記録するもの
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それでは、どうぞお楽しみください。
格子の留め具が、2つ目まで外れた。
曲がった鉄の隙間は、拳1つ分ほど開いていた。格子の外に下りていた黒い板も、下から押し上げられて半分ほど上の溝へ戻っている。そこから白い菌糸の触手が1本入り込み、濡れた床を探るように先端を這わせた。
ここを破られれば、眠れる場所がなくなる。シグは胸と床を管でつながれ、この部屋から動けない。退く道は奥の保守路だけで、その先へ行けば入口は開いたまま残る。
触手は左右へ揺れたあと、肉を運び込むたびに床へ落ちた血の跡へ向きを変えた。目はなくても、血か熱を追っている。
シグの右腕が持ち上がった。肘の内側で青い火花が散り、床の溝へ伸ばした指が震えた。
『内扉を閉鎖します。退避してください』
「待て」
黒い板を落としても、触手を切れなければ格子の間に残る。外から引かれれば、壊れかけた留め具ごと持っていかれる。
俺は肉を包んでいた布を格子の前へ投げた。血と脂の染みた布へ、触手が巻きつく。先端が布を押し潰し、外へ引き戻そうと縮んだ。
その前に格子の右横へ踏み込み、壁から突き出た輪を鎌脚で叩いた。シグが板を落とした時、引き込まれていた輪だ。
輪が壁の中へ沈み、黒い板がもう一度落ちた。触手の中央を挟み、床から半歩の位置で止まる。
外の菌糸が引いた。黒い板は格子ごと軋み、右端がわずかに浮いた。このままでは押し返される。
俺は左前腕へ硬殻を集めた。灰色の殻が皮膚を覆い、肘の動きが鈍くなる。
板の端へ前腕を押し当て、体重をかけた。右肩は使えない。左腿の傷が開かないよう、腰を落として右脚で床を蹴った。
『負荷超過。離れてください』
「閉じろ」
『右腕駆動部の損傷率が上昇します』
「壊れる前に閉じろ」
シグの指が床の溝へ深く入った。青い光が3本線を走り、格子の奥で歯車が噛み合う音がした。
黒い板がさらに落ちた。挟まれた触手の表面が潰れ、黒い液が噴く。左腕へ飛んだ液は殻の表面を滑り、床へ落ちた。外から押す力が弱まった。
俺は鎌脚を板の隙間へ入れ、潰れた場所へ刃を当てて手前へ引いた。1度目は表面を裂いただけだった。刃へ白い繊維が絡みつき、切り口がすぐに狭まっていく。
2度目は、身体を捻った瞬間に脇腹が引きつった。力が抜け、刃先は骨のように硬い芯で止まった。
触手が暴れた。黒い板が持ち上がり、押さえていた左前腕の殻に亀裂が走った。
次に板が浮けば、殻ごと腕を挟まれる。俺は息を吐き、右脚を格子の根元へ当てて身体を固定した。脇腹を捻らずに済む角度で、刃を同じ切り口へ戻す。
3度目で芯が切れた。
外側の束が格子へぶつかり、そのまま引いていった。切断された先端だけが床に落ち、布を巻き込んだまま跳ねる。黒い板が最下部まで落ち、格子の歪んだ部分へ重なって隙間を塞いだ。
床の先端は、まだ動いていた。俺は近くの石を持ち上げ、根元へ落とした。1度では止まらない。向きを変え、黒い液が広がらなくなるまで押さえつけた。
施設の外から、何かが格子を掻く音が続いていた。白い束は退いただけで、諦めたわけではない。
「シグ」
返事がなかった。
振り返ると、シグの右腕は床の溝へ伸びたまま止まっていた。肘の内側から青い光が漏れ、胸へつながる3本の管が不規則に震えている。
俺は硬殻を解き、腕へ触れた。金属の表面が熱い。
「動くか」
右目の光が細くなった。
『右腕出力、通常時の18%。指部2本、応答なし』
「使うな」
『施設防衛は私の任務です』
「次は折れる」
『損傷を許容します』
「俺は許容しない」
シグの右目が俺へ向いた。歯車の音が1度途切れたが、返事はなかった。俺も言い直さなかった。
入口を塞いだ黒い板は中央が反り、格子はさらに内側へ曲がっていた。次に同じ力で押されれば、右側の留め具だけでは支えられない。
手元の食料は2日分もなかった。作りかけの縄も、縦穴へ降りられる強度には届いていない。ここで待つだけでは、どちらも先に尽きる。
施設の奥には、シグがこれまで開けたことのない保守用の扉があった。
「奥の扉を開けろ」
『当該区画は閉鎖されています。理由の記録は欠損しています』
「開けられるか」
『可能です。推奨しません』
「食料がない。入口も次はもたない」
シグの右目が細くなった。胸の奥で歯車が回り、止まり、もう一度回った。
『現在条件で生存確率を更新。保守路への移動を許可します』
「許可は求めてない」
『記録上、あなたは許可を待たない傾向があります』
「記録が早いな」
『観測期間は短期ですが、傾向は明確です』
俺は答えず、水、布、記録帳を腰へまとめた。使える長さまで編んだ縄と、鎌脚も持つ。
