治らない傷
ご覧いただきありがとうございます!
よろしければ、この話の読み終わりにでも【ブックマークへの追加】や【★★★★★評価】をポチッと押していただけると、今後の執筆の大きなモチベーションになります!
それでは、どうぞお楽しみください。
落下から推定232日。朝の記録をつける前に、俺は右腕を上げてみた。肩の高さまでは上がらない。鎖骨の下から肩の奥へ、錆びた釘をねじ込まれるような痛みが走った。昨日より指2本分ほど低い。
今日は北西の倉庫群へ、食料と布と固定具を探しに出る。この腕のまま、戻ってこられる範囲でだ。
『そこまでです』
床を細かく鳴らしながら、シグが俺の右へ回った。3本の脚と小さな補助輪で進む仮の身体は、まだ段差のたびにわずかに傾く。
「もう一度だけだ」
『測定値は変わりません。反復は治療ではなく、損傷の追加です』
「分かってる」
『理解と行動が一致していません』
俺は腕を下ろした。
頬の切り傷は薄い線になっていた。左腿の裂傷も、表面だけならほとんど塞がっている。だが、右肩は違った。皮膚の下に残った何かが、腕を動かすたびに骨と筋を噛んでいる。左脚も、長く歩けば膝の裏が固まり、歩幅が狭くなった。左肘から先の痺れも消えていない。
傷が閉じることと、治ることは別だった。
『今日の予定を確認します』
シグの中枢核の青い光が、淡く明滅した。
『西貯水槽からの水の補給。北西倉庫群の再探索。包帯に転用可能な布、固定具、食料の確保。帰還限界は3時間です』
「2時間半にする。戻る時間を残す」
『適切です』
水を入れた古代製筒を腰へ結び、残った干し肉を1片だけ口に入れた。噛むたびに、固い繊維が奥歯に挟まる。残りは4片。節約しても2日分には届かない。
記録施設の扉を開ける前に、入口の目印を確かめた。長さの違う石が4個。石の下の灰と、裏の傷。扉の内側に結んだ布の結び目が2つ。扉脇の横線の下の短い線。どれも動いていない。
「出るぞ」
『同行します』
シグはそう答え、自分の脚で敷居を越えた。背中に重みがないまま外へ出るのは、まだ落ち着かなかった。
外は相変わらず静かだった。名の消えた街路には薄い灰が積もり、崩れた建物の輪郭だけが暗闇の中に並んでいる。俺の暗視Lv.1が、道の凹凸を鈍い濃淡に変えた。
右手には鎌脚の小型刃を持つ。今の肩では、それ以上の重さは振れない。
西の水路までは、外壁に残した印を3種類重ねて進んだ。3つずつ刻んだ壁の傷、石の下の灰、戻る側に隠した骨片。忘都では、1つの目印だけを信じない。
西貯水槽で筒を満たし、北西の倉庫群へ向かった。崩れかけの建物が1つ、入口の半分を石板で塞がれていた。
「内部の空気に異常はあるか」
『検出範囲では、急性毒性を示す反応はありません。奥の濃度は測定不能です』
「いつも通りだな」
『不明を安全と解釈しないでください』
隙間へ身体を滑り込ませた。右肩が石に触れただけで、息が止まる。俺は左手で壁を押し、どうにか中へ入った。シグは脚を1本ずつ畳み、最後に補助輪を引き込んだ。
倉庫の中には、倒れた棚が幾重にも重なっていた。木はほとんど腐っている。だが、棚板の間に挟まれた薄い金属板と、樹脂で封じられた箱がいくつか残っていた。
最初の箱には、灰になった布が入っていた。2つ目には、指ほどの幅の金属帯が12本。曲げても折れず、端には小さな穴が並んでいる。3つ目には、留め具の残った細長い筒が1本入っていた。西貯水槽で拾った物と同じ形だった。
「固定具に使えるな」
『長さを調整すれば、左膝と右肩の補助に転用可能です』
「肩まで固めたら、もっと動かなくなる」
『動かさないための固定です』
「戦う時に困る」
シグの青い光が1度だけ暗くなった。
『現在の右腕は、戦闘に使用するたび悪化しています』
返す言葉はなかった。
