水の震え
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それでは、どうぞお楽しみください。
浅瀬の水が、川とは逆へ引かれた。
積んだ石の向こうで赤い水面が沈み、目のない白い頭が現れた。ブラインドイールの成体は左右の岩へ牙を擦りながら、浅瀬の奥へ頭を押し込んでくる。
俺は行き止まりの壁際で、幼体の死骸を足元へ置いて待った。横穴までは3歩。だが、成体の胴を石で挟めなければ、背を向けた瞬間に噛まれる。ここで逃がせば、同じ罠には二度と入らない。川を渡る道も、そこで消える。
『頭部が石列を通過。胴部、侵入を継続』
横穴に残した中枢核から、シグの声が届いた。シグは自分では動けない。俺が倒れれば、あの青い光も横穴に残ったままになる。
「まだだ」
成体の白い口が開いた。幼体の死骸へ牙が食い込み、頭の後ろに並ぶ3本の裂け目が大きく開く。首ではない。水を通す場所だ。幼体を殺した時、刃が最も深く入ったのもそこだった。
胴の半分が石列を越えた。俺は右側の石列へ左足を掛け、下の小石を蹴り抜いた。積んだ石が内側へ崩れ、成体の長い胴を両側から挟んで白い皮膚へ食い込む。
尾が赤い川底を叩いた。水が浅瀬へ押し寄せ、左腿の傷へ泥が入る。身体を支えた左脚から力が抜けかけ、俺は壁へ背を押しつけて倒れるのを止めた。
『右側の石列、上段が外れました』
崩れた岩の隙間で、白い胴がうねった。もう一度尾を打たれれば、挟んだ石ごと押し退けられる。
腰の小型刃は、指2本分の刃しかない。幼体なら抜けたが、この太さの頭の後ろまでは届かない。俺は足元の尖った石を拾った。
成体が幼体の死骸を吐き出し、頭をこちらへ向ける。口が開く前に、浅瀬の水が俺の足元から引かれた。右腕は肩より上がらない。左手だけで石を逆手に持ち、牙の外側へ踏み込んだ。
白い口が閉じる。俺は左前腕へ硬殻を集めた。灰色の殻に牙が当たり、腕ごと壁へ押しつけられる。殻へ亀裂が走り、痛みより先に指の力が抜けた。尖った石が掌の中で滑る。
成体は頭を振った。牙に挟まれた左腕が引かれ、肩から身体を持っていかれる。俺は逃げず、右足を成体の下顎へ掛けた。左腕をさらに口の奥へ押し込み、牙の間に隙間を作る。
石を握り直した。狙いは頭の後ろ、最も近い裂け目だ。横から突き入れると、白い膜が破れ、黒い血が浅瀬へ噴いた。
成体の尾が川底を打つ。挟んでいた石が1つ外れ、胴が指1本分だけ動いた。
『右側の石列、崩壊まで余裕がありません』
「何秒だ」
『算出不能』
「次に外れたら言え」
石を抜くと、裂け目から水と血が一緒に溢れた。成体は口を開いて俺の左腕を放し、すぐに浅瀬から退こうとした。長い胴が後ろへ引かれ、崩れた石が持ち上がる。右側の隙間が広がった。
このまま川へ戻せば、二度と罠には入らない。俺は幼体の死骸を、成体の口の右へ蹴った。血を含んだ水が動き、成体の頭が死骸を追う。牙が壁へ当たった。
その横を抜け、頭の後ろへ回る。残る2本の裂け目が開閉していた。傷つけた裂け目だけは潰れたまま、黒い血を吐いている。
2本目へ石を突き入れた。だが、石は膜の表面を滑った。成体の頭が跳ね上がり、顎が左脇を擦って布と皮膚を浅く裂いた。
『石列、1個脱落』
白い胴がさらに後ろへ動く。俺は左膝で頭を押さえ、もう一度石を振り下ろした。今度は裂け目の縁ではなく、開いた膜の中央を狙った。石が膜を破り、黒い血が指を濡らした。
成体の動きが一瞬止まり、次の瞬間には全身を反らせた。膝を弾かれ、俺は浅瀬へ転がった。
水の中で身体を起こす。左腿の布が赤く染まり直していた。右肩も岩へぶつけたが、腕を下げている限り動かせる。
成体の胴は半分まで石列を抜けていた。残る裂け目は1本。俺と成体の間には、幼体の死骸と崩れた石がある。横穴へ戻るなら、まだ間に合う。
だが、逃げれば川を渡れない。
成体が頭を低くした。浅瀬の水が、開いた口へ向かって流れ始める。俺は崩れた石を踏んで前へ出た。
『正面からの接近を確認』
「見えてる」
牙が閉じる直前、左へ身体を外した。白い頭が脇を通り、壁へぶつかる。
