骨の筏
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それでは、どうぞお楽しみください。
赤い川の岩棚で、43日を過ごした。
対岸へ渡る道は、まだない。干した魚とヒルは、合わせて3日分しか残っていなかった。これが尽きる前に川を越えなければ、俺はこの岩棚で干上がる。
『乾燥させた魚が2日分。ヒルが1日分。菌木は食料に適しません』
「聞いてない」
『摂食を検討していたと判断しました』
「前に試して、半日動けなかった。もう食べない」
『判断の改善を記録します』
シグがいなければ、日数も正確には分からなかった。眠る前に壁へ傷を刻んでも、意識を失った時間までは数えられない。数字を聞いても地上までの距離は縮まらないから、俺は削っていた菌木の板を膝へ載せ直した。
岩棚には、赤い水が届かない窪みがあった。上流の亀裂から透明な水を汲み、ブラインドイールの巡回が遠い間だけ魚とヒルを捕った。どちらも生では腹を壊す。薄く切って熱した石で焼き、少量ずつ食べて毒分解Lv.2へ任せた。一度に詰め込めば、それでも腹の奥が焼けた。
右肩は、胸の高さまでなら上がるようになった。頭上へ伸ばすと関節の奥が固まり、指まで痺れる。左腿の傷は塞がったが、長く水へ入れると引きつった。脇腹の裂け目も薄い皮で閉じただけで、身体を捻れば痛む。それでも、43日前よりは動ける。
中枢核を背負う枠も作り直した。肩へ掛かっていた重さを、胸と腰へ逃がす形だ。試しに背負い、岩棚を端まで歩く。
『右肩への荷重、初期比38%減少』
「まだ重い」
『私の重量は変化していません』
「軽くしろとは言ってない」
『負荷への不満と記録します』
対岸には、四角く切られた石の縁が見えていた。自然に割れた岩ではない。水面から同じ高さで横へ続き、その奥に暗い穴がある。上流と下流を調べても、歩いて回る道はなかった。泳げば届かない距離ではないが、中枢核を背負ったままでは沈む。ブラインドイールを避けながら片腕で泳ぎ切るのも無理だった。
渡るものが要る。
菌木だけでは浮力が足りなかった。乾かした幹を3本束ねても、片足を載せれば半分まで沈む。
川下の岩溝には、人の骨が溜まっていた。古い。肉も布も残っていない。水に磨かれた長い骨だけが、菌木の根へ引っ掛かっている。俺は使えそうな骨を拾って岩棚へ並べ、それから頭を下げた。
「借りる」
『発言を記録します』
「そこは記録しなくていい。俺が覚えておけばいい」
『あなたの記憶は欠損します』
手が止まった。シグの青い光は、骨ではなく俺へ向いていた。
「なら、書け」
『了解』
長い骨を菌木の両側へ渡し、肋骨で隙間を埋めた。濡らした繊維を何重にも巻き、乾かして締める。筏の中央には中枢核を固定する枠を作った。結び目を引けば、枠ごと外せる。
『私の投棄を想定しています』
「沈んだ時だけだ。俺まで沈むよりいい」
『反対します』
繊維を引いていた手を止めた。
「命令か」
『意見です』
シグは施設の命令と記録を優先する。危険を警告することはあっても、俺の選択へ自分の意見を挟んだことはなかった。
「俺が死ねば、どちらにしても終わる」
『私を失っても、あなたが生存する可能性は残ります。それでも反対します』
俺は結び目を1つ増やした。引けば外れるが、水へ落ちただけでは解けない。
「分かった。俺がまだ筏に掴まっていられる間は、先には外さない」
『条件付き合意を記録します。あなたが条件を狭く解釈するためです』
否定はできなかった。
筏は人ひとり分より少し長く、横幅は肩を広げた程度しかない。身体を乗せれば骨の半分まで水へ沈んだが、底には着かない。