金属帯を束ねて布で包み、腰の帯へ結んだ。空の筒も腰へ結ぶ。重さが右肩へかからないよう、紐を胸の前で組み直す。
棚板の間に、鞘ごと挟まった長剣が1本残っていた。引き抜くと、刃に錆は浮いていない。今の肩では、抜けても振れない。それでも小型刃1本よりはいい。鞘の帯を背へ回した。
奥の壁際で、乾いた匂いがした。倒れた棚の下に、黒い壺が3つ並んでいる。1つは割れていたが、残り2つは蓋が固着していた。小型刃を差し込み、少しずつこじ開ける。中に詰まっていたのは、白灰色の薄い塊だった。
「食えると思うか」
『形状は保存食に近似しています。ただし、経過年数と成分が不明です』
「なら、試すしかない」
『少量に限定してください』
小指の爪ほどを削り、舌先に乗せた。苦い。土と古い油を混ぜた味がした。
『味を記録します。表現してください』
「苦い。土と、古い油だ」
しばらく待つ。腹に熱はない。喉の痺れもない。毒分解Lv.2も反応しなかった。
「少量を持ち帰る。今夜まで変化がなければ、次を試す」
『一度に摂取する量を記録します』
壺ごと運ぶのは無理だった。塊を布片に包み、金属帯の包みへ重ねる。
その時、頭上で小さな音がした。木屑が落ちてくる。
『レイ、後退を』
棚が傾いた。左へ避けようとして、脚が遅れた。膝の裏が固まり、身体が半歩しか動かない。倒れてくる棚板へ右腕を出す。避けるには間に合わない。
ぶつかる寸前、俺は力を腕の外側だけへ集めた。硬殻Lv.1。灰色の層が、右手の甲から前腕へ走った。
棚板が前腕にぶつかった。衝撃が肘を抜け、肩の奥で何かが擦れた。
俺は歯を食いしばり、左手で棚を押し返した。シグが下から脚を突っ張り、倒れる角度をわずかにずらす。
『今です』
身体を引き抜いた。次の棚が連なって崩れ、さっきまで立っていた場所を塞いだ。暗闇の中に、乾いた音だけが続いた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
《技能成長》
硬殻:Lv.1 → Lv.2
狙った部位へ短時間で正確に展開できるようになりました。
硬化部位の動作低下が軽減されました。
忘却値に変化はありません。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
通知を見た直後、右肩から熱い痛みが広がった。
灰色の層は消えている。棚板を受けた前腕には、赤みすらなかった。だが、腕は胸の高さまで上がらなくなっていた。
『損傷を確認します』
「後でいい」
『今です』
シグの声は静かだった。だからこそ、拒めなかった。
壁際に座り、右腕を膝へ乗せる。シグは接続棒の先で、俺の指、手首、肘を順に押した。
『痛覚は』
「手と肘はない。肩の前と奥にある」
『指は動きますか』
「動く」
『腕を外へ開かないでください』
「分かった」
『理解と行動の一致を求めます』
「……分かった」
シグは中枢核の光を俺の前腕へ向けた。
『展開は前腕の外側だけに限定されていました。棚板の接触より前に、形成が完了しています』
「動きも止まらなかった」
『はい。硬殻Lv.2は防御効率を改善しています』
俺は動かない右肩を見た。
「それでも、ここは治らない」
『防御能力は既存損傷を修復しません』
分かっていた。だが、言葉にされると重かった。強くなったはずなのに、できないことが増えていた。
帰路は予定より遅れた。右腕を胸へ縛り、左手だけで荷を支える。シグは俺の半歩前を進み、床の段差を1つずつ告げた。
『前方、3歩先に陥没。左へ半歩です』
「見えてる」
『歩幅が不安定です』
「それも見えてるのか」
『記録しています』
西貯水槽で、空だった筒にも水を満たした。そこを過ぎた辺りで、左脚の傷が開いた。塞がっていた皮膚が細く裂け、脛へ血が伝う。
