血流河の主
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それでは、どうぞお楽しみください。
逆流が、俺の身体を下流へ押した。傷ついたアビスクラーケン成体は、残る2本の鰓で河全体を動かしている。上の鰓に刺さった鉄杭から黒い血が流れ、漏れ出す水が巨体の向きを片側へずらしていた。
それでも速い。成体が身体を捻るたび、白い柱の間まで赤い水が押し寄せた。ここで逃がせば、あれは傷を抱えたまま河のどこかで回復し、また水位を上げて空洞を沈めに来る。
息は長く続かない。左腿は落石を受けて熱を持ち、左肘は曲がらず、右肩は胸より上へ動かない。使えるのは両脚と右手、それに曲がった3本線の金具だけだった。俺は裸足の右足を川底へ下ろした。尖った石が皮膚へ食い込む。
水流感知Lv.1へ、3つの強い震えが入った。右、川底、正面。どれも触手だ。
俺は中央の白い柱へ身体を寄せた。右から来た1本が、俺を追って曲がる。直前で柱の裏へ回ると、黒い触手が白い石へ衝突した。川底を這う2本目は、右足を上げて下へ通す。正面の3本目だけは避け切れなかった。
触手が脇腹へ巻きつき、塞がりかけた傷の上から締め上げる。俺は息を吐き、腹を細くした。できた隙間へ3本線の金具を差し込む。触手の表面には、薄い皮が重なる継ぎ目があった。金具の先を入れ、横へ引く。
黒い液が水へ滲み、触手の力が緩んだ。俺は身体を抜き、柱の裏へ回った。
成体の口が開く。周囲の水が、その口へ向かって集まり始めた。足を川底につけても耐えられない。身体が柱の横から引き出される。
俺は金具を柱の溝へ差し込んだ。3本線の印と同じ幅の溝だった。金具が途中で引っ掛かり、右手を置く場所ができる。
吸い込みへ耐える。右肩が引かれ、関節の奥で熱が走った。左腕は腹へ固定したまま、両脚で柱を挟む。成体の頭が近づいてきた。白い口の上で、鉄杭が揺れている。
届くまで待つ。今飛びつけば、触手に払われる。遅ければ、口へ入る。
成体の頭が1度沈んだ。上の鰓から漏れる流れが、足先へ当たる。俺は金具から手を離し、柱を蹴った。右手を鉄杭へ伸ばす。指が後端へ掛かった。
成体が潜る。俺も水面から引き込まれた。
鉄杭を握ったまま、頭の後ろへ貼りつく。残る2本の鰓が、左右で開閉していた。同じ速さではない。右が先に開き、左が遅れて水を吐く。傷ついた上からも水が漏れ、3つの流れが揃わない。
成体の頭が左へ傾いた。次に右が開けば、鉄杭の後端が白い柱へ向く。
俺は柄を放した。
右の鰓が水を押す。成体自身の速さで頭が傾き、鉄杭の後端が柱へ当たった。鈍い震えが右足まで届く。杭が上の鰓の奥へ押し込まれ、白い膜が潰れて黒い血が噴いた。
成体が全身を反らせた。背から伸びる触手が、一斉に広がる。1本が胸へ当たった。息が抜ける。身体が頭の後ろから離れ、水面が遠ざかった。
俺は右手で胸を押さえた。骨は折れていない。だが、呼吸が戻らない。
成体は残る2本の鰓を大きく開いた。水が頭の後ろへ集まり、俺の身体まで引き寄せる。逃げる流れではない。成体へ戻される流れだ。
俺は逆らわず、右手の金具を下の鰓へ向けた。短い金具では、膜の中央まで届かない。縁なら切れる。
触手が左前腕へ巻きついた。動かない腕を掴み、俺を頭から引き剥がそうとする。俺は身体の力を抜いた。触手が引く方向へ肩を回し、金具の先だけを鰓の縁へ残す。
身体が後ろへ引かれた。その力で、金具が白い膜を横へ走った。黒い血が帯のように広がり、下の鰓が開いたまま戻らなくなった。
水の動きが崩れた。上は鉄杭で潰れ、下は横に裂けている。残る中央だけが水を吐いた。成体の頭が大きく沈む。片側の流れだけが強くなり、巨体が回転した。
俺を掴んでいた触手まで引かれ、左腕が背中側へ捻られる。指先の感覚が消えた。俺は金具を口に咥え、右手で触手を押した。外す力はない。
