隔離された治療区
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それでは、どうぞお楽しみください。
落下から推定233日。白灰色の保存食を、朝までに親指の先ほど食べた。腹痛も痺れもない。毒分解Lv.2の反応もなかった。安全だとは言い切れない。それでも、食料として数えられる可能性は残った。
俺は記録帳へ摂取量と経過時間を書き、右腕の吊り布を締め直した。肩は眠っている間も痛んだ。左脚の固定具を外すと、昨日開いた傷の周りに赤黒い血が固まっている。
処置材が見つからなければ、右肩はこのまま固まり、左脚は歩くたびに開く。今日は、隔離された東の区画へ入る。
『出血は止まっています』
シグが接続棒の先を傷の近くへ向けた。
『歩行距離は制限してください』
「東の区画までは遠くない」
『距離が短いことと、安全であることは同義ではありません』
俺は金属帯を左脚へ戻した。布を巻き、結び目を外側へずらして、歩くたび傷へ触れないようにした。右腕は胸元へ固定したままにする。
長剣は置いていくことも考えた。だが、知らない区画へ小型刃1本で入る気にはなれなかった。鞘を背から外し、左腰へ斜めに吊るす。抜けるか、左手で確かめた。刃は半分ほど出た。それ以上は右肩が引かれ、痛みが走る。
『十分ではありません』
「ないよりはましだ」
『比較対象が不適切です』
「お前、前よりよく言うようになったな」
シグは答えなかった。代わりに、床へ置いていた金属札を接続棒で持ち上げた。
『処置材――東』
削れた文字が、淡い光を返した。
東側の隔離閉鎖区画までは、記録施設から崩れた街路を2本越える。記録帳の地図に引いた線をたどり、俺たちは移動した。
暗視Lv.1の灰色の視界で、角を曲がるたびに目印を置いた。最初の角に細長い石を立てる。次の壁へ横線を刻む。閉鎖区画の手前には、黒い布の切れ端を落とした。
「距離は」
『私の記録とも一致しています』
扉は街路の突き当たりにあった。高さは俺の2倍近い。左右の壁と一体になった金属製で、中央に細い継ぎ目が走っている。扉の上には長い表示板があった。前に見た時は、文字の大半が黒く沈んでいた。今も読めるのは、端の隔離標識だけだった。
「接続口は」
『右下です。堆積物を除去してください』
俺はしゃがみ、灰を払った。左脚を深く曲げられない。壁へ肩を預けようとして、右側だったことに気づき、慌てて左手をついた。
扉の根元に、指2本分の細い蓋がある。小型刃の先で持ち上げると、内部に4つの穴が並んでいた。
シグが近づく。段差は低かったが、補助輪が引っかかった。俺が左手を添える前に、シグは3本の脚を順に縮め、自分で乗り越えた。
『接続を開始します』
棒の先が分かれ、細い端子が穴へ入った。光はつかない。音もない。シグの仮設躯体だけが、小刻みに震えた。
「どうだ」
『待機してください』
俺は扉へ背を向け、街路を見張った。遠くで石を擦る音がした。自動兵かもしれない。まだ近くはない。
左手で長剣の柄を握った。右肩が動かない分、身体ごと向きを変える必要がある。左脚へ体重をかけすぎると、傷の奥が熱を持った。どちらへ動いても、身体のどこかが止めてくる。
『レイ』
「来るか」
『いいえ。表示記録の一部を取得しました』
振り返る。扉上の表示板へ、青白い線が1本走った。消えていた文字の輪郭が、欠けたまま浮かび上がる。
『第――治療区』
表示は1度消え、別の行が灯った。
『生体処置――隔離――』
「治療区……」
『正式名称は欠損しています。用途区分は、治療および生体処置です』
「処置材は中にあるか」
『搬入記録があります。現在も残存しているかは不明です』
「扉は開けられるか」
『隔離命令が継続しています。理由の記録領域は損傷しています』
シグの声が一瞬途切れた。表示板に赤い文字が重なった。
『外部開放禁止』
その下に、さらに短い行が出る。
『収容数――』
数字は読めなかった。
「中に患者がいたのか」
『記録上は、はい』
「今は」
『生命反応を取得できません。検出設備が停止しているため、存在しないとは断定できません』
遠くの石擦れが、少し近づいた。俺は街路の奥を見た。
「ここで待つ時間はない。開放手順を探せ」
『隔離扉の正規開放には治療管理者の認証が必要です』
「俺では通らないな。アルドの記録庫で拒まれた」
『名称一致は確認されました。異なる系統の認証であれば、結果も異なる可能性があります』
シグは端子を深く差し込んだ。表示板の文字が激しく明滅し、『管理者――』『記録補助――』『緊急搬入――』と行が次々に入れ替わる。最後の行だけが残った。
『緊急搬入を選択します。開放後、隔離状態は不完全になります』
「閉め直せるか」
『扉の駆動部が生きていれば可能です。生きていなければ、閉鎖できません』
石擦れの音が止んだ。静かになった方が、不気味だった。
俺は扉の前を見た。何かが出てきた時、右腕は使えない。左脚も長くは踏ん張れない。それでも、ここを開けなければ傷は悪くなるだけだ。
「開けろ」
『緊急搬入を実行します』
扉の奥で、重いものが落ちた。中央の継ぎ目から白い粉が噴き出す。俺は口元を布で覆い、シグを左足の後ろへ下がらせた。
金属同士が擦れ、扉が指1本分だけ開いた。そこで止まる。
『駆動力が不足しています』
「俺が広げる」
『右肩の使用を禁止します』
