空になった寝台
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それでは、どうぞお楽しみください。
落下から推定234日。東側治療区画の隔離扉は、昨日と同じ幅だけ開いていた。指1本分。床へ並べた石は3つとも動いていない。灰の線にも乱れはなく、壁の傷も2本のままだった。
処置材はまだ1つも見つかっていない。右肩は朝になっても上がらず、左脚の傷は歩くたびに熱を持つ。治す手がかりは、この扉の奥にしかない。だが奥には、昨日の音を立てた何かがいる。
俺はすぐには扉へ触れなかった。
「変化はないか」
『外側の目印は記録と一致します。内側は確認できません』
「外の印だけじゃ足りないな」
『帰還時に、隙間そのものへの目印追加を推奨します』
シグの接続棒が隙間へ向いた。暗闇の奥から、音はしない。昨日聞いた水滴のような音も消えていた。静かな方が安全だとは思わなかった。
俺は腰の小型刃を左手で抜き、扉の隙間へ差し込んだ。少しずつ押すと、金属が低く軋んだ。右腕は胸元へ吊ったまま、左脚の固定具も外していない。扉を昨日と同じ幅まで広げるだけで、腿の傷が熱を持った。
「出血は」
『現時点では確認できません。出血していないことは、損傷していないことを意味しません』
シグは脚を畳んだ。俺は接続棒の根元を左手で掴み、先に内側へ通す。続いて身体を横にし、右肩を扉へ触れさせないよう滑り込んだ。
治療区画の白い通路は、昨日と変わっていなかった。空の寝台が見える。停止した生体修復槽も、その底へ褐色の膜を残している。暗視Lv.1の視界で見ると、壁と床の境目が灰色に溶けていた。
俺は入口から順に印を置いた。石、短い布、壁の傷。帰る方向だけは、何度でも確かめる。
「昨日の音は奥だったな」
『通路の先、右方向です。距離は特定できません』
「先に手前の部屋を全部見る」
『適切です』
最初の処置室には、寝台が3つあった。昨日見た時は、空だとだけ思った。近づいてみると、それぞれ状態が違う。
入口側の寝台には、固定帯が整った形で残っていた。肩、腰、腿、足首。人間を寝かせれば、身体のほとんどを動かせなくできる。中央の寝台は、帯の半分がない。金具だけが枠に残り、革に似た素材は床へ垂れていた。奥の寝台は、枠そのものが歪んでいる。
俺はしゃがみ、金具を見た。留め具は開いていない。根元から引きちぎられていた。
「刃物で切った跡はあるか」
シグが接続棒の先を近づける。
『確認できません。繊維は外側へ伸びています。内側から引かれた可能性が高いです』
寝台へ目を戻した。固定帯は患者を守るためだったのか。それとも、治療され続ける何かを押さえるためだったのか。
奥の寝台の白い枠には、浅い傷が何本も並んでいた。爪の跡に見えた。だが、人の爪で金属を削れるとは思えない。
「記録にこの部屋の番号はあるか」
『床面表示を確認します』
シグが寝台の下へ棒を伸ばした。灰を払うと、小さな文字板が出た。
『処置室――7』
その下に、患者番号が3つ並ぶ。名前はすべて削られていた。
「昨日の一覧と照合できるか」
『2件が一致します。1件は一覧側の記録が欠損しています。入口側は死亡。中央は移送。奥は――読み出せません』
表示板が1度暗くなり、再び灯った。
『維持』
昨日も見た言葉だった。治ったとは書かれていない。生きているとも、元の人間だとも書かれていない。ただ、維持。
通路左側の部屋には、寝台が5つあった。すべて空だった。床には細い管が散らばり、壁際の容器は内側から潰れている。乾いた布の切れ端がわずかに残っていたが、触れると粉になった。
「使える布はないな」
『はい。包帯への転用は不可能です』
右側の部屋は、扉が途中で止まっていた。隙間から中を覗く。寝台は2つ。一方は倒れ、もう一方は壁へ押しつけられている。床へ長い擦過痕が走っていた。幅は俺の胴ほどある。何か重いものを引きずった跡だ。
「古い跡か」
『表面には厚い堆積があります。ただし、一部で堆積が薄い箇所があります。比較的新しい可能性があります』
俺は擦過痕へ小型刃の先を当てた。溝の縁から、白い粉が崩れる。その下に黒ずんだ色が見えた。乾いた血か、腐った何かか。
匂いでは判断できない。薬草と薬湯の匂いを失ったせいだけではない。区画全体の空気が古すぎて、どこまでが薬で、どこからが腐敗なのか分からなかった。
擦過痕は部屋を出て、通路の奥へ続いている。俺たちは跡を踏まないよう、壁際を進んだ。
通路は途中で2つに分かれていた。左の表示は『処置』。右は文字の大半が消え、最後の2文字だけ残っている。
『――食庫』
「食料庫か」
『記録上の語と一致します』
擦過痕は右へ曲がっていた。通路の幅いっぱいに、何度も往復した跡が重なっている。片道ではない。治療室から食料庫へ行き、戻ってきた。何度も。
「自分で歩いた跡はないな」
『足跡に相当する形状は確認できません』
「這ったのか」
『可能性はあります』