成体の頭が白い柱へ衝突した。石が割れ、欠片が水中へ散る。触手の締めつけが一瞬緩んだ。俺は左腕を抜き、川底へ落ちた。砂へ右膝をつく。
息がない。胸を打たれてから、ほとんど吸えていない。水面へ上がれば呼吸できる。
だが、成体は触手で川底を掴み、向きを戻そうとしていた。残る中央の鰓が閉じる。次に開けば、また水を押して逃げる。今を逃せば、鉄杭を抜かれるかもしれない。
俺は川底を蹴った。左腿が曲がり、身体が沈みかける。右足で補い、成体の頭へ近づいた。
触手が2本来る。1本目は砂を蹴り上げ、目の前を濁らせた。見えなくても、水の動きは分かる。水流感知Lv.1で、左から来る強い筋だけを拾った。身体を沈める。触手が頭上を通った。
2本目は背中へ当たった。前へ押された勢いのまま、成体の最後の鰓へ右手を伸ばす。金具を膜の縁へ押し込む。短い。先端が滑り、硬い皮膚へ当たった。
成体が頭を振る。俺の身体が砂へ叩きつけられた。口から空気が漏れ、残っていた息まで消える。
左肘は動かない。右肩も上がらない。右手だけでは、金具を膜の奥へ入れられない。
俺は金具を握ったまま、両脚を成体の頭へ当てた。裸足の右足で皮膚の窪みを探し、左足は傷ついた上の鰓の縁へ置く。蹴るのではなく、身体を支える。
成体の中央の鰓が開いた。大量の水が吸い込まれる。だが、潰れた上と裂けた下から漏れ、前へ進む力にはならない。俺の身体だけが膜へ引かれた。その流れを使い、金具の先を押し込む。
白い膜へ入った。
成体が触手を振る。背中を打たれる前に、俺は身体を横へ倒した。右腕と胴の重さが金具へ掛かる。膜が裂けた。中央の鰓から黒い血が噴き、水の流れが途切れる。
成体の口が開いた。俺の身体は吸い込まれない。顎だけが2度動き、白い牙が何もない水を噛んだ。川底を掴んでいた触手が外れる。1本、次に2本。残りも力を失い、砂の上へ落ちた。
巨体が横向きに沈んだ。
俺は離れなかった。成体の頭へ右足を掛け、裂けた中央の鰓へ金具を入れたまま、動きが消えるのを待つ。触手の先が最後に1度だけ縮んだ。そして、流れが止まった。
冷たい文字が視界へ浮かぶ。
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《討伐結果》
討伐対象:アビスクラーケン成体 1体
討伐吸収が完了しました。
幼体2体分の微弱な力の残滓を統合しました。
能力値が上昇しました。
生命:39 → 44
筋力:36 → 41
耐久:53 → 60
敏捷:57 → 65
魔力:21 → 24
知覚:60 → 67
精神:42 → 47
獲得可能な技能はありません。
忘却値に変化はありません。
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冷たい力が身体の奥へ入った。止まりかけていた右脚が、もう1度川底を蹴った。だが、左肘の感覚は戻らない。右肩も上がらず、左腿の痛みも残っている。増えた力は、傷を消さなかった。
肺が空気を求めて痙攣した。俺は成体から離れ、白い柱へ向かって泳いだ。右手と両脚だけを動かす。水面は遠い。視界の端が暗くなり、柱の白さまで薄れていく。
川底から上へ向かう流れを探した。死んだ成体の下から、押し出された水がゆっくり上がっている。俺はその流れへ身体を乗せた。
頭が水面を割る。空気を吸おうとして、最初は咳しか出なかった。白い柱へ右腕を回し、身体を支える。2度目でようやく息が入った。胸が痛む。それでも、呼吸は続いた。
俺は柱の間を抜け、細水路へ戻った。水位は下がり始めている。空洞へ押し込まれた赤い水が、ゆっくり河へ流れ出していた。
「シグ」
返事はすぐに来た。
『帰還を確認』
空洞の高い壁穴で、中枢核の青い光が点いている。水面との間には、指2本分しか残っていなかった。
