失われた名の亡霊
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それでは、どうぞお楽しみください。
青い光が消えた後も、削られた空白だけが目に残った。黒い板には、もう何も表示されていない。それでも俺は、アルド・クロウの後ろで途切れていた線を何度も探していた。
『レイ』
シグの声で顔を上げた。
『右手の震えが増加しています。休息を推奨します』
「水が先だ」
喉が貼りついて、声がかすれた。震えの半分は、たぶん渇きだ。休んでも水は湧かない。
『先ほども同じ回答でした』
「今度は180メートルだけだ」
『帰路を含めれば、最短でも360メートルです』
俺は記録帳を腰布へ戻した。机の上の黒い板は暗い。シグが接続線を抜いても、青い光は戻らなかった。
扉の外へ出る前に、細い石片を入口へ立てた。誰かが扉を動かせば倒れる。街に生き物の気配がなくても、何も来ないとは決めない。
『休息の指示を受け入れていません』
「水を取ったら休む」
『順序に反対します』
「意見として聞いた」
西側貯水槽までは、3本の路地を抜ける。停止させた自動兵から得た巡回記録では、残る2体は広い通りを通る。俺は壁沿いの細い道を選び、青い照明が途切れる場所では暗視Lv.1を使った。
灰色の視界に、倒れた柱と閉じた窓が浮かぶ。建物の位置は整っているのに、人がいた痕跡だけが薄かった。骨も、争った跡も、捨てられた荷物もない。住んでいた者だけが消え、機械と建物が残っている。
「この街は、いつから無人だ」
『私の記録にはありません』
「さっきの端末は」
『年代情報の多くが破損しています。取得できたのは搬入順と一部の識別名です』
「アルド以外の名前は」
『213件を確認。完全な形で残っていた識別名は7件です』
「残りは削られたのか」
『破損と意図的な削除を区別できません』
答えを聞きながら、足元を見た。右足は布を巻いただけで、左足には古い履物が残っている。布の鈍い音と革底の硬い音が、交互に石畳へ落ちた。
3つ目の角を曲がった時、別の足音が重なった。俺の右足、左足。その少し後に、布を巻いた右足と同じ鈍い音がもう1つ。
止まる。遅れた足音も止まった。
俺は壁へ背を寄せ、来た道を振り返った。細い路地に誰もいない。建物の壁を縦に走る青い線が、途中の窓だけで揺れていた。
「何かいるか」
『前方、後方ともに生体反応なし。自動兵の駆動音も確認できません』
「魂反応は」
『検知範囲内にはありません』
「なら、今の音は何だ」
『不明です。音源を特定できません』
俺は来た道を10歩戻った。青い光が歪む窓の前で止まる。室内には、割れた板と壁へ寄せられた机しかない。
窓枠へ右手を置いた。青い光が、指の下へ集まる。室内の奥に、人の影が立った。
俺は鎌脚の小型刃を抜いた。影は動かない。顔も服もない。黒い輪郭の内側を、青い文字が絶えず流れていた。記録施設の端末で見た古い文字と、同じ形だった。
「シグ」
『映像ではありません。壁面設備から分離しています』
影が右手を上げた。俺が小型刃を構えると、影の手にも細長い刃が現れる。長さも、角度も同じだった。
「俺を見てる」
『動作を記録している可能性があります』
影が1歩出た。窓を抜ける。枠にも床にも、触れた音はない。
石畳へ立った影は、俺と同じ幅で足を開いた。左腕を少し下げ、右肩を胸より上へ動かさない。負傷まで真似ている。
俺は小型刃を下げた。影も下げる。右へ1歩動くと、影は正面から見た俺と同じ方向へ動いた。鏡ではない。俺の姿勢を、向かい側からそのままなぞっている。
「攻撃してくるか」
『判断材料が不足しています。距離を維持してください』
「近づけば分かる」
『非推奨です』
俺は2歩近づいた。影も2歩進む。残りは3歩。