対岸までの流れは、43日かけて調べてあった。表面の赤い水は下流へ速い。だが、身体を深く沈めて水流感知Lv.1を使うと、川底近くには対岸へ押す流れがある。すべての震えを拾えば頭が傾くから、近い流れ、強い流れ、自分へ向かう流れだけを残す。
左足を水へ入れ、下から斜めに上がる流れを探った。
「今だ」
筏を河へ出した。すぐに下流へ引かれる。俺は腹を伏せ、長い骨を棒代わりにして深く沈めた。棒の先が下層の流れへ入り、筏の向きが変わる。目指す石縁より上流から出た分で、流される距離を埋められる。
『進行方向、目標より左へ移動』
「分かってる」
骨の棒を少し浅くし、向きを戻す。右肩は使わない。左腕と両脚で姿勢を保ち、足先から伝わる流れだけで舵を取った。
中ほどまで進んだ時、右後方の水が細かく震えた。1つ。少し離れて、もう1つ。
『右後方、水面に2体』
ブラインドイールの幼体だった。成体より短いが、筏の骨を噛み切るには十分な牙がある。先の1体が筏の右へ回り、後ろの1体は俺が水へ入れている左足を追っている。
用意していた骨片へ魚の血を塗り、上流側へ投げた。後ろの1体がそちらへ向きを変える。先の1体は変えない。
筏の右へ白い頭が上がる。口が開く前に、周囲の水が引かれた。俺は骨の棒を横へ倒し、上顎へ当てた。頭は外へ逸れたが、牙は棒を滑り、張り出した肋骨を噛み砕いた。
右側が沈む。中枢核の枠が傾き、青い光が水面へ近づいた。俺は左脚を流れの強い方へ入れ、身体を反対側へ倒して傾きを止めた。
『右側の浮力、低下。幼体が再接近します』
最初の1体が下流へ回っていた。追わせれば、対岸へ着く前にもう一度噛まれる。
俺は折れた肋骨を引き抜き、自分の脇腹へ押し当てた。薄く塞がった傷が開き、骨へ血がつく。
『自傷を確認。傷の再開放を推奨しません』
「餌だ。今は止めるな」
血のついた骨を、今度は下流へ投げた。2体がそちらへ向きを変え、筏から離れる。俺は骨の棒を深く沈め、下層の流れを強く捉えた。対岸の石縁まで、残りは十数メートルだった。
その時、足の下から広い水の動きが上がってきた。
幼体の細い震えとは違う。川底そのものが持ち上がるような、重い流れだった。近い。強い。筏へ向かっている。
「下にいる」
水面が膨らんだ。筏の真下を黒い影が横切る。見えている部分だけで、筏より広かった。
俺は中枢核を結んだ縄へ左腕を回した。次の瞬間、影の背が筏を水面から持ち上げた。濡れた骨同士が軋み、右側の結び目が1つ切れる。落ちた衝撃で右肩が外へ引かれ、息が詰まった。それでも縄は離さなかった。
足元の水が四方から引いた。筏の下で、大きな口が開いている。円形の縁に白い突起が並び、奥は暗くて底が見えない。
俺は縄を切り、中枢核を枠から外して胸へ抱えた。
『合意違反』
「投げてない」
白い口が閉じた。骨と菌木がまとめて噛み砕かれ、干した魚もヒルも一緒に沈んでいく。俺とシグは赤い水へ落ちた。
核を抱えたままでは泳げない。沈みながら背負い枠を引き寄せ、核を押し込んで胸と腰の帯を締めた。右肩側の帯まで引かれ、関節の奥に熱が走る。緩める時間はなかった。
水面下で巨体が旋回した。目は見えない。頭の後ろに3本の裂け目があり、開閉するたびに水を吸っている。背からは細長いものが何本も伸びていた。
その1本が左脚へ巻きついた。締めつけられる前に、膝下へ硬殻を集める。灰色の殻が力を受け止めたが、脚ごと下へ引かれた。
俺は腰の金具を抜いた。古い施設で拾った、3本線の刻まれた破片だ。触手と殻の間へ差し込んで表面を切ると、黒い液が広がって触手が緩んだ。左脚を抜き、上へ蹴る。
『前方。対岸側へ流れを確認』
水の中でも、シグの外部感知器は短い距離なら使えた。足先には、巨体の旋回、切れた触手、沈む骨、逃げる幼体の流れが重なっている。全部を追えば方向を失う。俺は対岸へ抜ける流れだけを選び、身体を横にしてそこへ乗った。