俺はその背へ乗った。両脚で胴を挟み、右腕を腹へ固定したまま、左手の石を最後の裂け目へ当てる。1度押したが、石は滑った。成体が頭を振り、俺の膝が壁を打つ。
石を離さず、裂け目が開く間を待った。白い膜が持ち上がる。2度目で膜を破った。さらに奥へ押し込むと、柔らかい感触が消え、石の先が硬い部分へ当たった。
成体の尾が1度だけ川底を叩き、水が壁まで跳ね上がった。長い胴が大きく反り、崩れた石を押し退ける。そのまま浅瀬へ落ち、白い頭が俺の足元で止まった。
尾が小さく動く。俺は背から降りたが、最後の裂け目へ石を押し込んだまま、動きが消えるまで離れなかった。
静かになった水面へ、冷たい文字が浮かんだ。
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《討伐結果》
討伐対象:ブラインドイール成体 1体
討伐吸収が完了しました。
幼体3体分の力の残滓を統合しました。
能力値が上昇しました。
生命:34 → 39
筋力:32 → 36
耐久:46 → 53
敏捷:48 → 57
魔力:18 → 21
知覚:51 → 60
精神:37 → 42
獲得可能な技能があります。
獲得候補:水流感知Lv.1
魂適合率:低
忘却負荷:小
魂容量の増大を確認しました。
忘却庫の技能枠を拡張します。
技能枠:3/3 → 3/4
取得を選択してください。
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俺は左前腕の殻を解いた。牙の跡に沿って皮膚が赤く腫れている。殻がなければ、骨まで持っていかれていた。
『成体の停止を確認しました。左前腕の状態を報告してください』
「腫れてるだけだ」
『記録します』
今ある技能は3つ。新しい枠には、川の中で生きるための力を入れられる。水の動きを先に捉えられれば、目のない魔物より早く動ける。だが、魂喰を使えば、また何かを失う。
俺は横穴を見た。青い光が、暗い奥で消えずに残っている。
「取る」
表示が変わった。
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魂喰が発動しました。
水流感知Lv.1を獲得しました。
忘却庫へ格納します。
技能枠:4/4
技能取得の代償を徴収します。
忘却深度:3 → 4
残存記憶率:99.0% → 98.6%
――感覚記憶の欠損を確認。
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左足から、冷たさとは違うものが入り込んだ。
浅瀬の流れ。壁から落ちる滴。死んだ成体の尾が作る小さな波。川底を這うヒルと、岩の隙間で向きを変える小魚。触れている水のすべてが、区別のない震えとなって頭へ押し寄せた。
立っている岩まで傾いたように感じ、俺は壁へ手をついた。左手も濡れた石へ触れ、そこを流れる水の筋まで増える。吐き気が込み上げた。
『レイ』
横穴から声がした。返事をしようとしたが、どの方向へ顔を向ければいいか分からない。声より、水の中を動くものの方が強く頭へ響く。
『左手を水から出してください』
俺は腕を上げた。情報が少し減ったが、両脚は浅瀬へ入ったままだった。
『両脚も水から出してください。右後方、乾いた岩まで2歩です』
「分からない」
『私の声だけを追ってください。右へ1歩』
足を上げる。水が脛から離れた瞬間、頭の中の震えが薄くなった。
『もう1歩。前方の岩へ左手を』
指先が乾いた石へ触れた。俺は岩棚へ這い上がり、腹を下にして息を吐いた。水と接する場所がなくなると、無数の震えはようやく遠のいた。
しばらく目を閉じていた。
『呼吸の乱れが減少しました』
「今、名前で呼んだな」
返事まで、短い間があった。
『呼称を再評価しました。「未登録収容対象」より短く、危険時の警告に適します』
「それだけか」
『記録上の理由は、それだけです』
青い光はこちらを向いたままだった。
