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外へ出られない

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それでは、どうぞお楽しみください。

シグと話すようになってから、58日が過ぎた。


シグの記録だから、今度は数え間違いではない。奈落(ならく)へ落ちてからは、推定で140日を越えていた。


その間も、入口の格子は白い束に押されるたび内側へ歪(ゆが)んでいった。押してくる間隔は少しずつ短くなっている。シグは胸と床を管でつながれたまま、この部屋から1歩も動けない。ここが破られる日は、早いか遅いかの違いしかなかった。


俺は記録中継施設と保守路を往復した。崩れた通路の縁へ作り直した縄を結び、下の水路で目のない小魚を捕る。菌糸(きんし)の届かない棚で干し、腹を裂いて毒の強い内臓を捨て、肉を薄く切って少量ずつ食べた。


最初の頃は、指の幅ほどの切れ端を1つ食べるたびに腹の奥が熱を持った。舌が痺(しび)れ、横になって熱が引くのを待たなければ、次の作業へ移れなかった。1日に食べられる量は、その待つ時間で決まっていた。


今は違う。同じ量なら、歩きながらでも処理できた。舌の痺(しび)れはすぐに引き、吐き気が残ることも減っている。横になっていた時間が、そのまま作業に使えるようになった。


『体内毒性反応の継続時間、初回比で62%減少』


「数字だけ言え」


『処理時間が短縮しています』


「それは数字じゃない」


『62%です』


シグの右目が1度だけ明滅した。言い直したつもりらしい。


その時、視界へ冷たい文字が浮かんだ。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━

《技能成長》

毒分解(どくぶんかい):Lv.1 → Lv.2

一般的な動植物毒を安定して分解できるようになりました。

忘却値に変化はありません。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━


新しい記憶欠損はなかった。奪って得たのではない。使い続けた結果だった。


俺は記録帳を開き、炭筆を走らせた。


『毒分解(どくぶんかい)、レベル2。追加欠損なし』


シグが俺の文字を読み取り、施設の記録へ複製する。青い光が止まり、胸の奥から声が出た。


『毒分解(どくぶんかい)、レベル2。追加欠損の申告なし』


「申告じゃない。違う」


『私はあなたの内部情報を観測できません』


俺は通知を見せられない。何を失ったかも、シグには分からない。だから記録は、俺の言葉を使うしかない。


「なら、そう書け」


『追加欠損なし。情報源、レイ・クロウの自己申告』


「最後が余計だ」


『情報源の削除は記録精度を低下させます』


俺は炭筆を置いた。シグの右目が頁(ページ)の端まで動き、青い光が止まる。記録の仕方で折れる気はないらしい。


その日から、皮に近い薄い肉も捨てずに干した。口へ入れると舌は少し痺(しび)れたが、横にならずに済んだ。捨てる量が減れば、干せる量が増える。干した魚が棚の端まで並んだ時、ここで食べる分ではなく、持って運べる分を初めて数えた。


