忘都
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それでは、どうぞお楽しみください。
門を越えた途端、赤い河の音が消えた。岩壁が背後で閉じたわけではない。それでも、石段を数歩上がるだけで水音は遠ざかり、代わりに乾いた空気が頬へ触れた。
聞こえるのは、どこか高い場所から落ちる水滴と、背負い枠の中でシグが立てる小さな駆動音だけだった。その水滴の音に、喉が勝手に動いた。
水を入れていた筒は血流河で失った。戻れば赤い水はあるが、傷だらけの身体で飲めるように処理できるとは思えない。この街で水を見つけなければ、地上へ戻る道を探す前に、俺の方が動けなくなる。
俺は石畳へ右足を置いた。巻いた布の下で、裂けた足裏が痛む。左足には古い履物が残っているため、歩く音が左右で違った。3歩進んで止まると、乾いた石畳に俺の濡れた足跡だけが続いていた。
「空気は」
『呼吸可能です。微量の塵を検出。胞子および既知の毒性粒子は確認できません』
「水は」
『入口周辺に水源はありません』
正面には建物が並んでいた。地上で見た家より高い。黒い石壁へ縦長の窓が重なり、半分は内側から白い板で塞がれている。
屋根同士をつなぐ細い橋は途中で折れ、石畳へ垂れていた。道の中央には乾いた溝があり、建物の奥へ続いている。
空はない。街の上には、黒い天井があった。遠くの壁や柱へ埋め込まれた青白い線が、地下の街を薄く照らしている。
俺は入口の壁を振り返った。古い文字の下に、3本線の印が刻まれている。
「ここが、忘都か」
『入口表示は一致しています。ただし、私の保持記録に都市名はありません』
シグの声は変わらない。
「お前が造られた場所じゃないのか」
『回答不能。製造記録の一部が欠損しています』
知らない時と、答えられない時では言葉が違う。今のは、記録がないだけだ。
「なら、ここで探すしかないな」
『同意します』
俺は記録帳を開いた。濡れた紙の端が波打っている。炭筆の欠片で、門から見える建物と青い線を簡単に写した。
『落下後、推定229日。奈落第4大層第10層へ進入。表示名、忘都。乾いた石畳。青白い照明。呼吸可能』
書き終えてから、左腿を押した。落石を受けた場所には熱が残っている。
右肩は胸の高さより上へ動かず、左肘から先は感覚が薄い。指を曲げても、自分の手ではないようだった。河の主から得た力は、傷を消していない。
「水を探す。その後、休める場所だ」
『同意します。現在の負傷状態で、長距離の探索は推奨しません』
「分かってる」
『過去7回、同じ返答の後に推奨範囲を超過しています』
「記録しなくていい」
『すでに記録されています』
俺は道の中央にある溝へ近づいた。幅は1メートルほど。底は乾いているが、左右の壁へ黒い水跡が残っていた。
排水路か、街へ水を運ぶ溝だ。俺は水跡の濃い方へ進んだ。建物の間へ入る前に戻る門を記録帳へ描き、分岐ごとに石を1個ずつ、進んできた側へ寄せていく。
『目印の設置を確認』
「街は道が多い」
『記録上、適切な判断です』
「珍しいな」
『危険行動を伴わないためです』
十数歩先の角で、金属が擦れる音がした。
俺は壁へ背を寄せた。音は一定の間隔で近づいてくる。足音は重い。左右の差がなく、疲れによる乱れもない。
右手にあるのは、曲がりを戻した3本線の金具と小型刃だけだ。鉄杭はアビスクラーケンの死骸へ残してきた。俺は金具ではなく、小型刃を抜いた。
角から、人の形をしたものが現れた。俺より頭一つ高い。顔には目も口もなく、縦に1本の青い線だけが走っていた。
胴と両腕は金属板で覆われ、右腕の先には短い槍が固定されている。歩くたびに、関節の隙間から青い光が漏れた。魔物ではない。シグと同じ、機械だ。
青い線が俺へ向く。槍の先が上がった。
「知ってるか」
『同系統の古代自動兵と推定します。個体識別は不能です』
「止められるか」
『接続が必要です。正面胸部に保守端子を確認』
「触ればいいのか」
『私の接続線を3秒以上維持してください』