巨体は下流へ進み、弧を描いて上流側から戻ってくる。正面から追わず、川の流れを使って回り込み、獲物を待つ狩り方らしい。
『後方から再接近』
川底に白い柱が3本並んでいた。太さも間隔も同じで、深く打ち込まれている。柱の間だけ、対岸側へ水が抜けていた。
「そこへ行く」
本体より先に、触手が水を裂いてくる。
『左。上。正面』
左の1本は、身体を沈めて避けた。上の1本は追ってくるから、柱の手前で急に浮上し、触手を柱へ巻きつかせた。正面の1本だけは避けられない。左前腕へ硬殻を集めると、触手が殻を打って俺を柱の間へ押し込んだ。灰色の表面に亀裂が入り、左肘まで痺れる。
だが、押された向きは合っていた。柱を蹴って隙間へ滑り込む。背負い枠が石を擦り、帯が右肩へ食い込んだまま、身体だけが向こう側へ抜けた。
巨体は追ってこなかった。柱の手前で口を開き、流れごと引き戻そうとする。背の触手だけが隙間へ入り、白い石を叩いた。
柱の奥には石段があった。水中から対岸の壁へ上がり、その先の人工的な空洞へ続いている。左腕と両脚で身体を引き上げ、床へ腹を載せた。最後に背負い枠を引くと、右肩へ力が掛かって視界が1度暗くなった。それでも帯は外さなかった。
石段を上がり切ってから、中枢核を床へ下ろした。青い光が明滅する。
『中枢外装への浸水を確認。稼働は継続可能』
濡れた布で外装を拭い、継ぎ目へ乾いた繊維を細く裂いて押し込んだ。
「次から水には入れない」
『次を想定しています』
「生きてるからな」
『右肩の状態悪化も確認しています。その判断を繰り返した結果が現在の可動制限です』
返す言葉がなかった。
柱の向こうで、河の主がゆっくり向きを変えた。
3本の裂け目。背から伸びる複数の触手。下流へ進み、上流側から戻る狩り方。白い柱の間を越えない境界。俺が口にするたび、シグが1つずつ記録した。
『推定全長、測定不能。確認できた触手は6本以上。切断した1本は動作が鈍化していますが、再使用の可能性は否定できません』
「柱へ近づくと止まった」
『本体は境界を越えていません』
空洞の壁には、3本の線が刻まれていた。シグの外装と、俺が使った金具に残る印と同じだった。
「お前の外装と同じだな」
『形状は一致しています』
線の下には、古い文字が1列だけ残っていた。俺には読めない。
『照合します。水路名称、血流河。施設の記録では欠損していた項目です』
「この川の名か」
『はい』
壁際の四角い穴の奥に、金属が見えた。錆びた縁へ指を掛けて引き抜く。腕ほどの長さしかない、折れた鉄杭だった。先端は潰れているが、石よりは硬い。右肩を上げず、脇を締めれば突ける。
『交戦を推奨しません』
「今はしない」
『今後は』
河の主が柱の向こうを通った。見えなくなっても、水が先に動く。水流感知Lv.1で、巨体が下流へ離れていくのが分かった。
食料は沈んだ。戻る筏もない。この空洞から先へ進むにも、川を使うなら、あれの縄張りを通る。
「ここを通るたびに襲われる。だから調べる」
『討伐を前提としています』
「通る道を作るだけだ」
倒さずに済むなら、それでいい。だが、あれが白い柱の向こうを塞ぐなら、退かせる方法が要る。退かなければ、殺すしかない。
シグの右目はない。それでも、中枢核の青い光が1度だけ強くなった。
『計画の記録を開始します』
俺は折れた鉄杭を壁へ立て掛けた。
柱の向こうで生まれる大きな流れだけを追いながら、次に河の主が戻るまでの間を数え始めた。
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