名前のない街区
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それでは、どうぞお楽しみください。
10分の休息が終わるまで、青い窓は2度光った。俺は動かなかった。膝の上で記録帳を開き、光った時刻と長さだけを書く。1度目は3呼吸、2度目は1呼吸。人の影は出なかった。
「端末は生きてるのか」
『部分稼働です。先ほど切断した板とは別系統と推定します』
「街全体がつながってるのか」
『可能性はあります。ただし、接続経路は確認できません』
窓の奥を見ても、黒い板はもう光らない。右手の震えは収まっていた。だが、喉の渇きは休んでも引かない。水はまだ1口も飲めていない。
自分の名前を口にしなくても、灰鐘村からここまでの順番はつながる。ネームレスに触れられた時の冷たさも残っていない。俺は記録帳を腰布へ戻した。
「水を取りに行く」
『先に歩行状態を確認します』
「歩けば分かる」
『転倒後の確認では遅れます』
壁へ右手をつき、ゆっくり立った。左腿へ体重を掛ける。痛みはあるが、膝は抜けない。右肩は胸の高さまで。左肘から先の感覚は薄いままだった。
「歩ける」
『問題は存在します。移動可能と記録します』
路地を出る前に、小さな石を3個並べた。1個の尖った側を記録施設へ向け、残る2個を西側貯水槽の方向へ揃える。戻った時に数や向きが変わっていれば、何かが通ったと分かる。
『目印を記録しました』
「お前も覚えておけ」
『すでに記録しています』
貯水槽まで残り92メートル。直線では進めない。広い通りを2か所横切る必要があり、どちらも自動兵の巡回経路だった。
最初の交差点へ近づく前に、金属の足音が聞こえた。
俺は建物の入口へ身を寄せた。扉は閉じている。隠れられるのは、壁から張り出した石枠の陰だけだった。足音は右から近づいてくる。一定の間隔で、迷いも疲れもない。
シグが声を落とした。
『通過まで6秒。5。4』
角から自動兵が現れた。先ほど停止させた個体とは形が違う。両腕の先が細い鉤になり、顔の青い線が左右の建物を順に照らしていた。
俺は呼吸を浅くした。接続できれば止められるかもしれない。だが、3秒間しがみついている間に、もう1体が来れば逃げ場はない。今は戦う理由もない。
自動兵は交差点の中央で止まった。顔の青い線が、隠れている石枠へ向く。光が足元を横切った。布を巻いた右足まで、10センチもない。
俺は動かなかった。青い光が戻る。自動兵は反対側の建物を調べ、また歩き始めた。足音が遠ざかってから、石枠を出る。
『巡回記録との差、12秒』
「毎回同じじゃないのか」
『停止個体との接続後、巡回周期が変更された可能性があります』
「前の記録を信じすぎるな」
『同意します。以後、足音と現在位置を優先します』
通りを渡った。2つ目の交差点に自動兵はいなかった。代わりに、石畳の中央が崩れている。穴の下に細い水路が見えた。暗い水が左から右へ流れている。
縁へしゃがみ、右手を伸ばした。水面までは1.5メートルほど。指は届かない。目の前に水があるのに、喉へ入れる手段がない。
「流れは貯水槽からか」
『方向は一致します』
俺は鎌脚の小型刃へ細い布を結び、穴へ下ろした。布の先が水へ触れる。同時に、水流感知Lv.1へ細い流れが入った。
広い河とは違う。石管に押さえられた水が、穴の下で2つに分かれている。右へ進む主流と、足元の壁へ入る細い支流。
支流の奥では、一定の間隔で水が止まっていた。開く。閉じる。もう1度開く。生き物の動きではない。
「下に装置がある」
『水門または濾過機構の可能性があります』
「水は動いてる」
『飲用可能とは限りません』
布を引き上げた。濡れた部分は透明で、赤くも濁ってもいない。鼻へ近づける。薬草と薬湯の匂いを失ってから、薬品が混じっていても自分の嗅覚だけでは判断できない。
布へ灰を少量落とした。泡は出ない。色も変わらない。舌にはつけず、記録だけ残した。
「源を確かめる」