自動兵との距離は8歩。石畳の左右は建物の壁で、後ろには門へ戻る道がある。右に乾いた溝、左には倒れた石柱があった。逃げれば、今は追いつかれる。
自動兵の右脚が深く沈んだ。次の瞬間、8歩の距離が消えた。
槍が胸へ伸びる。呼吸も、視線も、攻撃の予兆にはならない。手掛かりは、踏み込む脚と槍の角度だけだった。
俺は左へ半歩ずれた。右前腕へ硬殻Lv.1を集め、灰色の殻へ槍の側面を当てる。受け止めはしない。殻の表面を滑らせ、軌道だけを脇へ外す。穂先が脇腹の布を裂いた。
自動兵は槍を引かなかった。伸ばしたまま左腕を振り、金属の拳を横から叩き込んでくる。
俺は倒れた石柱の陰へ入った。拳が柱の角を砕く。石片が頬を打ち、浅く皮膚を切った。
自動兵は痛みで止まらない。呼吸もなく、重心の揺れも小さい。人間や魔物と同じ場所を見ても、次の動きは読めなかった。
「端子は」
『胸部の青線直下。四角い外装板の継ぎ目から右へ2センチ』
「接続線は届くか」
『有効長、1.2メートル』
自動兵が石柱を回り込む。槍の間合いへ入る前に、俺は柱へ右足を置いた。巻いた布越しに、足裏の傷へ石の角が食い込む。
自動兵の槍が、下から上へ振られた。俺は上体を引く。穂先が顎の前を通った。
俺は左前腕を槍の柄へ掛けた。感覚は薄い。力を受けるのではなく、上がる方向へ腕を添えて軌道を広げる。
自動兵の右脇が開いた。その内側へ踏み込む。左脚で自動兵の右足を外から押し、胸部へ背負い枠をぶつけた。
『接続距離内』
中枢核から細い線が伸びた。線の先が胸部の隙間を探り、四角い板の下へ入る。
『接続開始。1』
自動兵の左腕が上がった。俺は頭を下げる。金属の手が、背負い枠の上端を掴んだ。
『2』
後ろへ引き剥がされる。右肩へ帯が食い込み、関節の奥が焼けた。俺は自動兵の胴へ右腕を回した。左腕は胸の前へ押しつけ、両脚で石畳を踏む。
『3。停止命令を送信』
自動兵の腕が止まった。槍の穂先が石畳へ落ち、金属音が響く。
俺はすぐに身体を離した。顔の青い線が消える。人型の機械は、片腕を上げた姿勢のまま動かなくなった。
『局所停止を確認』
「再起動は」
『条件不明です。安全は保証できません』
俺は距離を取り、呼吸を整えた。頬の血を拭う。傷は浅い。脇腹も布を切られただけで、皮膚までは届いていない。
視界の端に冷たい文字が出るか、待った。何も現れない。
「討伐にはならない」
『対象は機能停止しています。破壊されていません』
「それだけじゃない」
俺は、魔物を倒した後に見える表示を説明した。討伐吸収の完了、力の残滓、それから技能の候補だ。
『私はその表示を認識できません』
「分かってる」
『ただし、この自動兵に生体反応および魂反応はありません』
機械には、喰らうものがない。それはシグも同じなのかもしれない。俺は背負い枠へ手を触れた。青い光は消えずに残っている。
「お前にも魂反応はないのか」
『自己測定では、検出されません』
「そうか」
シグは記録し、意見を言う。魂があるかどうかを、それだけで決める必要はない。
俺は記録帳へ、確認した事実だけを書いた。
『人型の古代自動兵1体。シグが胸部へ接続し、機能停止。通知なし。力の残滓なし。生体反応、魂反応なし』
「同じものは何体いる」
『停止個体から巡回記録を取得します』
接続線が再び伸びた。青い光が、中枢核の表面を1度回る。
『直近7日分を確認。この区画を巡回する個体は3体』
「残り2体」
『現在位置は記録されていません。巡回経路は取得しました』
「広い道を通るのか」
『経路の大半は、広い道です』
石畳の先には3つの分かれ道があった。シグの指示で、残りの自動兵が通る広い道を避ける。乾いた溝と交差しない左の路地へ入り、街の奥ではなく入口に近い区画だけを調べた。
建物の扉は、ほとんど開かなかった。青い線が消えたもの、石に埋まったもの、触れると短い警告音だけを返すものもあった。
4つ目の建物で、シグが声を上げた。
『同型の保守端子を確認』
「開けられるか」
『接続を試行します』
扉脇の隙間へ接続線が入る。内部で何かが動く音はしたが、扉は上がらなかった。
