中枢核
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それでは、どうぞお楽しみください。
天井の亀裂から落ちた菌糸の束が、シグの首へ伸びた。
2日かけて外すはずだった中枢核を、今ここで外すしかない。シグは胸と床を管でつながれたまま、自分では1歩も動けなかった。部屋が白い糸で埋まれば、声も記録も一緒に呑まれる。
俺は間へ踏み込み、鎌脚の刃を差し入れた。白い糸が刃へ絡みつき、引いても切れない。左前腕へ硬殻を集め、刃の背を押し込む。束は半ばまで裂けたが、残った菌糸が俺の腕へ巻きついた。
シグの右腕が動いた。補修した腕で黒い板を持ち上げ、天井との隙間へ菌糸を挟み込む。
『右腕継続時間、12秒』
「十分だ。押さえていろ」
『中枢分離作業は許可していません』
「許可は要らない」
俺は巻きついた糸を振り払い、シグの背後へ回った。胸の青い石から3本の管が伸びている。その先、背中の中央に埋まった黒い筒が中枢核だった。
外す順番は、何度も確かめていた。上の輪を外し、左の細管を抜き、最後に右の留め具を解く。
『作業を停止してください』
「残りを数えろ」
『10秒』
上の輪を外すと、壁を走っていた青い線が半分消えた。左の細管を抜いた瞬間、シグの右目が明滅する。
最後の留め具は赤くさびつき、工具を差しても動かなかった。俺は腰から、施設で拾っておいた3本線の刻まれた金具を抜いた。奥まで押し込み、左手で捻る。
『8秒』
天井を支えていた黒い板が下がり始めた。挟まれた菌糸が隙間から枝分かれし、シグの肩と頭へ伸びる。
金具は動かない。右腕を使えば外せるかもしれないが、肩は荷重に耐えない。俺は留め具へ左足を当てた。1度蹴っても変わらず、2度目で輪の一部が割れた。
『5秒』
割れ目へ金具を差し直し、体重をかける。留め具が外れ、黒い筒が背中から数センチ滑り出た。
俺は左腕を回して中枢核を抱え、腰を落として引いた。シグの身体が大きく痙攣し、床の奥で何かが連続して切れた。
『施設接続の切断を検出』
「話せるか」
『可能です。残り3秒』
中枢核は両腕ほどの長さがあり、左手だけでは支えきれなかった。俺は壁へ立てていた背負い枠を足で倒し、核をその上へ転がした。
『1秒』
シグの右腕が落ち、黒い板が天井から外れた。
俺は枠と核へ身体をかぶせた。板が背中へ落ちる直前、硬殻を肩甲骨の下へ広げる。灰色の殻は狙いより左へずれ、脇の近くしか覆わなかった。衝撃が殻のない背中まで抜け、息が止まる。
それでも、枠の中の中枢核は潰れていない。
板の端を押し上げて這い出すと、菌糸が残されたシグの身体へ殺到していた。脚を覆い、胸へ入り込み、消えかけていた右目の光を塞いでいく。
俺は核を背負い枠へ押し込み、帯を締めた。左肩、胸、腰へ重さを分け、右肩には帯を通さない。立ち上がると腰が沈み、右肩の奥が引かれたが、動かせないほどではない。
「シグ」
返事はなかった。
中枢核を抜かれた身体には、もう青い光が見えない。頭も、腕も、胸の石も、ここへ置いていくしかなかった。
天井から新しい石片が落ちた。白い束が床を這い、俺と保守路の扉の間へ広がり始める。走れば左腿の傷が開く。俺は歩幅を狭め、枠の揺れを抑えながら扉へ向かった。
背後で壁が破れた。菌糸が床一面へ流れ込み、シグの身体を完全に覆った。振り返っても、もう取り戻せるものはない。
扉の前まで来た時、背中の中枢核が熱を持った。
『……外部接続を確認』
声は以前より小さく、金属越しに響いていた。
「動くのか」
『私の本体との接続、消失。記録保持率、94%』
「十分だ」
『否定します。6%を喪失しました』
「俺の記録は」
返事まで、短い間があった。背中の熱だけが、帯の下でわずかに強くなった。
『レイ・クロウ。18歳。ベルガルドへ帰還を希望。ミアは家族』
俺はずれた胸の帯を引き直した。
「残ってる」
『記録上、その通りです』
保守路へ入り、扉を閉めようとした。だが、下から入り込んだ菌糸が蝶番へ絡み、半分も動かない。施設へ戻る道は、白い糸で塞がれ始めていた。背負っているのは、シグの身体ではない。声と記録だけだった。
『移動を停止してください。右肩側の固定が緩んでいます』
「下りてから直す」
『推奨しません』
「今止まれば追いつかれる」
『確認しました。移動継続を記録します』
俺は保守路の奥へ進んだ。壁が揺れるたびに枠が背中へ当たり、そのたび右肩の奥が熱を持った。
崩れた縦穴へ着くと、用意していた縄を石柱へ回した。下では赤い水が流れ、最初に聞いた時より近く、大きく響いている。
縄を2度引いて固定を確かめた。左手で握り、両脚で壁を挟みながら身体を下ろす。右肩は動かさない。背負い枠が壁から離れないよう、胸を少し左へ向けた。
『落下危険』
「分かってる」
『あなたは理解している場合にも危険行動を継続します』
「記録してろ」
『すでに記録しています』
