傷を塞ぐもの
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それでは、どうぞお楽しみください。
落下から推定235日。東側治療区画の隔離扉に渡した糸は、切れていなかった。床の石は3つのまま並び、灰の線にも乱れはない。だが、糸の中央だけが、わずかに白く濡れていた。
俺は触れずにしゃがんだ。
「昨日はなかったな」
『記録上、乾燥した灰色でした。採取機構がないため、液体が付着した事実のみ記録します』
水には見えなかった。粘りがあり、乾きかけた部分が薄い膜になって糸へ張りついている。
「内側から触れたと思うか」
『扉の隙間以外に付着経路は確認できません。石と灰の位置は記録と一致します』
何かが、向こう側まで来た。それでも扉は押さず、石も灰もそのままにして戻っていった。
俺は左脚の固定具を確かめた。昨日増えた出血は止まっている。ただ、布の内側には赤黒い染みが広がったままだった。右腕は胸元へ吊っている。肩の奥の痛みは、眠っても薄れなかった。処置材を探すには、あれのいる奥へ近づくしかない。
『予定を確認します』
シグが言った。
『食料庫手前まで進入。接続可能な端末があれば、供給経路を確認。未識別対象と接触した場合は即時撤退。滞在限界は1時間です』
「30分にする。何か見つけても、追わない」
『その発言を記録します』
扉を広げ、シグを先に通した。俺も身体を横にして隙間を抜ける。中へ入った瞬間、空気が一段重くなった気がした。
暗視Lv.1を使う。白い通路が灰色の像へ変わった。昨日置いた石と布は、どれも残っている。
処置室7の前まで進むと、床の引きずり跡が昨日より長くなっていた。隔離扉側へ2歩分。食料庫側へ3歩分。
「動いている」
『その可能性が高いです。端は昨日の線と重なります。延びた部分は新しいものです』
奥の寝台を見る。空だ。だが、垂れていた固定帯がなくなっていた。金具だけが床に残り、白い膜に覆われている。糸へ付着していたものと同じ色だった。
「触れるな」
『接触しません』
俺たちは壁際を進んだ。昨日確認した擦過痕は踏まずに避ける。
食料庫へ近づくほど、床を這う白い管が増えた。何本かは途中で裂け、内側から黒い繊維がこぼれている。菌糸だ。死んで乾いたものもある。だが、奥の裂け目では、細い糸がゆっくり縮んでいた。
「生きてるな。森の中央の塊のものか」
『断定できません。形状は菌糸ですが、同一種を示す記録はありません』
食料庫の扉は、片側が内側へ折れていた。擦過痕はその下へ続いている。
俺は左手で長剣を抜いた。刃先を前へ向け、半歩ずつ近づく。シグは俺の後ろで、壁際へ寄った。
『私は戦闘行動を行えません』
「分かってる。俺が戻れと言ったら、入口へ行け」
『レイの移動速度では、私との距離が開きます』
「だから先に行け」
『拒否します』
振り返りかけたところで、右肩が痛んだ。首だけが途中で止まる。
「命令だ」
『私に対する有効な指揮権は確認されていません』
「今それを言うのか」
『はい』
奥で、濡れた音がした。
俺は前へ向き直った。食料庫の中に、白いものがいた。
最初は、立てかけられた布に見えた。人の背丈ほどある。胴は細く、腕だけが長い。肌も、髪も、身につけているものも、色の区別がつかないほど白かった。
それは背中を向け、床へしゃがみ込んでいた。足元には黒い塊が積まれている。保存肉だ。古い樹脂箱が破られ、中身が床へ散っていた。
白い人影は、両手で肉を掴んでいた。だが、口へは運んでいない。指が肉の中へ沈み、黒い塊のほうが小さくなっていく。代わりに、人影の背中がゆっくり膨らんだ。浮き出ていた骨の形が、白い肉に覆われて消えていく。
「止まれ」
声をかけると、人影の動きが止まった。首だけが、こちらへ向く。
顔はあった。目も、鼻も、口もある。だが、どれも薄い。乾ききる前の粘土へ、指で形をつけただけに見えた。