干した魚を棚へ並べ終えたあと、俺はシグの背後へ回った。


胸から床へ続く3本の管は、前より安定して脈打(みゃくう)っていた。補修した右腕は動くようになったが、出力は27%のままだった。


俺は一番細い管の留め具へ工具を差し込んだ。


『何をしていますか』


「外へ出られるか試す」


輪を半周させ、管を引き抜いた。


施設全体が低く鳴った。壁の青い線が1度消え、シグの右目も暗くなる。すぐに胸の奥で歯車が噛(か)み、右目の光が戻った。


『接続を戻してください』


「これがなくても話せる」


『私は施設設備です。接続解除は任務違反です』


「話せるかを聞いてる」


『会話機能は維持されています』


「なら運べる」


シグの右目が止まった。


『必要ありません』


「俺には必要だ」


『私は戦闘能力を持ちません』


「知ってる」


『自力移動機能もありません』


「背負う」


『あなたの右肩は長時間荷重に耐えません』


「左肩と腰で持つ」


『生存率を低下させます』


「ここに残せば、お前が壊される」


入口の格子は、今も白い束に押されて軋(きし)んでいた。補修した黒い板にも新しい亀裂が入り、天井から落ちる砂の量が増えている。施設を守り続けることはできない。


『施設防衛は私の任務です』


「守れなくなったらどうする」


『可能な限り任務を継続します』


「お前が壊れてもか」


『結果は命令の条件に含まれません』


返事までの間はなかった。


俺は抜いた管を戻した。青い線が壁を走り、止まっていた駆動音が少しずつ揃う。


「今日は外さない」


『合理的判断です』


「準備してから外す」


『訂正します。目的が不合理です』


俺は工具を持って立ち上がった。


「記録しておけ」


『何を記録しますか』


「お前は自分では外へ出られない」


青い光が1度、細くなった。


『私は施設設備です』


「同じことだ」


『同一ではありません』


「どこが違う」


シグの胸で歯車が回り、止まった。答えは返ってこなかった。


その夜から、俺は背負い枠を作り始めた。毒が引くのを待って横になっていた時間は、すべてこの作業に回せた。


保守路で見つけた金属板を、鎌脚(かまあし)の刃で少しずつ削る。背中に当たる部分へ穴を開け、菌木(きんぼく)の繊維を編んだ帯を通した。


右肩へ重さはかけられない。左肩だけで吊(つ)れば、歩くたびに枠が傾く。俺は帯を胸と腰へ回し、左脇と骨盤で支える形に変えた。石を入れた袋を核の代わりに載せ、保守路を往復する。


最初は10歩で左肩が痛んだ。帯の位置を下げると、今度は左腿(もも)の傷へ金属板の角が当たった。布を重ねても、坂を下るたびに擦(す)れる。


板の角を削り、腰の帯を2本に分けた。荷重が動くたび、背中の傷んでいない場所へ逃がす。帯を1本足すたびに石袋を載せて立ち、どこが先に痛むかを確かめてから、次の結び目を決めた。


シグは作業を見ていた。


『私の中枢核(ちゅうすうかく)の推定重量、21.4』


「単位が分からない」


『あなたが一度に運ぶ水の約3倍です』


「それなら分かる」


俺は石袋を1つ増やした。


立ち上がると、右肩の奥が引かれた。すぐに枠を下ろし、胸の帯を締め直す。


「運べる」


『右肩の再損傷確率、71%』


「枠を直す」


『目的を撤回する選択肢があります』


「ない」


『施設内に留まる選択肢があります』


「格子はもたない」


『あなたのみ保守路へ退避できます』


俺は返事をせず、擦(す)れた帯を外した。


菌木(きんぼく)の繊維が汗を吸い、赤黒く変わっている。編み目をほどき、太い部分を腰へ、細い部分を胸へ回した。胸の帯は息を吸っても締めつけない長さに、腰の帯は骨盤の上で止まる長さに結び直す。右肩には1本も通さなかった。


『私の搬出は、あなたの生存に必要ありません』


「お前は帰ると言った俺を記録した」


『記録しています』


「戻ったことも」


『記録しています』


「なら次は、お前が外へ出たことを記録しろ」


シグは沈黙した。青い右目が、床に置いた背負い枠と俺の手元を交互に見ていた。


俺は石袋を載せ直し、もう一度立った。重さが腰へ落ち、左肩は帯に添えるだけで済んだ。今度は30歩進めた。


戻ってくると、シグの右目がこちらへ向いた。


『30歩。前回比、20歩の増加』


「記録したのか」


『歩数は記録対象です』


俺は枠を下ろし、肩の帯が食い込んだ跡を指で押した。保守路を歩き通すには、まだ足りない。それでも、10歩よりは先へ行ける。


数日後、施設の照明がすべて消えた。


駆動音も止まり、入口の向こうで何かが壁を擦(こす)る音だけが残った。


俺は暗視(あんし)を使った。灰色の視界に、天井から垂れた白い筋が浮かぶ。1本ではない。壁の亀裂を押し広げ、何本もの菌糸(きんし)が施設の内側へ入っていた。格子を破れないため、外壁を回り込んだらしい。


シグの胸だけが青く光っていた。右目は暗く、補修した腕も動かない。


「状況は」


『外周壁、3か所破断。施設維持時間、推定2日』


「2日で何が起きる」


『中継核(ちゅうけいかく)が菌糸網(きんしもう)へ接続されます。私の記録は外部へ複製される可能性があります』


記録帳を握る指へ力が入った。


ミアの名。俺が帰ると書いた言葉。ここまでに通った道と、失ったものの記録。


森の中央の塊は、死者の声と動きを使った。記録まで渡せば、次は文字と事実を使う。


「中枢核(ちゅうすうかく)を外す」


『拒否します』


「理由は」


『施設保守命令に反します』


「お前ごと取られる」


『施設と記録を維持することが私の任務です』


「維持できない」


『命令は結果を条件にしていません』


初めて、シグの言葉が間違っていると思った。嘘ではない。壊れると分かっていても、命令どおりに残ろうとしている。


俺は壁へ立てていた背負い枠を持ち上げた。石袋を外し、帯と留め具を確かめる。


「2日で外す」


『許可しません』


「許可は要らない」


天井の亀裂が広がった。石片と一緒に菌糸(きんし)の束が落ち、シグの首へ向かって伸びる。


俺は鎌脚(かまあし)を抜いた。


残り時間は、2日ではなかった。

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