シグの答えと同時に、奥で小さな音がした。
こつ。
石ではない。硬いものが床へ触れた音だった。俺は立ち止まり、左手を長剣の柄へ移した。
「距離は」
『不明です。反響しています。昨日の音と近似しています』
しばらく待った。次の音はない。
俺は息を吐き、右肩の吊り布を確かめた。ここで何かに襲われれば、長剣をまともに振れない。逃げても左脚は長く持たない。先へ進む理由は治療だった。だが、治療区画そのものが、今は傷より危険だった。
「記録を取ったら戻る」
『同意します』
分岐の壁に、半ば外れた透明板があった。シグが接続する。最初は何も映らなかった。何度か光が途切れ、古い区画図が浮かぶ。処置室。修復槽室。薬用菌床。食料庫。奥には、名前の消えた大部屋が1つあった。
「昨日の音は」
『区画図上では、食料庫またはその奥の未識別室から発生した可能性が高いです。未識別室の索引は削除されています』
「またか」
名前だけではない。この街では、知るために必要な部分から消されている。
シグが表示を切り替えた。区画の稼働記録が断片的に残っていた。『食料庫、供給停止』『薬用菌床、隔離処分』『患者移送――失敗』『内側封鎖――破損』。その後に、別の記録者が追記している。文字の形式が違った。
『記録者を照合します』
中枢核の光が白く明滅した。
『再封鎖実行者 アルド・クロウ』
息が止まった。
「アルドが、ここを閉じたのか」
『記録上は、はい』
「いつだ」
『年代情報は欠損しています。ただし、最初の隔離命令より後です』
アルドは、この区画へ来た。食料庫へ続く擦過痕を見たのかもしれない。空の寝台も、内側から破られた固定帯も。そして、一度壊れた封鎖を閉じ直した。
「理由は」
シグが記録を送る。表示板に1行ずつ浮かんでは消えた。『再封鎖理由――削除』『隔離対象名――削除』『記録閲覧権限――失効』。そこで終わっていた。
俺は表示板へ左手をついた。冷たい感触だけが返る。
「アルド本人が消したのか」
『断定できません。追記後に第三者が削除した可能性もあります。名称以外が意図的に欠損している点は、記録庫と一致します』
残っているのは、アルド・クロウという名。俺と同じ姓。だが、記録庫は俺を本人として認めなかった。同じ名に引かれて答えを急げば、また見誤る。
『急ぐな。先に生き延びろ』
欠損した断片が頭に浮かんだ。俺は表示板から手を離した。
「区画図と再封鎖記録を保存しろ」
『保存しました』
「帰るぞ」
来た道を戻る前に、俺は食料庫へ続く通路をもう一度見た。暗視Lv.1の視界でも、奥は霞んでいる。擦過痕だけが暗闇へ続いていた。
その端に、小さなものが落ちている。近づかず、小型刃の先で引き寄せた。
固定帯の金具だった。昨日見た寝台のものと同じ形だ。だが、曲がり方が違う。外へ向かって、弓のように反っている。留め具を外したのではない。帯をつけたまま、引きちぎった。
俺は金具を布へ包んだ。
『接触後の布は他の包帯と分けてください』
「分かってる」
戻る途中、左脚の傷がわずかに滲んだ。布の内側へ温かさが広がる。立ち止まらず、歩幅だけを狭くした。
『出血量が増加しています。速度を落としてください』
「奥から来たら困る」
『現在、追跡音は記録されていません』
「記録されてからじゃ遅い」
処置室7の前を通った。奥の寝台は、やはり空だった。内側から破られた固定帯が、床へ垂れている。
その下の灰に、細い線があった。昨日は気づかなかった。いや、昨日はなかったのかもしれない。線は寝台の下から始まり、通路へ伸びていた。食料庫とは逆。隔離扉の方向へ。
「シグ、昨日の床と比べろ」
短い沈黙があった。
『一致しません。この線は、昨日の映像記録では確認できません』
俺は扉の方角を見た。誰かが通ったのなら、外の灰と石が動くはずだ。だが、外側の目印は変わっていなかった。線は処置室から7歩ほどで途切れていた。足跡もない。血もない。ただ、そこまで何かを引きずった跡だけがある。
こつ。
今度は背後から聞こえた。食料庫の方角だった。
俺は振り返らなかった。
「戻る」
『はい』
扉の隙間へシグを先に通し、俺も外へ出た。左脚をかばいながら扉を押し戻す。指1本分の隙間が残った。
石は3つ。灰の線。壁の傷2本。目印を作り直し、さらに扉の隙間へ短い糸を渡した。内側から動けば、切れるか落ちる。
記録施設へ戻るまで、俺は何度も後ろを見た。何もついてこない。
『後方に移動音はありません』
「分かってる。見るだけだ」
それでも、空になった寝台が頭から離れなかった。患者はいない。死体もない。あるのは、内側から壊された固定具と、食料庫へ続く跡だけだった。
そしてアルドは、理由も対象名も残さず、そこを閉じ直していた。何もいない区画を、わざわざ封鎖する必要はない。
空の寝台は、そこに誰もいなかった証拠ではなかった。
そこから、何かが出た証拠だった。
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