血を吸う川
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それでは、どうぞお楽しみください。
足元の岩棚が揺れた。俺は壁へ背をつけ、左足を水際から離した。細長い魔物は、血だけを追っているわけではないらしい。
棚の幅は、身体1つ分しかなかった。背中は濡れた岩壁で、上へ登れる足場は見えない。施設へ戻る縄はもうなく、足元の赤い水の下では、白い牙が並んだ口が向きを変えている。
左腿の傷からは、まだ血が垂れていた。それでも、さっき牙が閉じたのは俺の脚の下ではなく、黒い生物を落とした岩際だった。血の匂いだけを追うなら、狙われるのは俺のほうだ。何に反応しているのか分からないまま動けば、次に水へ落ちるのは俺になる。
棚の端にあった小石を拾い、右前方へ投げた。石が水へ落ちる。一拍遅れて、牙が水面を割った。
『水面接触から攻撃まで、1.9秒』
「もう一度測れ」
1度だけなら、たまたま近くにいただけかもしれない。数字を使うには、同じことがもう1度起きる必要があった。
次は少し大きな石を、同じ場所へ落とした。石が沈む前に、岸際の水が沖へ引いた。魔物が水を押し退けながら、頭を向けている。
『接触から攻撃まで、1.8秒』
「遅れは同じか」
『誤差0.1秒。現時点では、ほぼ一定と判断します』
見えなくても、来る前に水が動く。向きを変えてから牙が届くまでに、短い間がある。2秒足らずの間は、棚の上で何かをするには短く、何もしないで待つには長かった。
「目はない。音か」
『音、または振動と推定します。区別するには追加の試行が必要です』
「今はいい」
確かめるために石を投げ続ければ、魔物はこの棚の前から離れない。分かったことだけで、ここを出る道を探すほうが先だった。
岩棚の先には、壁を横へ削ったような穴があった。入口は肩幅より少し広く、奥は暗い。そこまでの間で、棚が1歩分だけ途切れている。
下では赤い水が壁へ当たり、細長い魔物の頭が沈んだまま向きを変えていた。
俺は背負い枠の帯を引き直した。胸、左肩、腰へ重さを分け、右肩側は緩めたままにする。跳んだ時に枠が振られれば、右肩で止めることはできない。
「数えろ」
『何を記録しますか』
「石が落ちてから2秒」
『了解』
遠くへ石を投げた。
『1』
水が盛り上がり、細長い頭が石へ向かう。
『2』
俺は途切れた棚を跳んだ。左足から着き、左手を壁へつく。背負い枠が遅れて振られたが、腰を落として止めた。
水面から牙が上がった。俺がいた場所で閉じ、岩の欠片を噛み砕く。
右肩の奥が熱を持った。それでも腕は下げたまま、動かしていない。
横穴へ身体を入れた。背負い枠が入口に擦れるため、腹這いになって左腕と両脚だけで進む。
後ろで水が大きく動いた。細長い頭が入口へぶつかる。牙は穴の左右へ当たり、口が中まで入らなかった。
『接近物、侵入不能』
「分かってる。後ろを見てろ」
『私の視野は後方へ固定されています』
「助かる」
返事はなかった。
穴の奥で天井が少し高くなった。身体を起こせる乾いた場所まで進み、帯を外す。
中枢核を背負い枠ごと床へ置いた。急に軽くなった身体が前へ傾き、左手をついて止める。
『搬送時の姿勢に改善が必要です』
「次に作り直す」
『次が存在する前提を確認しました』
「壊れてないならある」
小型刃で左腿の布をすべて外した。吸いつかれた場所から血が滲み、川へ落ちた時に開いた傷と重なっている。
横穴の奥には、透明な水が細く流れていた。赤い川とは岩の亀裂でつながっているらしいが、流れは弱い。
その水で傷を洗い、灰を押しつけてから、新しい布を腿へ巻いた。右脛と脇腹も確かめたが、口の跡以外に深い傷はなかった。
『止血を確認。右肩の状態確認を推奨します』
「動かしてない」
『未確認は、無傷を意味しません』
左手で右肩の周りを押した。腫れは増えていない。腕を身体へつけている限り、痛みも同じだった。
「変わらない」
『記録します』
透明な流れの中で、小さな影が止まった。
腕より短い。川にいた目のない魔物と同じ形をしているが、牙も胴も小さい。影は2度進み、1度止まった。首の横にある白い裂け目が開閉している。
「川のやつと同じか」