『動力不足です。手動開放が必要です』
扉の下に、指2本分の隙間がある。俺は3本線の金具を差し込み、石片を重ねて少しずつ広げた。
右手で金具を引き、感覚の薄い左前腕は扉の下へ添える。右肩を胸より上へ持ち上げないよう、腰を落として身体ごと押した。
扉が軋んだ。床との隙間が1メートルほどになったところで、崩れた石を噛ませる。俺は横向きになり、室内へ入った。
中は外より暗い。俺は暗視Lv.1を使った。灰色の視界に、石の机が並んだ。壁際には細長い箱。床へ砕けた板と金属片が散らばっている。
足跡はない。魔物の糞も、住みついた跡もなかった。扉が閉じてから、長い間誰も入っていない。
『記録施設の可能性があります』
「読めるものは」
『端末の動力を確認します』
奥の机に、手のひらほどの黒い板がいくつも並んでいた。シグが順に接続する。1つ目は動かない。2つ目も反応しない。3つ目で、壁の青い線が弱く明滅した。
黒い板の上へ文字が浮かぶ。俺には読めない。
「何て書いてある」
『第10区画。外部搬入記録』
「探索隊の記録か」
『年代が一致しません。先行探索隊の補助記録より、少なくとも800年以上古い形式です』
シグが、残った文字を1行ずつ読み上げる。部品、水、薬品、人員。記録の多くは、数と移動先だけだった。
「水の保存場所は」
『西側貯水槽。ここから約180メートル。ただし、現在の水質と設備状態は不明です』
「経路を記録してくれ」
『記録します』
喉が鳴った。180メートル先に水があるかもしれない。それでも、すぐには向かわない。この部屋は入口が1つしかない。扉を落とせば、残りの自動兵が来ても時間を稼げる。
貯水槽を調べた後、ここを戻る場所にできる。俺は机の埃を払い、記録帳を置いた。
その時、黒い板の表示が切り替わった。
「今のは」
『検索記録です』
「お前が動かしたのか」
『いいえ。接続時、私の識別情報を端末が自動照合しました』
文字が次々に現れた。読み上げていたシグの声が止まる。
「読めないのか」
『読解可能です』
「なら読め」
返事まで、短い間があった。シグは息をしない。それでも、言葉が遅れる時は分かる。
『照合候補が1件あります』
「誰の」
『あなたの識別名ではありません』
黒い板の中央に、2つの語が残った。俺には古い文字の形しか見えない。シグが読み上げた。
『アルド・クロウ』
黒竜の幻が、俺を呼んだ名だった。奈落の上層で聞いた声が、耳の奥へ戻る。
『また忘れたのか、アルド』
あの時、竜はそう言った。俺は黒い板へ触れなかった。
「いつの記録だ」
『正確な年代は取得できません。記録形式から、800年以上前です』
「何をした」
『項目の大半が削除されています』
残っているのは名前だけだった。所属も、搬入した物も、ここへ来た理由もない。名前の前には欠けた記号があり、後ろには途中で切れた線が1本だけ伸びている。
「同じ姓だな」
『一致しています』
「俺と同じ人間か」
『判断できません』
「黒竜は俺をその名で呼んだ」
『発言記録と一致します。しかし、同一人物である証拠にはなりません』
分かっている。俺は18歳だ。800年前の人間と同じはずがない。それでも、削られた名前の最後にはクロウだけが残っている。
俺は記録帳の新しい行へ書いた。
『忘都の記録施設。800年以上前の形式。アルド・クロウの名を確認。他項目は削除。俺との関係は不明』
書いた文字を2度読んだ。シグが記録を重ねる。
『外部記録へ複製しました』
「端末が消えるかもしれないからか」
『保存状態が不安定です』
「俺の方もだろ」
返事は、すぐに来なかった。
『はい』
否定しない。俺は記録帳を閉じた。
まず水を探す。傷を洗う。扉を塞ぎ、眠れる場所を作る。名前を追うのは、その後だ。
立ち上がると、黒い板の光が弱くなった。アルド・クロウの文字だけが、最後まで残る。
消える直前、名前の後ろで途切れていた線が、1度だけ青く光った。
その先には、削られた空白があった。
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