『距離が延びます』
「貯水槽へ行く途中だ」
崩れた穴を回り込み、細い階段を下りた。水音が近づく。
階段の先に、丸い石扉があった。中央へ青い輪が刻まれ、右側には自動兵の胸部と似た端子がある。
『接続を試行します』
「中は見えるか」
『扉越しの確認はできません』
「開けすぎるな」
中枢核から伸びた接続線が端子へ入った。青い輪が半分だけ点る。石扉は手のひら1枚分だけ横へ動き、止まった。隙間から冷たい空気が流れてくる。腐敗臭はない。
俺は3本線の金具を差し込み、床へ石片を置いた。扉が戻っても、完全には閉じない。右肩を上げず、腰を落とす。左脚で床を踏み、身体ごと扉を押した。
人ひとりが通れる幅まで動かしたところで、金具と石片を噛ませる。俺は室内へ身体を入れた。
円形の部屋だった。壁に沿って6本の水路が集まり、中央には腰の高さの石槽がある。上から落ちる水は、黒い砂と白い石の層を通ってから下の槽へ溜まっていた。水面は澄んでいる。
床に骨はない。ネームレスの影も見えない。
「端末は」
『左壁に1基。動力反応は微弱です』
先に退路を確かめる。入ってきた石扉が1つ。反対側の壁に、かがめば通れる低い穴がある。穴の奥から弱い風が来ていた。逃げ道は2つ。
俺は石槽の縁へ布を当て、水を吸わせた。手の甲へ1滴落とす。痛みも痺れもない。次に舌先へ触れた。金属に近い味がする。苦味は弱い。
「少量だけ飲む」
『摂取後の経過観察を推奨します』
右の掌へ水を溜め、1口飲んだ。冷たさが喉を通る。身体はもっと求めたが、続けては飲まない。
石槽から離れ、時間を置いた。腹痛はない。口の痺れも、呼吸の変化もない。毒分解Lv.2が毒を処理している感覚もなかった。
「飲める」
『現時点で急性反応なし。安全確定ではありません』
「分かってる」
2口目を飲み、それ以上は止めた。貼りついていた喉が、ようやく自分のものに戻った。
運ぶ容器を探す。水を入れていた筒は河で失った。残っている布だけでは、記録施設まで持ち帰れない。
石槽の下に、細長い筒が3本並んでいた。2本は割れている。1本だけ、上端の留め具が残っていた。引き抜くと、腕ほどの長さがある。内側を槽の水で何度も洗い、ひびがないことを確かめた。
「これを使う」
『材質不明。長期保存には検査が必要です』
「今日は戻る分だけだ」
筒へ水を入れ、留め具を閉じる。逆さにしても漏れない。腰布へ結んでから、左壁の端末を見た。
「動かせるか」
『水質管理記録のみ取得を試みます』
「名前は探すな」
『了解しました』
接続線が端末へ入る。壁に青い文字が浮かんだ。水量、濾過層、点検日。古い数字が縦に並ぶ。
『最終点検記録は912年前。それ以後も水量記録は継続していますが、記録者名欄が存在しません』
「壊れたのか」
『項目そのものが削除されています』
「また名前か」
『はい』
設備は動き続け、誰が点検したのかだけが消えている。
「この街は、名前を消してからも動いてた」
『記録上、その可能性があります』
端末の下部へ、簡単な地図が表示された。6本の水路と、今いる貯水槽。そこから各街区へ伸びる石管。そのうち3本は、途中で黒く塗られていた。
下の端では、西側の太い水路が1本だけ下へ折れ、『第11層』『第12層』と並ぶ表示の先で途切れていた。この街は、まだ下へ続いている。
「黒い場所は」
『閉鎖区画です。破損は灰色。黒は隔離閉鎖を示します』
閉鎖区画は北と東、それに記録施設の直下にある。俺たちが通った路地は、北と東の閉鎖区画の間を抜けていた。
「ネームレスか」
『可能性はあります。断定できません』
俺は地図を記録帳へ写した。シグが読み上げる距離と、石管の向きを合わせる。水路の下には、細い線が重なっていた。
「これは」
『水路点検用の保守路と推定します。巡回記録に保守路は含まれていません』
地上の通りより安全かもしれない。ただし、狭ければ逃げられない。ネームレスが端末や壁の線から出るなら、地下も安全とは限らなかった。
「入口は」