「左だけだ」
『損傷を増やして進入することは推奨しません』
「戻っても治らない」
シグは沈黙した。
俺は左手の指を隙間へ入れた。金属は冷たい。身体を横にし、左脚を前、右脚を後ろへ置く。肩ではなく背と腰で押すように力をかけた。
扉は少しずつ動いた。左腿の傷が引きつる。右肩も固定布の中で揺れた。息を止め、あと1歩分だけ広げる。
「通れる」
『私の幅が不足しています』
「脚を畳め」
『転倒時の復帰が困難です』
「俺が引く」
『右腕を使用しないでください』
「左でやる」
シグは3本の脚を縮めた。俺は接続棒の根元を掴み、隙間の向こうへゆっくり引いた。補助輪が扉へ擦れたが、どうにか通る。最後に俺が身体を滑り込ませた。
扉の内側は細い通路だった。床も壁も、記録施設より白い。白かった、と言うべきかもしれない。今は灰色の染みと黒い筋に覆われている。
空気は乾いていた。薬の匂いが残っている気がした。だが、俺には分からない。薬草と薬湯の匂いは、もう思い出せない。
「有害反応は」
『急性毒性は検出されません。微生物、寄生体、長期影響は不明です』
「進むぞ」
入口の横に、細い台が倒れていた。その上に透明な板が1枚残っている。シグが接続すると、ぼやけた文字が浮かんだ。
『緊急搬入患者一覧』
名前の欄は、ほとんど削除されている。残っているのは、年齢らしき数字、負傷部位、処置の優先度だった。腕の欠損。腹部穿孔。全身熱傷。毒性侵食。文字を追うほど、数が増えた。
「戦いの負傷者か」
『原因欄は欠損しています』
「治療は成功したのか」
『結果記録へ移行します』
表示が切り替わり、『閉鎖』『死亡』『再処置』と同じ言葉が並んだ。その中に、1つだけ別の表記があった。
『維持』
「維持」
『生命活動の継続を示す可能性があります』
「治ったとは書いてない」
『はい』
通路の先には、左右へ扉が並んでいた。どれも細長い窓を持つ。窓の内側は黒く、何も見えない。床には白い管が何本も走り、壁の中へ入って、さらに奥へ続いていた。
俺は最初の扉を少しだけ開けた。
中には寝台が3つあった。石でも木でもない、白い枠だけの寝台だ。上に人はいない。壁には革に似た固定帯が垂れている。
中央の寝台の脇に、大きな透明槽が立っていた。俺が両腕を広げても足りないほど太く、上部から何本もの管が伸びている。槽の中は空だった。底に、乾いた褐色の膜が張りついている。
「これが治療槽か」
『表示を照合します』
シグが床の端子へ接続した。透明槽の根元が淡く光った。
『生体修復槽』
「何をするものだ」
『損傷した生体を収容し、修復を促進する設備です』
俺は右肩を見た。
「動くのか」
『現時点では停止しています。必要資源も不明です』
「直せる可能性は」
『あります。ただし、先に記録を確認します』
希望を口にする前に、シグが止めた。正しい。ここの扉は、治療を守るためではなく、何かを閉じ込めるために封じられていた。
シグが次の記録を開いた。文字の欠損が多い。『修復反応――安定』『栄養液――不足』『代替供給――開始』。
「代替供給」
『続きがあります』
光が乱れた。『被験者、自発摂取を開始』『槽内供給の停止後も修復継続』『周辺の有機資材が消失』。
俺は透明槽の底を見た。褐色の膜は、乾いた血のようにも見えた。
「有機資材って何だ」
『当時の分類を読み出します』
中枢核の青い光が明滅した。『包帯』『薬用菌床』『保存食』。そこで表示が1度切れた。次の語が出るまで、長くかかった。
『隣接患者』
喉の奥が冷えた。
「患者を、食ったのか」
『記録は「摂取」「消費」「修復素材への転換」と表現しています』
「同じことだ」
『結果としては、否定できません』
さらに記録が続いた。『強制治療命令を解除できず』『損傷を検出する限り修復継続』『隔離を要請』『対象名――削除』。最後の行だけ、赤く残った。
『治療を停止せよ』
俺は槽から1歩下がった。左脚の固定具が床を擦った。
部屋の奥で、何かが鳴った気がした。水滴のような、小さな音だった。
「シグ」
『私も検出しました』
「どこだ」
『この室内ではありません。さらに奥です』
俺は空の寝台を見た。垂れた固定帯。乾いた槽。患者の名前が削られた記録。
ここには、傷を治す設備が残っている。同時に、治るためなら周囲のものを食い続ける何かがいた。
「今日はここまでだ」
『同意します』
記録の写しだけをシグへ保存させ、端末を切った。
扉の外へ戻る前に、俺は入口の床へ石を3つ置いた。その横へ灰を細く撒き、壁に短い傷を2本刻む。治療区画の印であり、内側から何かが通れば分かる印だった。
隙間を抜け、扉を可能な限り押し戻した。完全には閉じない。指1本分の暗闇が残った。シグがその幅を記録する。
「変化があれば分かるな」
『はい。ただし、目印の改変可能性も考慮します』
「記録施設へ戻って、全部写す」
『右肩と左脚の再確認も行います』
「分かった」
東の街路を戻りながら、俺は吊った右腕を見た。治したい。その考えは変わらない。
だが、あの記録にあったものは、治癒ではなかった。
傷を塞ぐために、周りの命まで材料へ変える。そんなものを治療とは呼べなかった。
背中の向こう、指1本分の隙間の奥で、あの水滴の音がまだ続いている気がした。
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