「聞こえるか」
返事はない。
人影が立ち上がった。膝が逆に折れたように見え、すぐ正しい向きへ戻る。垂らした腕の先が、床へ届きそうなほど長い。
「近づくな」
白い足が1歩出た。
『レイ、後退を』
人影が一気に距離を詰めてくる。速くはない。だが、動き出しにためがなかった。伸びた右腕が、俺の胸へ来る。腕が長い分、引き戻すのは遅いはずだ。俺は左へ避け、伸びきった前腕へ長剣を横から振った。
左手だけの斬撃は浅い。それでも刃は前腕へ入り、半分近くまで裂いた。白い液体が糸を引き、腕が垂れた。
それでも人影は止まらない。裂けた腕の内側から細い繊維が伸び、傷口の両側を引き寄せた。俺が剣を戻すより先に、切断面が閉じる。血は落ちなかった。
「閉じた」
『記録しています。損傷閉鎖まで約3秒』
人影の腕が、再び伸びてきた。右へ避ければ肩を壁へぶつける。左へ出れば、負傷した脚へ体重が乗る。
俺は左脚を選んだ。踏み込んだ瞬間、膝の奥が抜けた。身体が半拍遅れ、白い手が右前腕へ触れる。
硬殻Lv.2。触れる寸前、手の甲から肘の手前までだけを灰色の殻で覆った。白い指が殻の表面を滑り、掴み損ねる。だが、引かれた右腕に、肩がついていかなかった。骨の奥で鈍い音がして、視界が白く抜けた。
『レイ』
「動ける」
右腕を胸へ戻そうとして、上がらなかった。吊り布が肩へ食い込み、腕の重さだけで痛む。
人影がまた来る。腕を振るたび、胸の正面が空く。俺は左手で剣を突き出した。刃は人影の胸の中央へ入った。手応えは柔らかい。骨へ当たらないまま、背中近くまで刺さった。
人影の口が開いた。声は出ない。代わりに、白い液が刃を伝ってきた。
俺は剣を引き抜き、後ろへ下がった。胸に開いた穴が縮み始める。最初の傷より遅い。だが、止まらなかった。
人影は俺を追わず、床の保存肉へ手を伸ばした。片手が黒い塊へ沈む。肉が潰れ、白い腕の中へ吸い込まれていった。胸の穴が、一気に塞がった。
『摂取後、閉鎖速度が上昇』
シグの声が背後から響いた。人影の首が、そちらへ動く。
「見るな。入口へ下がれ」
『後退しながら記録を継続します』
シグの脚音が遠ざかっていった。俺は人影と入口の間へ立つ。右腕は使えない。左脚の布からは、血が滲み始めていた。それでも人影は、俺より床の肉を見ていた。
俺は目だけを動かし、食料庫の中を見回した。壁際には保存肉の箱がいくつも積まれている。半分は空で、残りには黒い肉が詰まっていた。奥の壁には菌床が並び、透明な管の中で、灰色と白の塊が脈打っている。
人影が、近くの菌床へ腕を伸ばした。指が透明な壁を押し破り、中の菌糸が白い手へ絡みつく。次の瞬間、菌床が萎んだ。人影の肩から背へ、薄い肉が盛り上がる。俺が斬った痕は、どこにも残っていなかった。
「保存肉だけじゃない」
『菌糸摂取後も体積増加を確認』
シグの声は、もう通路の向こうから聞こえた。
人影がこちらへ顔を向けた。さっきより、目の窪みが深い。顔が、人間の形に近づいたように見えた。
切れば閉じる。肉か菌糸へ触れれば、もっと速く戻る。この食料庫そのものが、こいつの身体だった。
人影が低く沈んだ。今度は、はっきり俺を狙っている。腕が伸びきる前なら、首は届く。先に踏み込んだのは俺だった。左手だけで、首へ刃を走らせる。切っ先は喉を裂き、半分まで入ったところで止まった。
人影の左手が、剣の腹を掴んだ。白い指が刃で裂ける。裂けながらも、握る力は緩まない。引いても抜けなかった。人影の右手が、俺の肩へ伸びてくる。避けるには遅い。
俺は吊っていた右腕を無理に上げ、硬殻Lv.2を肩の前だけへ集めた。薄い殻が走った直後、白い掌がぶつかる。衝撃で、身体が壁へ叩きつけられた。右肩から首まで、熱い痛みが弾ける。息が出ず、膝が落ちた。
『レイ、撤退してください』
左手はまだ剣を握っていた。人影の首の傷が、刃を挟んだまま閉じ始めている。
