足りない肉
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それでは、どうぞお楽しみください。
右肩の痛みで、3度目が覚めた。落下から推定236日。腕を胸へ吊った布が少しずれるだけで、肩の奥へ熱が走る。左脚も、脈に合わせて疼いていた。
長剣は食料庫に落としたままだ。白い人影は、食えば傷を塞ぐ。食わせない方法を見つけなければ、剣も、治療区画の奥の処置材も取り戻せない。眠るのを諦め、俺は身体を起こした。
『まだ休息時間です。横になっているだけでも負荷は減ります』
暗がりからシグの声がした。
「考えるくらいはできる」
『あなたの場合、考えた後に移動する可能性が高いため、賛成できません』
俺は答えず、記録帳を開いた。前日に書いた白い人影の記録を、左手で1行ずつ追っていく。
前腕の傷は約3秒で閉じた。胸の傷はそれより遅い。保存肉を取り込むと傷が急に閉じ、菌床を吸えば失った肉まで戻った。だが、食料庫から出た後は違った。首と手首の傷を開いたまま、3歩で追跡をやめている。
「最初に見た時と、最後に見た時の身体の違いを出せるか」
シグの接続棒が持ち上がった。
『初回観測時、肋骨に相当する隆起が外見上6本確認できました。保存肉摂取後は3本。菌床摂取後は確認できません。前腕裂傷の閉鎖後、右腕の太さが約1割減少しました。胸部刺創の閉鎖中は、腹部と左腿が細くなっています』
傷だけが消えたわけではなかった。別の場所の肉を減らして、穴を埋めていたのだ。食えば、減った分が戻る。食えなければ、身体そのものが痩せていく。
「無限じゃない」
『観測結果は、その推測と一致します。ただし、肉だけではありません』
シグは続けた。
『閉鎖時、白い液体の流出量が減少しました。食料庫外へ出た時点では、皮膚表面の乾燥と亀裂も増えています。組織だけでなく、水分を消費している可能性があります』
「魔力は」
『私に直接測定する機能はありません。ただし、生体修復槽の旧記録には、栄養、水、魔力供給の3系統が記載されていました』
「食料庫の管か」
『一致する可能性があります』
俺は簡易地図を広げた。食料庫の奥には菌床が並び、床と壁には白い管が走っていた。何本かは裂け、中から黒い菌糸がこぼれていた。
あれが全部、餌だった。保存肉を焼くだけでは足りない。菌床を潰しても、管から水と魔力が入れば傷を塞がれるかもしれない。
「供給を止める端末はあるか」
『治療区画の管理端末は、生体修復槽の奥です。ただし停止しています。保守用の手動遮断器が存在するはずです。区画図では、処置室4の裏側です』
地図の上で、左手の指を滑らせた。隔離扉から右へ入り、処置室の並ぶ通路を進む。処置室4の壁を越えれば、食料庫へ続く管の根元へ出られる。食料庫の手前を通る必要はない。
「行けるな」
『今は行けません。あなたの右腕は上がらず、左脚は再出血しています』
「白いのと戦う気はない。今日は準備だけだ。区画の外で罠を組む。中へ入るのは、その後だ」
シグは短く沈黙した。
『許容できます。ただし、歩行時間は合計30分以内。左脚の出血が増えた場合は中止。右肩で重量を支えないことを条件とします』
「分かった」
夜が明けることのない街で、俺たちは休息時間が終わるまで待った。横になったまま、必要なものを決めていく。固定用金属帯を4本。布を1枚。目印用の灰と骨片。治療区画で見つけた寝台の固定帯と、処置室前に落ちていた金属枠。
白い人影を倒すための道具ではない。通る道を1つにし、戻る道を遅らせるためのものだった。
食料庫と処置室を結ぶ通路は狭い。片側に壊れた寝台を立て、反対側へ金属枠を渡せば、人の幅しか残らない。その先に固定帯を張る。白い人影が足を取られれば、傷をつけずに時間を奪える。