『形状は近似しています。同種かどうかは判定できません』
俺は平たい石を持ち上げた。
影が近づく。傷から落ちた血が、細い流れへ混じっていた。
頭が水面から出た瞬間、石で押さえた。小さな魔物は尾を振り、透明な水を床へ跳ね上げる。小型刃を頭の後ろへ差し込んだ。刃先が柔らかい場所を抜けると、尾の動きが止まった。
奥から2体目が上ってきた。
俺は死骸を水際へ残し、自分は乾いた床へ下がった。2体目は死骸の周りを1度回り、同じ場所で止まる。
「動きが止まる間隔を測れ」
『移動2回。停止。首部の裂け目が3回開閉。再移動』
「次も同じなら言え」
石を持ち直した。2体目が進む。2度目の移動の後、尾が止まった。
『停止』
石を落とし、頭を潰した。
3体目はすぐには近づかなかった。流れの奥で身体を曲げ、死骸と俺の間を行き来している。
「警戒してるのか」
『判定できません。接近はしていません』
俺は最初の死骸を乾いた床へ半分だけ引いた。血の筋が水際から床へ伸びる。
3体目が筋を追った。頭が水から離れ、胴の半分まで床へ上がる。尾で戻ろうとしたところを、石で押さえた。
小型刃を入れる。冷たい文字が視界へ浮かんだ。
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《討伐結果》
討伐対象:ブラインドイール幼体 3体
討伐吸収が完了しました。
同種の幼体から得た力の残滓を蓄積します。
能力値に変化はありません。
獲得可能な技能はありません。
忘却値に変化はありません。
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ブラインドイール。
川にいる成体も、同じ魔物なら振動を追うはずだ。目がない代わりに、水の動きか、首の裂け目で何かを捉えているのだろう。
俺は幼体の1体を水へ戻した。流れの中で死骸を動かすと、残る2体の尾も遅れて揺れた。死んでいても、狭い流れなら水の動きは伝わる。
「シグ。成体が通った時の揺れを覚えてるか」
『外部感知器が捉えた範囲で記録しています』
「幼体との違いは」
『振幅は比較不能。水量と距離が異なります。周期には近似があります』
「見つける前に分かるか」
『感知範囲は入口から2.3メートル。範囲内へ入った後なら警告可能です』
俺は透明な水へ左手の指先だけを入れた。一定の流れの中へ、死骸を動かした時だけ短い揺れが重なる。目を閉じても、指に当たる向きは分かった。
だが、川の成体を読むには近すぎる。
「俺はもっと手前で待つ」
『危険です』
「だから罠を作る」
『罠が成立しなかった場合、退路はこの横穴のみです』
「口は入らない」
『頭部以外の攻撃手段は未確認です』
俺は立ち上がり、小型刃を鞘へ戻した。
「確認する」
『危険行動として記録します』
「生きて戻ったことも書け」
『結果が確認された場合、記録します』
中枢核は乾いた床へ残した。入口から声が届き、外部感知器が浅瀬を見られる位置へ向きを調整する。
俺は幼体の死骸2体と、拳ほどの石を抱えて横穴の外へ出た。
岩壁沿いに、流れの弱い浅瀬があった。奥は壁で閉じ、成体が頭を入れられる幅しかない。
両側へ石を積んだ。大きな石を下へ置き、その隙間へ小石を噛ませる。入口だけを残し、奥に幼体の死骸を置いた。
成体が頭を入れれば、石を崩して胴を挟める。崩れなければ、横穴まで3歩で戻る。
積んだ石を左足で1度押した。すぐには崩れず、下の小石を外せば内側へ倒れる。
『石列の右側に偏りがあります』
「どこだ」
『上から2つ目。外側へ3センチ』
石を置き直した。
『修正を確認』
左腿の布を少し緩めた。血が一滴、浅瀬へ落ちる。赤い筋は幼体の死骸へ向かって伸びた。
横穴から、シグの声が響く。
『単独行動を記録します』
「見える範囲だ」
『視認と同行は同一ではありません』
「戻ったら直せ」
『訂正理由がありません』
俺は浅瀬へ左手を沈めた。
冷たい流れの奥から、低い震えが伝わってきた。幼体とは違う。間が長く、揺れのひとつひとつが指から肘まで届く。
血の筋が揺れた。
赤い川の下で、目のない成体が向きを変えた。
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