俺は柄を捨てた。腰の小型刃を抜き、剣を掴んでいる白い手首へ突き立てる。刃先で腱を裂くと、指が一瞬緩んだ。長剣を蹴り、床へ落とす。拾う時間はなかった。
俺は後ろへ下がった。人影が追ってくる。2歩。3歩。
食料庫の境を越えたところで、その動きが鈍った。首と手首の傷は開いたままで、白い液が床へ落ちていく。人影は、俺と、背後の保存肉を交互に見た。そして戻った。
這うように床へ手をつき、黒い肉へ腕を沈める。首の傷が、目の前で閉じていった。
「追跡より摂取を優先した」
『記録しました。移動してください』
俺は左手で壁を伝い、通路を戻った。長剣は置いてきた。握っているのは小型刃だけだ。
処置室7を過ぎたところで、右腕の感覚が薄れた。指は動く。だが、肩から腕を持ち上げられない。吊り布を締め直そうとしても、左手だけではうまく結べなかった。シグが接続棒を差し入れ、布の端を押さえる。
『固定を補助します。現在の右肩は、昨日より悪化しています。長剣も喪失しました』
「分かってる」
『あなたは即時撤退条件を満たした後、2度攻撃を継続しました』
俺は答えなかった。シグの脚音が、すぐ横で続いた。
隔離扉を抜けた時、左脚の布はまた赤くなっていた。俺は扉を押し戻そうとした。右腕は動かず、左脚にも力が入らない。
『完全閉鎖はすでに不可能です』
「少しでも狭くする」
背中と左手で押した。扉はわずかに動き、元の指1本分へ戻った。糸を張り直す余裕はなかった。代わりに、灰を厚く撒く。
「これで足りるか」
『通過の有無は判別できます。阻止はできません』
「それでいい」
記録施設へ戻る道で、何度か視界が揺れた。右肩の痛みが脈に合わせて強くなり、左脚は一歩ごとに熱を持つ。それでも、白い人影は追ってこなかった。食料庫に残ったのだ。肉と菌糸がある限り、傷を塞げる場所に。
拠点へ戻ると、俺は壁へ背を預けて座り込んだ。シグが右腕の指先、手首、肘を順に確認していく。
『肩関節周辺の損傷増加を推定します。安静時痛、可動域、支持力のすべてが悪化しています』
俺も記録帳を開いた。左手が震え、文字が歪む。
『落下から推定235日。東側治療区画の食料庫で白い人影と接触。正式名称不明。会話反応なし』
そこで1度、炭筆を置いた。右肩へ触れようとして、腕が動かなかった。代わりに左手で固定布を押さえてから、続きを書く。
『斬創、刺創は閉鎖。保存肉と菌糸を取り込むと閉鎖速度が上がり、失った体積も戻る。討伐通知なし。技能表示なし』
『補足します。通常時の前腕裂傷閉鎖は約3秒。胸部刺創は、それより遅延。保存肉摂取後に急速閉鎖。菌糸摂取後に体積増加。食料庫外へ3歩進んだ後、追跡を中止し摂取へ戻りました』
俺はそのまま書き写した。
「食えば戻る。なら、先にあれをどうにかしないと斬っても意味がない」
『供給源は複数あります。保存肉、薬用菌床、未確認の管路です』
俺は目を閉じた。食料庫の壁際には、まだ箱が残っている。菌床も1つではない。管は区画の奥へ続いていた。今日の俺には、どれも断てなかった。長剣すら置いてきた。右肩は、もう腕の重さにも耐えられない。
「次は戦わない」
『その発言を記録します。過去の行動との一致率は、さらに低下しました』
「信用してないな」
痛みの中で、少しだけ息が漏れた。笑ったのかもしれない。だが、その息もすぐに肩へ響いた。
「まず、食わせない方法を探す」
『同意します』
俺は記録帳の最後へ書き足した。
『傷を塞ぐものは、食料庫から離れない。補給源を断てないまま再戦しない』
白い人影の名前は分からない。何の技能で傷を閉じているのかも分からない。分かったのは1つだけだった。
あれは傷を治しているのではない。
周りにあるものを、自分の傷へ変えていた。
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