『対象が固定帯を吸収する可能性があります。記録では、包帯も摂取されています』
「だから布は使わない。金属だけにする」
『金属を修復素材へ転換できない保証はありません』
「少なくとも、昨日は剣を食わなかった」
長剣は食料庫に残したままだった。白い人影が金属まで取り込めるなら、とっくに刃か寝台の枠を使っていてもいい。今ある記録では、有機物と水、それに魔力を優先している。
罠は殺すためのものではない。供給を断った後、どれだけ動けば痩せるのかを見るための通路だった。
休息を終えると、俺は左脚の固定を外した。布の内側には新しい血が固まっていた。傷口そのものは見えにくいが、腿から膝へ力を移すと奥が震える。
シグが接続棒で金属帯を押さえ、俺は左手だけで布を巻き直した。右腕は胸元へ吊ったままにした。指は動く。だが、肘を身体から離すと肩が軋んだ。
『痛覚反応が増加しています』
「動かさなければ平気だ」
『平気という評価を記録から除外します』
記録施設を出た。暗視Lv.1で、街路を灰色に変える。正面入口の灰に乱れはなく、自動兵の脚音も聞こえなかった。
治療区画へ向かう前に、隣の廃室へ寄った。床に倒れていた棚板を左手で引き、使えそうな金属棒を2本抜く。長さは俺の腕より少し長い。片方は曲がっていたが、固定帯を巻く支点には使えた。
シグが先に進み、俺は棒を左脇へ抱えた。右肩へ重さが移らないように歩くと、今度は左脚へ負担が集まる。10歩ごとに止まり、血が布へ広がっていないか確かめた。
『休止は歩行時間から除外して記録しています』
「甘いな」
『正確に数えているだけです』
東側治療区画の隔離扉に着くまで、いつもの倍近くかかった。
昨日撒いた灰には、細い跡が1本だけついていた。扉の隙間から外へ伸び、途中で途切れている。足跡ではない。濡れた指を引いたような線だった。
『線の幅は、昨日観測した指先と近似します。ただし、身体全体が通過した痕跡はありません』
隙間から、腕だけを出したのかもしれない。糸に付いていた白い膜も、同じものだった。
俺は扉から4歩離れた位置に骨片を置いた。さらに2歩下がり、壁際へ灰を撒く。
「ここを入口にする。中で組めば、気づかれる」
『対象が隔離扉を通過できる保証もありません』
「通れないなら、それでいい」
扉前の通路は幅が狭く、左側に崩れた壁材が積もっていた。俺は金属棒の1本を壁材の隙間へ差し込み、固定用金属帯を巻きつけた。もう1本は、向かい側の扉枠へ斜めに立てる。2本の間には、人1人が横向きで通れるだけの隙間を残した。
その奥、隔離扉から2歩の位置に、治療区画から回収した寝台の固定帯を低く張る予定だった。今はまだ張らない。目印だけを置き、位置を記録した。
『隔離扉から、第1障害まで2歩。第2障害まで6歩。退路は西側へ13歩で分岐です』
「分岐を左へ行けば記録施設。右は貯水槽側の水路だ。逃げるのは左だけにする」
白い人影を水へ近づけるつもりはなかった。水分も餌になるなら、西側貯水槽へ続く経路は見せられない。分岐の右には印を置かなかった。印は、俺以外にも経路を示す。
戻る途中、シグが廃室の壁面端子を見つけた。治療区画の外にある、小さな保守記録端末だった。表面は割れていたが、接続部が1つ残っている。
『接続を試します。最短で6分です』
「やれ」
接続棒が端子へ入った。青い光が1度だけ点き、すぐ消える。シグの脚が、床へ沈むように固定された。
その間、俺は通路を見張った。右肩は動かさなくても痛む。左脚の布には、まだ血が広がっていない。
6分を過ぎた頃、端末の奥で乾いた音がした。欠けた文字が、壁へ浮かぶ。『生体修復区画 補助供給記録』『栄養槽残量――12%』『循環水槽残量――31%』『魔力導管――外部供給停止。蓄積槽へ移行』。
