込んだ。右肩を動かさないよう、左手だけで刃を捻る。金属が乾いた音を立て、留め具が外れた。点検板が手前へ倒れてくる。
壁の中には、3本の太い管が並んでいた。それぞれに輪形の遮断器がついている。一番手前は黒ずみ、中央には白い水滴が浮いていた。奥の管だけが、弱い青色を帯びている。
『手前から栄養、循環水、魔力蓄積槽です。右へ、停止位置まで4分の1回転』
俺は栄養管の輪を掴んだ。左手だけでは固い。足場を広げて体重をかけると、左脚の奥が軋んだが、輪は少しずつ動いた。
停止位置まで回した瞬間、食料庫の音が消えた。白い管の震えも止まる。
『1基目、遮断を確認』
奥で、何かが立ち上がった。床を擦る音が、こちらへ近づいてくる。
循環水の遮断器は、最初のものより重い。濡れた表面で指が滑った。小型刃の柄を輪へ差し込み、てこにする。半分まで回ったところで、処置室の外を白い影が横切った。
『対象を確認。距離、およそ12歩』
輪を押し込んだ。残りが動き、管の中を流れていた水音が止まる。
『2基目、遮断を確認』
白い影が止まった。首だけが、こちらへ向く。昨日より、顔がはっきりしていた。目の窪みは深く、口の形も人間に近づいている。それでも表情はなかった。白い人影が1歩進んだ。
奥の遮断器へ移る。弱い青色の管に触れた途端、指先が痺れた。痛みではない。骨の中を細い虫が這うような感覚だった。俺は手を離し、シグの接続棒に巻いていた端切れを受け取って輪へかぶせた。もう一度掴む。今度は、痺れが弱い。
『距離6歩』
俺は輪を回した。青い光が手首へ集まり、1度だけ強く明滅する。
その瞬間、白い人影の身体が崩れた。膝と肘が床へ落ち、背中が大きく沈む。肋骨に似た線が、皮膚の下から浮かんだ。魔力を断たれたのだ。
『3基目、遮断を確認。撤退してください』
白い人影が顔を上げた。口が開く。
「……いたい」
声が出た。俺の手が止まった。昨日は、何も話さなかった。
「いたい、です」
掠れた女の声だった。若いのか、年を取っているのかは分からない。息の抜け方だけが、妙に人間らしかった。
白い人影が床へ手をつき、身体を引きずってくる。
「……せんせい。治して」
今度は子供の声に聞こえた。細く、高い。同じ喉から出ているのに、さっきとは違っていた。
左手が遮断器から離れた。白い人影は敵だった。俺の肩を壊し、食料庫へ戻った。空の寝台と、引きちぎられた固定帯の先にいたものだ。それでも、その声は助けを求めていた。
『レイ、処置室3へ移動してください』
白い人影との距離は、4歩まで縮んでいた。撤退条件は、もう越えている。
俺は点検板を蹴り上げ、通路へ出た。左脚に体重を乗せた瞬間、腿の奥で何かが裂けた。布の内側へ、熱が広がっていく。
『出血増加を確認。撤退条件を2つ満たしました』
処置室3へ滑り込むと、白い腕が扉へ伸びてきた。俺は左手で扉を引いた。重い。半分まで閉じたところで、白い指が隙間へ入った。指先が扉の縁を掴み、押し返してくる。
俺は左肩を扉へ当てた。右肩には触れさせない。左脚を後ろへ引き、残った力で床を押した。
隙間の中で、白い人影の腕が細くなっていった。皮膚に亀裂が走り、白い液が扉へ落ちる。供給を断った後も、動くことはできる。だが、動くたびに減っていた。
「開けて」
低い男の声だった。左腕から力が抜けかけた。扉の向こうに患者がいる。そう思わせるには、十分だった。
『音声に応答の一貫性がありません。記録を優先してください。対象は接近中です』
白い指が隙間から伸び、俺の胸元を探った。指先が届けば、扉ごと引き開けられる。硬殻Lv.2を、左手の甲へ局所展開する。白い指が灰色の殻を擦った。掴まれる前に、俺は手の甲で白い腕を隙間へ押し戻した。
扉が閉じた。留め具を落とす。内側から、衝撃が1度だけ来た。扉全体が震えたが、開きはしなかった。
シグが先に通路へ出た。俺は壁を伝って後を追う。処置室3から隔離扉までは、曲がり角が1つある。その角へ差しかかった時、背後で金属が鳴った。手動扉の留め具が外れた音だった。
『対象、追跡を再開』
振り返ると、白い人影が処置室3から這い出していた。肩と腹が、昨日より細い。右腕だけが長く伸び、床を掴んで身体を引いている。立ち上がるだけの肉が、もう足りないように見えた。それでも速かった。俺たちとの距離が、見る間に縮まっていく。
「先に行け」
『距離条件により拒否します』
俺はシグの仮設躯体を、左足で軽く押した。補助輪が回り、躯体が前へ進む。
「今だけ転がれ。倒れないように押した」
隔離扉を抜けた。外側へ出ても扉は押し戻さず、俺はそのまま狭窄通路へ下がった。
白い人影が、隙間へ身体を押し込んできた。肩が変形し、頭が横へ潰れる。骨があるのかも分からない身体が、指1本分だった隙間を押し広げて出てきた。