半分ほど下りたところで、頭上から白い糸が垂れた。菌糸は石柱を伝い、縄へ巻きついている。繊維が擦れ、1本ずつ切れ始めた。
下まではまだ遠い。壁の右側には細い岩棚があったが、今の位置からでは左足が届かない。俺は縄を握ったまま身体を振った。背負い枠が遅れて揺れ、右肩へ重さが寄る。1度目は届かなかった。
『縄の損耗、継続』
「次で移る」
もう一度、壁を蹴った。縄が1本切れ、身体が右へ大きく振られる。俺は左手を離し、岩棚へ身体を投げた。
左膝が石へ当たり、胸から棚へ落ちた。背負い枠が壁へぶつかり、金属の音が縦穴に響く。背中の声が途切れた。
俺は痛む左膝を引きずり、枠を押さえた。
「シグ」
『衝撃を記録。中枢核に異常なし』
息を吐くと、胸の奥で詰まっていたものが少しだけ抜けた。
「ならいい」
『あなたの左膝の状態を報告してください』
「曲がる」
『報告として不十分です』
「後で言う」
頭上で最後の繊維が切れ、縄が赤い水へ落ちた。もう施設側へは戻れない。
岩棚の先には、下へ続く斜面があった。湿った風が上がり、赤い水の音が広い空間へ反響している。
俺は壁へ手をついて立ち上がった。左膝は曲がる。右肩も、動かさなければ進める。
『現在位置を更新。記録中継施設から離脱』
「同行開始だ」
『訂正します。私は施設から不正に搬出されています』
「同じだ」
『同一ではありません』
「なら、両方書いておけ」
背中で、小さく歯車の回る音がした。
『記録します』
俺は暗い斜面を下った。背中のシグは、施設を離れても黙らなかった。それだけで、置いてきたものとの違いは十分だった。
斜面の先で、足元の岩が崩れた。
左手を伸ばしたが、濡れた壁には指を掛ける場所がなかった。背負い枠が岩へ当たり、身体が斜面から押し出される。下には赤い川が流れていた。
俺は左肩を下へ向け、右肩を庇った。次の瞬間、冷たい水が頭まで覆った。
背中の中枢核が身体を引いた。胸と腰の帯が食い込み、川底へ沈んでいく。俺は左手で胸の帯を掴んだ。
『中枢核の投棄を推奨しません』
「するつもりはない」
帯が締まっていることだけ確かめ、左腕で水を掻いた。両脚を動かすたび、打ったばかりの左膝と腿の傷が痛む。右腕は身体へ寄せたまま動かさない。水の重さまで肩へ掛かると、関節の奥が焼けるように熱を持った。
水面は頭上に見えている。だが、背負い枠が岩へ引っ掛かり、身体だけが前へ進んだ。俺は左足を川底へ伸ばした。爪先が石へ触れる。蹴ると同時に腰を捻り、枠を岩から外した。
顔が水面へ出た。息を吸った直後、左腿へ冷たいものが巻きついた。
黒い胴は腕ほどの長さがあった。輪のような口が、布の下にある傷へ吸いついている。脇腹にも重みが増えた。右脛では、ぬるい身体が布の隙間へ潜り込もうとしている。
『付着生物、5』
「見えてるのか」
『外部感知器は中枢核に1基残存。視野は狭く、死角があります』
「後ろを見ろ」
『了解』
左腿の1匹へ爪を入れた。吸いついた口の端を剥がすと、皮膚が一緒に引かれた。無理に引けば傷が広がる。俺は胴を握らず、口の縁へ指を沿わせた。半分外れたところで、川へ叩きつける。
黒い身体が離れていく間に、脇腹の1匹が膨らんだ。細かった胴が、吸った血で太くなっている。
川の下で、大きなものが動いた。
水面が盛り上がり、俺の身体が横へ流された。付着していた黒い生物まで、同じ方向へ胴を伸ばす。
『後方から接近。推定全長、算出不能』
「岸は」
『左前方、15メートル』
遠い。俺は左へ向きを変えた。脇腹の1匹を剥がしながら進むと、左腿の布が水を吸い、脚へ絡んだ。
背後で水が引かれた。何かが口を開いたのだと思った。
「距離を言い直せ」
『残り、あなたの身長6つ分』
腰の小型刃へ左手を伸ばした。鞘から抜き、左腿へ巻いていた布を切る。傷へ張りついていた1匹ごと、血を含んだ布を右後方へ投げた。
黒い生物の群れが布へ向きを変えた。その下から、白いものが並んだ口が現れる。細長い頭には、目がなかった。
口が閉じると、布も黒い群れも消えた。
俺は左へ進んだ。脚を大きく動かさず、左腕で水を押す。
『接近物、再度旋回』
「岸まで」
『3メートル』
指先が岩へ触れた。水面から出ているのは、身体1つ分ほどの狭い棚だった。亀裂へ左手を差し込み、左足を岩へ当てる。引き上げた瞬間、背負い枠の下端が岩へぶつかった。
『衝撃を検出』
俺は腹を棚へ乗せ、脚を水から抜いた。
「壊れたか」
『外部感知器に異常なし。記録保持機能も継続』
「ならいい」
『搬送者の左腿から出血が増加しています』
「それも壊れてない」
右脛に残っていた黒い生物を掴み、口の端から外した。水へ落とした瞬間、白い牙が岩際で閉じる。
細長い頭が水面へ半分出た。目はなく、白い皮膚には鱗も見えない。牙が岩を擦り、すぐに赤い水の下へ消えた。
施設へ戻る縄はもうない。目の前の赤い水には、血の匂いを追う口が沈んでいた。
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