呑まれる
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それでは、どうぞお楽しみください。
アビスクラーケン成体の頭が、細水路へ入ってきた。白い顎が左右の壁を削り、石片が赤い水へ落ちて俺の足元を流れていく。
俺は入口から6歩目で待っている。触手が届くのは5歩目まで。突起へ結んだ幼体の死骸は、成体の口から2歩先にある。俺までは、あと4歩。
頭の後ろで開く3本の裂け目、鰓は、まだ水路の外だ。あれが入口まで来なければ、鉄杭は届かない。死骸だけ食われて戻られれば、次の餌はない。
成体が口を開いた。水路の水が河側へ引かれ、幼体の死骸が浮いて縄が張る。
1度目は、結び目が持った。次の吸い込みで縄が石へ擦れ、切れた。
死骸が白い口へ消える。骨の砕ける震えが水と床を通して、両脚へ届いた。頭はさらに入ってくる。だが、3本の鰓はまだ外にある。
俺は右脇へ挟んだ鉄杭を外し、先端で水面を叩いた。1度。間を置いて、もう1度。
成体が死骸を噛むのをやめた。目のない頭が音へ向き、白い口がこちらへ開く。
『頭部、進入を継続。触手を確認』
空洞に固定した中枢核から、シグの声が届いた。
「数は」
『水路内に2。後方は視認できません』
触手が壁沿いを這ってきた。最初の1本は左の石を探り、もう1本は水中をまっすぐ伸びて俺の脇腹を狙っている。
俺は左へ半歩ずれた。触手の先が布を掠める。塞がりかけていた傷が引かれ、熱いものが水へ滲んだ。血に反応して、1本目まで向きを変えた。
『触手先端、5歩目へ到達』
「記録どおりだ」
『以降は未確認です』
俺は6歩目へ下がり、腰の縄を右側の突起へ回した。引けば身体を支え、手を離せばすぐ外れる結び方にしてある。
成体の頭が水路の半分を塞いだ。まだ鰓は見えない。このまま口だけを入れて戻られれば、ここまでの準備がすべて無駄になる。
俺は鉄杭の先で左手の布を破った。練習で裂けた掌から、赤い筋が水へ落ちる。
『出血の増加を確認』
「餌が足りない」
『追加の自傷を推奨しません』
「もうやった」
掌を水へ浸し、鉄杭で床を叩く。
成体が前へ出た。顎が壁へ当たり、白い皮膚が左右から押される。それでも頭は止まらない。
水位が、俺の足首から脛へ上がった。3本の鰓のうち、上の裂け目だけが入口から見えた。まだ遠い。
「あと何歩だ」
『頭部先端まで2歩。上部の裂け目まで4歩』
触手の先は俺の手前で水を掻いている。5歩より先へは届かない。だが、口は違う。
成体が顎を大きく開いた。
水が一気に河側へ引かれ、腰の縄が張る。結び目が腹へ食い込み、身体が0.5歩ずつ前へ滑った。
俺は鉄杭を床の突起へ横向きに掛け、左手へ硬殻Lv.1を集めた。灰色の殻で杭を握り、流れへ耐える。右肩は上がらない。右腕を胴へ押しつけ、脇だけで杭の後端を支えた。
吸い込みが強くなる。左足が滑った。
縄が腰からずれ、身体が前へ引かれる。鉄杭は突起へ残ったまま、俺の左手だけが柄を滑った。
足首が口へ入った。白い牙が左右に並んでいる。入口の牙は長く、奥へ行くほど短い。
右足を壁へ当てた。濡れた石を蹴っても、吸い込みに負けて外れる。左膝まで呑まれた。
『レイ、腰部固定が外れます』
「見えてる」
『後退してください』
「今、下がれない」
顎が閉じ始めた。長い牙を避けるには、外へ逃げるより奥へ寄る方が早い。
俺は右足を下顎の内側へ置き、左足を上顎の縁へ当てて両脚を広げた。右の履物が牙へ引っ掛かり、足だけが抜ける。裸足になった右足を、短い奥歯の根元へ置き直した。