俺は段へ上がり、帯の結び目を外した。左腕が使えず、右肩も上がらない。歯で帯を緩め、中枢核を背負い枠ごと乾いた床へ下ろす。青い光が、俺の身体を上から下へなぞった。
『左肘の動作不能。右肩の可動域低下。左腿打撲。右足底部に複数の裂傷。胸部打撲。脇腹から再出血』
「生きてる」
『生存と正常は同一ではありません』
俺は答えず、濡れた前髪を右手で払った。
「記録は」
『継続しています。細水路への誘導開始から討伐まで、18分41秒』
「長かったな」
『主観時間は記録できません』
俺は壁へ背を預けた。呼吸が戻るまで、シグも話さなかった。
先に右足を洗った。小さな石を抜き、裂けた場所へ布を巻く。次に脇腹を押さえ、左腿を確かめる。骨はずれていない。左肘は腫れていたが、指はわずかに動いた。右肩は胸の高さまでしか上がらず、左肘から先の感覚も薄い。
「まだ治らない」
『戦闘前に警告しました』
「そうだな」
『記録上、あなたが認めたのは初めてです』
「そこまで書くな」
『すでに記録しました』
俺は息を吐き、濡れた記録帳を開いた。紙は水を吸って波打っていた。
『アビスクラーケン成体を討伐。能力値上昇。記憶の欠損なし。左肘、右肩、左腿、右足、胸、脇腹を負傷』
文字を書き終える頃には、河の流れが元へ戻っていた。上流から下流へ。白い柱の間だけ、水位が大きく下がっている。中央の柱の下部に、3本線の溝と四角い窪みが現れた。
俺は3本線の金具を見た。成体の鰓を裂いた時に曲がっている。石へ当て、右足で踏む。右手で少しずつ引き、溝へ入る形まで戻した。
『使用目的を確認します』
「印が同じだ」
『形状の一致は確認できます。作動の保証はありません』
「試すだけだ」
金具を四角い窪みへ差し込む。途中で止まった。右へ回す。
中央の柱へ青い光が走った。次に左の柱。最後に右の柱へ光が移る。3本の柱が低く震えた。河に面した岩壁から、石が擦れる音がする。
俺は中枢核を背負い枠へ固定した。胸と腰の帯を締め、右肩側だけを緩める。
「崩れるなら言え」
『崩落ではありません。壁が横へ移動しています』
岩壁に縦の隙間が生まれた。乾いた空気が、赤い河の上へ流れ出す。壁は人ひとりが通れる幅まで開き、止まった。奥には、上へ続く石段があった。
俺は金具を窪みから抜いた。柱の光は消えたが、壁は閉じない。
石段を上がる。右足の傷が一段ごとに開く。左腿へ体重を掛けすぎないよう、壁へ右手をついた。
『段数の記録を開始しますか』
「いらない。足元だけ見てろ」
『了解しました』
階段の先で、空間が広がった。窓の穴。崩れた屋根。石畳の道。地下に、街があった。
建物の壁と遠くの柱には、青白い線が通っている。明かりのない窓が、何層にも重なっていた。空はない。街の上には、黒い天井が続いている。
入口の壁へ、古い文字が刻まれていた。俺には読めない。
「何て書いてある」
『照合します』
シグの青い光が文字をなぞった。短い間の後、答える。
『忘都』
俺はもう1度、その文字を見上げた。
「それだけか」
『照合できたのは表示名のみです』
俺は記録帳を開いた。
『アビスクラーケン成体を討伐。白い柱3本。3本線の金具で門が開いた。門の先に地下都市。表示名、忘都』
能力値の変化も、その下へ書いた。最後に、壁へ刻んできた日数を確かめる。
「落ちてから何日だ」
『推定229日。誤差11日』
229日。紙へ書けば、数字3つで終わった。その間に失った味と匂いと感触と音は、数字には残らない。
俺は記録帳の表紙を閉じた。
「行くぞ」
『負傷状態での探索範囲を制限してください』
「水と休める場所だけだ」
『過去の記録と照合し、限定的に同意します』
赤い河へ背を向ける。背負い枠の中で、青い光が消えずに残っていた。
俺とシグは、奈落第4大層へ入った。
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