俺は横穴へ戻り、中枢核を背負い枠へ固定した。帯を胸と腰へ回し、右肩側だけ緩める。
立ち上がった時、天井から滴が落ちた。一定の間隔で、薄い水たまりを叩いている。
黒鐘養護院の屋根が浮かんだ。雨の日、ミアと毛布を分けた。床へ置いた桶がいっぱいになる前に、何度も水を捨てた。寒いと文句を言いながら、ミアは俺の分まで毛布を引いた。
そこまでは分かる。屋根を打っていた雨の音だけが出てこなかった。細かったのか、重かったのか、今の滴と似ていたのか。どれも分からない。
俺は記録帳を開き、濡れていない頁を選んで短く書いた。
『養護院の屋根を打つ雨音を失った』
シグの青い光が文字をなぞった。
『事実を記録します。音そのものは復元できません』
「分かってる」
『記録上、あなたは雨の日にミアと毛布を分けました。桶の水を捨てています』
「それも覚えてる」
事実は残っている。だが、思い出の中の雨は、一滴も音を立てなかった。俺は記録帳を閉じた。
横穴の外で、水が重なって動いた。成体の血が川へ流れ込んでいる。浅瀬へ向かう震えは、1つではない。
「何体だ」
『外部感知器の範囲外です。水面の変化は複数』
俺は横穴の入口まで進み、左足の爪先だけを水へ入れた。また無数の震えが押し寄せる。壁を流れる水。川底を這うもの。成体の死骸へ当たって分かれる流れ。遠くで重なる大きな揺れ。全部を拾えば立てなくなる。
近いもの、強いもの、自分へ向かうもの。それ以外を捨てる。目を閉じて同じ選び方を繰り返すと、3つの流れだけが残った。
「来る。3体」
『視認しました。成体、3』
「成体の死骸を追ってる」
『横穴へ後退してください』
横穴の入口は狭い。1体なら止められるが、3体が石を崩せば奥まで牙が届く。俺は中枢核を背負い枠から外し、横穴の高い岩へ置いた。
『距離が開きます』
「ここで待て」
『同行状態ではありませんか』
「戦えないだろ」
『記録と警告は可能です』
俺は帯を岩へ結び、中枢核が落ちないことを確かめた。
「なら、近いものだけ言え」
『了解』
浅瀬へ戻った。先頭の1体が、死んだ成体の尾を越える。白い頭がこちらへ向き、足元の水が引かれた。
見てからでは遅い。流れが変わった時点で、俺は左へ外れた。牙が右脇を通り、壁の石を噛み砕いた。
頭の横を抜けると、2体目の流れが正面から重なった。先頭を追って浅瀬の狭い入口へ入れば、長い胴同士が逃げ道を塞ぐ。俺は浅瀬の奥へ2歩下がり、最初の1体を誘った。
牙がもう一度開く。その直前、2体目が横から頭を押し込んだ。白い胴がぶつかり、2つの口が同じ場所で閉じる。先頭の頭が壁へ押しつけられ、浅瀬の入口が詰まった。
俺は2体の胴の横を抜けた。水の震えが右後方から近づく。
『右から1。接近』
3体目だ。俺は川底を蹴った。左腿の傷が開き、脚が一瞬遅れる。牙が踵の後ろで閉じた。
白い頭が通り過ぎる前に、左前腕へ硬殻を集める。灰色の殻で顎の横を押し、進む向きだけを外側へずらした。3体目は壁へ当たり、そのまま先頭の2体へ胴を重ねた。浅瀬の入口が白い身体で埋まる。
「シグ」
『左前方、3歩。水流が外側へ向かっています』
左足の爪先で流れを拾う。強い流れの間に、壁沿いを抜ける細い筋があった。俺はそこへ身体を入れ、追ってくる震えだけを残して、横へ流れる波と川底の小さな動きを意識から外した。
後ろで牙が水を叩いた。届かない。
乾いた岩へ上がって振り返ると、3体は狭い浅瀬で互いの胴を邪魔し、まだこちらへ頭を向けられずにいた。俺は横穴へ回り込み、中枢核を背負い直した。
『左腿から再出血。右肩の負荷も増加しています』
「歩ける」
『移動方向を確認します』
白い胴が石を押し退け始めた。俺は左足先だけを水へ触れさせた。今度は、追ってくる流れと、先へ抜ける流れだけを選べた。
「上流へ行く」
『了解。同行を継続します』
俺とシグは、群れが浅瀬を抜ける前に川沿いの暗がりへ入った。
足先で読めるようになった流れのどれも、まだ対岸へは続いていなかった。
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