顎が狭まる。左膝の横を牙が擦り、布を裂いた。
俺は身体を左端へ滑らせた。口の中央を外れ、壁と顎の間にできた細い流れへ乗る。頭が水路へ入った分だけ、水は横へ逃げている。
水流感知Lv.1で、最も弱い吸い込みだけを選んだ。そこへ左脚を抜く。
顎が閉じた。失った履物が牙の間で潰れ、白い皮と布が河側へ流れた。
俺は水路の床へ転がった。
頭が奥まで入ったことで、3本の鰓が入口へ並んでいた。届く。
突起に掛けていた鉄杭を外す。
「上が開く時を言え」
『上部、閉鎖。中央、開放。下部、開放』
成体が頭を振る。狭い水路では曲がれない。白い顎が左右の壁を叩き、天井から石の粉が落ちた。
2本の触手が戻ってくる。1本目を右へ避けた。2本目が背中を打った。
胸から床へ落ち、息が抜ける。鉄杭の先が石へ当たり、左手から離れかけた。俺は柄へ腕を巻きつけた。
『上部、開放を開始』
右脇へ鉄杭の後端を挟み、左手で先端を支えて白い膜へ向ける。右肩では押せない。右足を床へ置き、左膝を立て、腰と背中を一緒に前へ出した。
杭の先が上の鰓へ当たる。膜がへこみ、滑った。
成体が後退しようと頭を引く。触手が鉄杭へ巻きつき、俺から奪うように河側へ引いた。
その力を使う。左手で先端の向きだけを変えた。
杭が白い膜へ突き刺さった。黒い血が水中へ噴く。
成体が頭を振った。水路全体が揺れ、鉄杭が傷口の中で横へ倒れる。裂け目が杭の太さより広く開いた。
俺は左腕ごと壁へ叩きつけられた。肘の骨が石へ当たる。手は鉄杭を握っているはずなのに、指の感触が薄い。
『左腕の動作低下を確認』
「まだ動く」
『保持力が低下しています』
上の鰓が閉じようとした。刺さった鉄杭が膜の縁へ挟まり、閉じ切らない。傷口から水が漏れ、黒い血と一緒に水路へ流れ込む。
成体は逃げなかった。残る2本の鰓を大きく開き、さらに奥へ頭を押し込んでくる。
白い口が、俺の正面で開いた。餌ではない。今度は俺を呑むためだ。
腰の縄は外れている。左腕は杭へ伸ばしても力が入らない。俺は鉄杭から手を放し、水路の奥へ這った。
口が水を吸う。床の突起へ右手を掛けた。右肩が引かれ、関節の奥で何かが擦れる。
次の突起へ左腕を伸ばす。指が閉じない。手首を引っ掛け、身体を支えた。
吸い込みが背中を引く。腹が床から浮き、両脚が口へ向いた。
「シグ、距離」
『口部まで1.5歩。高床まで2歩』
近い。俺は右手を次の突起へ移した。
傷ついた上の鰓から、水が横へ漏れている。残る2本と流れが揃わず、成体の頭が左壁へ傾いた。白い顎が石へ食い込み、吸い込みが一瞬弱くなる。
その間に両脚を床へ下ろし、奥へ蹴った。高くなった床へ、左肩から乗り上げる。
直後、成体の頭が壁へぶつかった。天井から石が落ちる。大きな欠片が左腿を打ち、膝から力が抜けて、俺は高床の縁へ倒れた。
『左脚、動作低下』
「折れてない」
『判定できません』
成体の3本の鰓が同時に開いた。傷ついた上だけは、鉄杭に塞がれて半分しか動かない。残る2本が大きく膨らんだ。
水路の水が止まった。
次の瞬間、流れが逆向きになった。河から空洞へ、水が押し込まれてくる。成体は口で吸うのをやめ、鰓から水を吐いていた。
膝下だった水位が腰まで上がる。さらに1度押し込まれ、胸へ届いた。俺の身体が高床から剥がれ、奥へ飛ばされる。背中が石へ当たり、息が止まった。
赤い水が空洞へ溢れ込んだ。
『水位上昇。中枢核の退避は実行不能』
シグの声が近い。
俺は水面へ顔を出した。空洞の高い段へ固定した中枢核は、まだ水の上にある。だが、水位は一段下まで来ていた。