影の胸を流れていた文字の1つが、中央で止まった。読めない形だった。背負い枠の中で、シグの接続線が動く。
『退避してください』
影が先に踏み込んだ。右手の刃が脇腹へ伸びる。速さも、俺が自動兵の懐へ入った時と同じだった。
俺は半歩下がり、小型刃で外から払った。手応えがない。刃は影の腕を抜けた。
次の瞬間、右脇腹へ冷たさが入った。布は切れていない。血も出ない。それでも、脚から力が抜けた。
路地が2つに見える。遠い水の中から、誰かが名前を呼んだ。
――アルド。
「違う」
声にした途端、影の顔へ線が入った。目と口の位置が作られ、俺に似た輪郭へ変わる。
影がもう1度刃を振った。左肩から右脇腹へ、斜めに下ろす動き。俺が鎌脚の小型刃を使う時と同じ癖だった。
後ろへ下がる。布を巻いた右足が、石畳の継ぎ目へ引っ掛かった。影の刃が胸を抜ける。冷たさが、身体の内側へ広がった。
灰鐘村、黒鐘養護院、奈落。場所の名前は分かる。だが、順番がつながらない。
俺はどこから来た。誰に落とされた。何のために下へ進んだ。答えの言葉だけが、別々の場所に浮いていた。
『レイ・クロウ』
シグが呼んだ。影の顔が、わずかに崩れる。
『あなたの識別名は、レイ・クロウです』
「記録を出せ」
俺は腰布へ右手を入れた。指が記録帳の端へ触れる。影も同じ動きをした。俺が帳面を抜くと、影の手にも黒い形が現れる。どちらが先に動いたのか、分からなくなった。
『現在位置、奈落第4大層第10層。同行開始から70日以上。私はあなたを記録しています』
「俺が、お前を運んだ」
『はい』
「中継所から」
『はい』
短く確かめるたびに、答えが返る。影が口を動かした。声はない。俺と同じ言葉を話しているように見えた。
『記録帳を開いてください。最後にあなたが書いた行です』
俺は帳面を開いた。濡れて波打った紙に、炭筆の黒い線で俺が書いた文字が並んでいる。影の帳面には、青い線しか流れていない。
俺は最後の行を声に出した。
『忘都の記録施設。800年以上前の形式。アルド・クロウの名を確認。他項目は削除。俺との関係は不明』
影の口も同じ形を作る。だが、そこに文字はない。
「次の行は」
『まだ書かれていません』
「なら、今書く」
炭筆を出した。右手が震えている。記録帳を感覚の薄い左前腕へ押しつけ、1文字ずつ書いた。
『第10層。西側貯水槽へ向かう途中、人型の影に遭遇。俺の動作を真似る。触れられると記憶の順番が乱れる』
影も書く動作をした。それでも、影の紙は空白のままだった。
「こいつは俺の記録を持ってない」
『一致します。私の記録とも照合できません』
「動きだけだ」
『はい』
俺は帳面を閉じず、前の頁を開いた。ミアから受け取った時の記録と、自分で書き足した行がある。失ったものも、そこに書いてあった。黒パンの味、薪の木肌の感触、薬草と薬湯の匂い、養護院の屋根を打つ雨音。
記録を読んでも、失った感覚は戻らない。それでも、そこに何があったかは分かる。影には、その事実さえなかった。
「俺はレイ・クロウだ」
影の口が同じ形を作る。
「18歳。灰鐘村で見つかって、黒鐘養護院で育った」
声にすると、切れていた場所の順番が戻る。
「ミアが待っている。俺は帰る」
影が1歩近づいた。今度は下がらない。
「お前は誰だ」
影の足が止まった。青い文字が、胸から顔へ上がる。アルド。削られた記号。それ以外にも、読めない形が幾つも重なった。
『背後の壁面端末が再起動しています』
シグの声が低くなる。俺は影から目を離さない。窓の奥で、壁の青い光が強くなっていた。
『表示を読み上げます。識別情報欠損。記録動作のみ残存。隔離対象――ネームレス』
「こいつの名前か」
『名称ではなく、分類である可能性があります』
ネームレスが首を傾けた。俺は動いていない。初めて、真似ではない動きをした。