シグが地図を切り替える。円形の部屋の奥、風が来ている低い穴が、北側の保守路へ続いていた。
「入口だけ見る」
『休息場所へ戻る計画ではありませんでしたか』
「形と、通れるかだけだ」
『距離を指定してください』
「3歩」
『3歩を越えないことを要求します』
「分かった」
水の筒を腰へ結び直した。低い穴は高さ1メートルほどで、背負い枠をつけたままでは通れない。俺は中枢核を枠ごと下ろした。左腕では支えられず、右手で慎重に床へ置く。
「ここで待て」
『単独進入は非推奨です』
「3歩だけだ」
『その言葉を記録します』
小型刃を右手に持ち、穴へ入った。1歩、2歩、3歩。
保守路はすぐに高さを増した。立てるほどではないが、膝をつけば進める。右側に太い水管。左側に細い青線。床は乾いている。
10歩ほど先に格子扉が見えた。そこまでは行かない。約束どおり3歩目で止まり、戻ろうとした。
左壁の青線が点る。前方の格子へ、白い文字が浮かんだ。俺には読めない。
「シグ、見えるか」
『視覚共有機能はありません。形状を説明してください』
「縦線が2本。間に丸。下に横線」
返事まで間があった。
『区画番号ではありません。旧式の街区名表示に近似します』
「名前は」
『その形だけでは読解不能です』
文字の中央から、青い光が抜けた。残ったのは、削られた跡だった。人だけでなく、街区の名前まで消されている。
格子の向こうで、何かが石を踏んだ。1度。間を置いて、2度。俺の足音とは違う。自動兵の金属音でもない。
「戻る」
俺は後ろ向きに這い、低い穴から出た。中枢核を背負い枠へ戻し、帯を胸と腰へ締める。
『前方に異常を確認しましたか』
「名前を削られた格子。その奥に何かいる」
『生体反応を確認しましたか』
「見てない」
『確認せず退避した判断を支持します』
端末の地図へ戻る。今見た保守路は、北の閉鎖区画の下を通っていた。名前を失った街区。人の動きだけを残す影。記録者名のない点検記録。同じ原因かどうかは分からない。
俺は地図へ印をつけた。
『北保守路。入口から3歩先で高さが増す。約10歩先に格子。街区名は削除。奥に未知の足音。進入しない』
書き終え、水の筒を確かめる。漏れていない。目的は達成した。
ここへ来る前なら、足音の正体を確かめるまで進んだかもしれない。今は戻る。俺が死ねば、記録を残すだけで終わる。背中には、連れて帰るものがある。
貯水槽を出る前に、地図をもう1度見た。閉鎖区画は3つ。北、東、そして記録施設の直下。
「俺たちが休む場所の下も閉じてる」
『はい』
「戻ったら床を調べる」
『同意します』
石扉を通り、外側から閉じた。次に来た時のため、完全には閉めず、石片を1個挟んでおく。
帰りは同じ道を避けた。自動兵の巡回時刻は、もう信用できない。端末から写した地図を使い、建物の裏を回る細い路地を選ぶ。
青い壁線が、途中で途切れている。その先の路地には光がなかった。
俺は暗視Lv.1を使った。黒一色だった路地に、灰色の壁と崩れた石の縁が浮かぶ。色は分からない。それでも、足元の段差と、壁の線が切れた場所は見えた。
ネームレスは出ない。後ろから増える足音もない。それでも、30歩ごとに止まり、来た道を確認した。
記録施設近くの路地へ戻る。床へ並べた石が見えた。数は3個で合っている。向きが違った。
貯水槽を示していた2個が、記録施設の扉へ向け直されている。俺は足を止めた。
「動かしたか」
『私はあなたと共に移動していました』
「分かってる。確かめただけだ」
扉の下へ立てた細い石片も倒れている。外から押されたなら、室内へ落ちるはずだった。石片は路地側へ倒れていた。内側から扉が動いた。
俺は水の筒を腰から外し、壁際へ置いた。右手に小型刃を持つ。
記録施設の直下には、名前を消された閉鎖区画がある。
俺たちが留守の間に、何かが下から上がってきた。
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