「もっと上へ移れないか」
『移動機能はありません』
成体を見る。狭い水路から頭を抜こうとしていた。鉄杭は上の鰓へ刺さったまま、壁へ擦れている。傷口から漏れる流れで、頭はまっすぐ下がれない。それでも、少しずつ河へ戻っていく。
逃がせば、同じ水路へは二度と入らない。追えば、シグが沈む。
俺は成体へ背を向け、空洞の奥へ泳いだ。
『河の主が離脱を開始しました』
「先にお前だ」
『私の保全より、あなたの退避を推奨します』
「今さら変えるな」
高い段へ右手を掛けた。左肘は曲がらない。右肩も胸より上へ上げられず、身体を持ち上げる力が足りない。
壁へ右足を当てる。裸足の裏がざらついた石を捉えた。蹴り上がり、段へ腹を載せる。
中枢核を固定していた帯を外した。さらに上に、腕が入るほどの壁穴がある。
帯を投げても届かない。右手で端を持ち、左手首へ1度巻く。壁へ背を押しつけ、痛む右肩を少しずつ上げた。
指先が壁穴へ届く。帯を押し込む。反対側から引き出すには、もう片方の手が要る。左肘は動かない。
俺は帯を歯で咥え、首を傾けて穴の下へ引いた。右手へ持ち替え、輪を作る。
水位が段の縁を越えた。青い光へ赤い水が映る。
「外装まで、あと」
『8センチ』
中枢核を背負い枠ごと持ち上げた。右肩へ重さが掛かり、腕が落ちかける。左前腕を枠の下へ差し込んだ。肘は使えなくても、骨で支えることはできる。
壁穴へ通した帯を締め、歯で端を引いて結び目を作った。
中枢核が一段上へ吊り上がった。水面との間に、手のひら1枚分の隙間ができる。
『浸水回避を確認』
「次はない」
『河の主が水路から離脱します』
俺は段へ座り、動かない左腕を腹へ寄せた。水路の向こうで、巨大な頭が河へ抜けていく。
ここまで追い込んだ。上の鰓には鉄杭が残っている。今なら、広い場所でも動きが傾く。
だが、左肘は使えず、右肩も悪化した。左腿には石が当たり、右足の履物もない。
『追跡を推奨しません』
「ここで止めないと戻ってくる」
『戻るまでに退避経路を探せます』
「食料がない」
『交戦すれば、生存時間はさらに短くなります』
「今なら傷がある」
『あなたにもあります』
俺は中枢核へ右手を置いた。青い光は揺れず、こちらを向いている。
「それは命令か」
『意見です』
「なら、聞いた」
『従うとは記録できません』
「戻ったら好きに書け」
『帰還を条件として記録します』
成体の流れが水路から遠ざかる。
このまま待てば、傷を確かめる時間はある。同時に、あれが鉄杭へ慣れる時間も与える。
俺は腰から3本線の金具を抜いた。曲がった先を石へ当て、まだ使えることを確かめる。
空洞へ流れ込んだ水は、ゆっくり水路へ戻り始めていた。成体が完全に抜け、河側へ向かう流れが強くなる。
「記録を続けろ」
『レイ』
「戻る」
返事を待たず、俺は段から水へ入った。
左腕を腹へ固定し、右手と両脚だけで逆流へ進む。細水路の壁を蹴るたび、裸足の右足に石が食い込んだ。
水流感知Lv.1で、傷ついた成体が残す乱れだけを追う。上の鰓から漏れる水が、まっすぐな流れへ片側だけの揺れを作っている。見失わない。
水路の出口で、流れが身体を掴んだ。河へ吐き出される。白い柱が横へ飛び、上下の感覚が入れ替わった。
俺は3本線の金具を握ったまま、右足で川底を探した。指先が石へ触れる。身体を起こす。
傷ついたアビスクラーケン成体は、広い河の中央で向きを変えていた。
上の鰓には、鉄杭が刺さったままだった。
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