戦っていない。走ってもいない。ただ歩いただけで、傷は戻った。
『出血を確認。停止しますか』
「歩ける。戻ってから見る」
シグはそれ以上言わず、俺の前で速度を落とした。
記録施設へ着いた時には、出発から2時間48分が経っていた。扉を閉め、石と灰と布の目印を元どおりに戻す。俺は壁にもたれたまま座り込んだ。
シグが回収した金属帯を床へ並べた。腐っていない布は、倉庫の奥から持ち出せた2枚だけだった。水は筒2本。保存食らしき塊は、およそ3日分。ただし、安全を確かめながら食べるなら、倍の時間が必要になる。
十分ではない。それでも、昨日よりはましだった。
布を裂き、左脚を洗った。新しい血を拭うと、古い傷の縁だけが白く硬くなっている。中心はまだ赤い。
金属帯を2本重ね、布で巻いて固定具にした。左膝の裏へ当てようとすると、シグが接続棒で位置を示した。
『指1本分、下げてください』
「ここか」
『はい。その位置なら、膝を曲げた時に傷の縁へ当たりません』
布を締め直し、右腕は胸元へ吊った。
「可動域を測るぞ」
『本日は中止を推奨します』
「今の値が要る」
シグは短く沈黙した。
『1度だけです』
固定を外し、右腕を上げた。朝より低い。左膝は曲げ切れず、左肘から先の感覚も変わらない。傷口は塞がる。血も止まる。だが、身体は元へ戻らない。
俺は記録帳を開いた。
『落下から推定232日。水2筒。固定用金属帯12本。布2枚。保存食候補、推定3日分。少量摂取、現時点で異常なし』
続けて、能力の変化を書いた。
『硬殻Lv.2。局所への展開速度と精度が上昇。動作阻害は軽減。右前腕への衝撃を防いだ』
最後の1行で、手が止まった。書きたくはなかった。だが、残さなければ次の俺が同じ間違いをする。
『右肩の可動域、悪化。左脚の傷、歩行のみで再発。能力上昇による治癒は確認できず』
シグが記録帳を読み取った。
『妥当な記録です』
「嬉しくないな」
『記録は慰めではありません』
「知ってる」
『ですが、生存の補助にはなります』
俺は残った干し肉を半分だけ裂き、片方を口へ入れた。白灰色の保存食は、今夜まで待つ。
「布も固定具も足りない。食料も、安全が分からない」
『周辺倉庫の探索継続は、損傷悪化の確率が高いです』
「他に当てはあるか」
シグは倉庫から回収した薄い金属札を、接続棒でこちらへ押した。表面の文字はほとんど削れている。それでも端に、矢印と短い語が残っていた。
『処置材――東』
矢印は、記録施設の真下へ続く閉鎖区画とは別の方角を示していた。東側の隔離閉鎖区画。まだ扉の表示すら読めない場所だ。
「復元できるか」
『施設端末へ接続できれば、一部は可能です。ただし、現在の情報だけでは用途を確定できません』
「処置材が残ってる可能性は」
『あります』
「危険は」
『不明です』
俺は吊った右腕を見た。休んでいても、肩の奥は脈に合わせて痛んでいる。
このまま第12層へ進めば、長剣を抜く前に腕が終わる。歩き続ければ、左脚も持たない。
行かない理由は十分にあった。それでも、行く必要はもっと大きかった。
「明日、東を調べる」
『移動前に再固定を行います』
「頼む」
シグは金属札を記録帳の横へ置いた。俺はその矢印を、しばらく見ていた。
強くなっても、傷は治らない。
なら、治す手段を探すしかなかった。
お読みいただきありがとうございました!
「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、画面の下(または目次ページなど)にある**【ブックマーク登録】と、【★★★★★評価】**で応援していただけると本当に嬉しいです!
感想や「ここが良かった」といったご意見もお待ちしております。
それでは、次回の更新でお会いしましょう!