「まだ、死にたくない」
今度は老人の声だった。俺の足が止まった。
白い人影が第1障害へ入る。低く張った固定帯に腕を引っかけ、身体が前へ崩れた。金属棒が曲がり、床を擦る。人影は倒れたまま、こちらへ手を伸ばした。
「お願い」
その声だけは、年齢も性別も分からなかった。
気づくと、俺は小型刃を抜いていた。追撃するためではない。それでも、倒れた今なら首を切れると思った。供給は止まっている。同じ場所を壊し続ければ、今度こそ減らせる。
左脚からは血が流れていた。右腕は上がらない。シグとの距離は8歩。決めた条件は、もう3つ破れていた。
『レイ』
シグが、名前だけを呼んだ。
俺は刃を戻した。
白い人影が固定帯を引きちぎった。外れた金属棒が、壁へぶつかって跳ねる。俺たちは第2障害を越えた。人影は、なおも追ってくる。斜めに渡した金属枠へ長い腕が絡み、引き抜こうとするたびに肩と胸が細くなっていった。
動けば減る。罠は効いていた。だが、今の俺が残って確かめれば、先に動けなくなるのは俺のほうだ。
「撤退する」
西側分岐には入らず、記録施設へ続く左の通路を選んだ。白い人影へ、水路を見せないためだった。
背後の金属音は、13歩進んでも続いていた。その後、急に止まった。振り返らなかった。追ってくるなら、シグが脚音を記録する。戻るなら、供給を失った区画へ戻るだけだ。
記録施設へ着いた時、左脚の布は膝近くまで赤くなっていた。俺は壁へ背を預け、そのまま座り込んだ。シグが入口へ灰を撒き、目印の位置を確認していく。
『追跡音は、隔離扉から11歩の地点で停止しました。第2障害の先です。戻ったかどうかは判断できません』
俺は左脚の固定を外した。傷口からの出血は、まだ続いている。布を折り直し、金属帯を締めた。右手は使えない。シグが接続棒で布端を押さえた。止血を終えるまで、2人とも話さなかった。
「声を、患者の記録と比べてくれ」
シグは記録施設の端末へ接続した。その間に、俺は記録帳を開き、聞いた言葉を書いた。
『いたい。せんせい。治して。開けて。まだ死にたくない。お願い』
どれも短い。俺の問いには答えていない。俺の名前も、自分の名前も言わなかった。
しばらくして、端末に細い文字が並んだ。シグが読み上げる。
『「いたい、です」は、緊急搬入記録の患者12。成人女性の音声と一致率が高いです。「せんせい」「治して」は、患者3。男児の音声記録と一致します。「開けて」は患者19。成人男性。「まだ死にたくない」は患者8。高齢男性。「お願い」は複数記録に存在します』
同じ人間の声ではなかった。白い人影は、寝台にいた患者たちの言葉を使っていた。
「俺が止まった時だけ、言葉を変えた」
『反応を観測し、追跡に有効な音声を選択した可能性はあります』
「記憶がある可能性は」
『患者本人の記憶が残っているなら、少なくとも1人分の名前、状況、呼びかけへの応答が継続するはずです。音声は5人以上の記録から断片的に再現されています。順序にも、1人の経験としての連続性は確認できません』
俺は記録帳の文字を見た。助けを求めた人間はいた。痛みに耐え、治してほしいと願い、死にたくないと言った。だが、それを言った本人たちは、白い人影の中にはほとんど残っていない。残っているのは、追わせるための声だけだった。
「全部、偽物か」
『声は記録された患者本人のものです。ですが、現在の対象が患者本人であることを示す証拠にはなりません』
俺は炭筆を握り直した。
『声は本物。話しているものは別』
そこまで書いて、線を引いた。断定はできない。書き直す。
『声は患者記録と一致。5人以上。質問への応答、名前、経験の連続なし。患者本人の記憶はほとんど残っていない可能性が高い』
『今回、あなたは3つの撤退条件を破りました』
「最後は戻った」
『記録上、その点は肯定します』
俺は壁へ頭を預けた。治療区画の供給は止めた。白い人影は、動くたびに痩せた。罠も、完全ではないが効いた。
だが、次に同じ声を聞いても止まらないとは言い切れなかった。助けを求める声を無視できるなら、俺はもっと楽に生きられていた。
シグが、記録帳の横へ接続棒を置いた。
『声を無視する必要はありません。声を記録し、誰のものか確かめます。ですが、声に従う必要はありません』
俺はしばらく黙った。それから、記録帳の最後へ1行を加えた。
『治してと呼ぶ声がしても、追わない。記録して戻る』
治療区画には、治せなかった患者たちの声が残っている。
そして今、その声を使うものもまた、もう治せる状態ではなかった。
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