数値の記録日は消えていた。今の残量なのか、再封鎖された時の残量なのかは分からない。
文字が乱れ、別の行が出た。『強制治療対象の維持に必要な標準供給量を下回っています』『不足分を区画内備蓄から補填』『備蓄減少量と対象質量の増加量が一致しません』。
「一致しない、か」
『保存肉と菌床だけでは、対象の修復量に足りなかったことを示します。水と魔力だけでは説明できない、と記録者は判断した可能性があります』
次の行は、半分以上が削れていた。
『対象は――区画内の――名を――』
そこで記録は切れた。
人を食った記録は、すでに見ている。空の寝台もあった。だが、今の白い人影がどれだけ残しているのかは分からない。保存肉が尽きれば止まるのか。それとも、別のものを探しに出るのか。
「手動遮断器の位置は取れたか」
『取得しました。処置室4の裏側に3基あります。栄養、水、魔力蓄積槽です。操作間隔は約4歩です。1基目を止めた時点で対象が反応する可能性があります』
俺の脚では走れない。右腕では、遮断器を回せない。左手だけで3基を止め、食料庫を通らずに戻る道が必要だった。
「処置室3の扉は動くか」
『記録上は手動閉鎖式です。最も遠い魔力蓄積槽から6歩です』
「そこを最後にする」
栄養、水、魔力の順に止める。白い人影が食料庫から出てきたら、処置室3の扉を挟む。追ってくれば外の狭い通路へ誘い、金属の障害で足を止める。傷はつけない。動かせるだけ動かし、肉と水分と魔力を使わせる。
『対象が別の管路を利用した場合は成立しません』
「その時は撤退する」
『あなたが撤退条件を守る確率は低下しています』
「なら、先に決めておく」
俺は記録帳を開いた。
『遮断器を3基止められなければ撤退。白い人影が処置室3より手前へ来た時点で撤退。左脚の出血が増えた場合も撤退。長剣は回収しない』
書き終え、シグへ見せた。
『条件を1つ追加します。私との距離が10歩以上開いた場合も撤退してください』
「お前は遅い」
『あなたも現在は遅いです』
否定できなかった。俺は最後の1行を書き足した。
記録施設へ戻る前に、罠へ使う金属帯と固定具を入口近くへ隠した。白い人影が隙間から腕を伸ばしても届かない位置だった。準備は終わっていない。それでも、次に中へ入る時の順番は決まった。
拠点へ戻ると、左脚の布に小さな赤い点が増えていた。シグは歩行時間を記録し、俺へ横になるよう告げた。俺は従った。右肩を壁へ触れさせないよう身体を倒し、記録帳を胸の前へ置く。
「残量が12%なら、白いのはもう長く治せないんじゃないのか」
『記録時点が不明です。また、対象が区画内の別資源を利用する可能性があります』
「人間も含めてか」
『過去の記録では、はい』
空の寝台を思い出した。固定帯だけを残した処置室。保存肉と菌床では、増えた身体に足りないという記録。足りなかった分が何だったのか、答えはすでに近くにあった。
俺は目を閉じた。
「明日、管を止める」
『現在の負傷が悪化していなければ、同行します。悪化していた場合、私は遮断手順を伝えません』
目を開けた。シグの青い光は、動かなかった。
「脅してるのか」
『生存確率を上げるための条件提示です』
しばらく見合ったまま、どちらも黙っていた。先に息を吐いたのは俺だった。
「分かった。今日は休む」
食料庫には肉が残っている。菌床も、水も、魔力もある。だが、傷を塞ぐたびに何かは減る。白い人影の身体も、区画の備蓄も、無限ではなかった。
足りないなら、使わせればいい。
俺たちは、白い人影を殺す罠ではなく、治せなくするための道を作り始めた。
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