次に、刃を逆手へ持ち替える。右肩を高く上げ、深く踏み込む構え。俺の動きではない。この街に残された、誰かの戦い方だ。
ネームレスは1歩で間合いへ入った。青い刃が喉へ伸びる。
俺は身体を沈めた。刃が頭上を通る。右肩は上がらない。受ければ、次の動きが止まる。
だから前へ出た。小型刃ではなく、開いた記録帳をネームレスの胸へ押しつける。触れた感触はない。それでも、紙の上の文字だけが青く光った。ネームレスの動きが止まる。
『レイ・クロウ』
「ここにいる」
『落下後、推定229日』
「記録した」
『同行者、シグ』
「背負ってる」
『目的、生存して地上へ帰還すること』
「ミアのところへ帰る」
シグと俺で、事実を1つずつ重ねた。ネームレスの胸を流れる文字が崩れていく。俺の構え、知らない誰かの刃、削られた名前。どれも1つの身体へ収まらず、黒い輪郭が揺れた。
こいつは俺を見て動く。なら、途中で変えた動きには遅れる。
俺は小型刃を逆手へ持ち替えた。ネームレスが真似ようとする。俺は途中で動きを変え、記録帳を閉じた。影の手だけが、逆手の構えを続ける。動きがずれた。
影は壁面設備から出てきた。動きの元は、窓の下で光っている青い板だ。
俺は、その板を右足で蹴った。板が石壁から浮く。もう1度、踵を当てる。青い板が外れ、壁の光が弱くなった。ネームレスの右腕が薄くなる。
『記録供給の低下を確認』
「端末から動きを取ってる」
『可能性が高いです』
俺は外れた板を拾った。裏側に、髪より細い青い線が何本も伸びている。小型刃を差し込み、まとめて切った。
窓の光が完全に消えた。
ネームレスは、刃を振り上げた姿勢で止まった。顔の線が消える。身体の中を流れていた文字が、1つずつ窓の奥へ戻っていく。
最後まで残ったのは名前ではない。俺が最初に小型刃を構えた時の、右手の形だった。それも薄れ、影は壁の染みのように崩れた。
通知は出ない。力の残滓もない。石畳には、何も残らなかった。
俺は壁へ背をつけた。脇腹の冷たさは消えている。傷もない。だが、場所と出来事の順番は、まだ少し揺れていた。
「レイ・クロウ」
『はい』
「確認しただけだ」
『記録します』
「しなくていい」
『すでに記録しました』
返事は変わらない。それで、呼吸が少し戻った。
俺は帳面を開き、さっき書いた行へ続けた。
『壁面端末から記録動作を得ていた。供給線を切断すると消失。討伐通知なし。分類表示はネームレス。名前ではない可能性。記録帳とシグで、名前、経歴、目的を照合し、混乱から戻った』
頁の端へ、自分の名前をもう1度書く。
『レイ・クロウ』
アルドではない。少なくとも、今ここにいる俺の名前はそれだ。
「貯水槽まで、あと」
『直線距離で92メートル。ただし、休息を推奨します』
「近くなった」
『混乱状態から回復した直後です』
「歩ける」
『歩行可能と探索続行可能は同義ではありません』
俺は右手を見た。震えが、さっきより強くなっている。喉の奥も、乾いたまま貼りついていた。
記録施設まで戻れば、同じ距離をもう1度来る必要がある。だが、このまま進めば、次に何か出た時に判断が遅れる。
「10分休む。その後、水を取る」
『修正案を支持します』
「お前が決めることじゃない」
『記録上、あなたは推奨を拒否した後で、同じ判断を採用する傾向があります』
「それも書くな」
『すでに記録されています』
俺は路地の角へ座った。記録帳は閉じず、膝の上に置く。
誰かの動きを真似る影がいる街では、記録が武器になった。同時に、名前を失った後に何が残るのかも見た。
青い光の消えた窓の奥で、別の黒い板が1度だけ明滅した。
そこには、今の俺がしていない動きが記録されていた。
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