シグは動けない。残った右腕も上がらなかった。置いていくしかなかった。
奥の扉が、金属を擦る音とともに半分だけ開いた。向こうから湿った冷気が流れ込み、赤い川の臭いが強くなる。
扉をくぐる前に振り返った。
「戻る」
『帰還予定時刻を要求します』
「分からない」
『不十分です』
「それでも戻る」
シグは少し間を置いた。
『発言を記録しました』
保守路は、人1人が通れる幅しかなかった。壁と床には同じ3本線が刻まれ、青い光もないまま奥へ続いている。
俺は暗視を使った。灰色の視界の中で、3本線は途中から2つに分かれていた。右は下へ傾き、赤い川の音が強くなる。左は上へ伸び、腐った空気と菌糸の臭いが残っていた。菌糸のいる方へは行けない。俺は右を選んだ。
傾斜の途中に、黒い金属箱が3つ倒れていた。どれも腰より低く、表面には白い錆が広がっている。
1つ目は空で、底に細い骨と粉になった布だけが残っていた。2つ目には錆びた工具が入っていた。先の割れた棒、輪のついた挟み具、薄い刃。形は分かっても、使い方までは分からない。
3つ目を開けると、青い石の破片と細い金属管が布に包まれていた。シグの胸と腕で見たものと同じ色だった。
石は親指ほどの大きさで、内側に弱い光が残っている。金属管は3本あり、そのうち1本だけ端が潰れていた。俺は無事な2本と石を布へ包み、工具も持てるだけ選んだ。工具の底には、壁と同じ3本線が刻まれた細い金具が1本混じっていた。指より少し長く、先が平たい。それも腰の布へ差した。重さは増えたが、空手で戻るよりはよかった。
その先で、通路は崩れていた。
床が途切れ、3歩ほど下を水が流れている。向こう岸まで5メートルほどあり、両側の壁には折れた金具が並んでいた。黒い天井の下でも、水が薄く赤いことだけは分かった。
俺は布を左手へ巻き、指先だけを水へ入れた。冷たさの次に、強い流れが指を引く。見えない水の深さも、底の形も分からない。
小石を1つ落とした。水面へ触れた音は短く、石はすぐ下流へ消えた。もう1つ大きな石を落としても、底へ当たる音は聞こえなかった。
飛び降りれば、上がれない。今の縄は長さも強度も足りず、右肩と左脚では壁の金具だけを頼って降りることもできない。ここから先へ進む道は、今はなかった。
俺は折れた金具の位置と、水の流れる向きを記録帳へ書いた。戻って縄を作り直し、固定できる道具を選ぶ必要がある。
施設へ引き返した。上りでは左腿の傷が熱を持った。歩幅を狭め、壁へ左肩を預ける。布に包んだ青い石が何度も工具へ当たり、小さな音を立てた。
保守路の扉へ戻るころには、外で格子を押す音がまた始まっていた。黒い板はさらに内側へ曲がり、床には新しい白い繊維が落ちている。さっき潰した触手の黒い液へ、細く伸びていた。
シグの右目だけが、暗闇で光っていた。
『帰還、6時間31分。発言との整合を確認』
「戻ると言った」
『帰還予定時刻は不明でした』
「それでも戻った」
『記録します』
俺は腰の布を解き、青い石と金属管を床へ並べた。工具も1つずつ見せる。
シグの右目が動いた。青い光が石の断面で止まり、次に金属管の端をなぞった。
『右腕補修部品。適合率、42%』
「直せるか」
『私単独では不可能です』
「指示しろ」
『あなたの負傷状態では、精密作業を推奨しません。右肩の固定を解除する必要があります』
「短時間なら使える」
『その判断により、あなたは繰り返し負傷しています』
「お前も同じだ」
シグは黙った。右目の光が1度だけ石の上へ戻り、また俺の顔へ上がった。
俺は工具を取り、動かない右腕の横へ座った。
「順番を言え」
その日から、俺はシグの腕を直した。
外す管、青い石を削る位置、焦げた線を避けて輪を回す方向、締めすぎてはいけない留め具。シグは1つずつ指示し、俺が違う工具を取れば止め、力を入れすぎれば警告した。
『その輪ではありません。左から2つ目です』
「同じに見える」
『直径が0.3違います』
「分かるように言え」
『爪の傷がある輪です』
指先で探ると、確かに浅い傷があった。
「これか」
『はい。その輪です』
青い石は硬く、欠ければ使えなくなる。鎌脚の刃を立てず、表面を擦るように少しずつ形を合わせた。
作業の途中で右肩が震えた。シグはすぐに停止を要求した。
「まだ動く」
『理解と実行は別項目です』
「それはもう聞いた」
『記録上、3回目です』
俺は右腕を布で固定し直し、左手だけで続きを行った。
最後の管を差し込み、輪を半周戻した時、シグの指が1本だけ動いた。床を掻くほどの力はない。だが、曲がった指がゆっくり伸び、もう一度閉じた。
『補修を確認。右腕出力、27%』
「これで扉を支えられる」
『推奨されない使用目的です』
「使えるんだな」
『短時間のみ。再損傷の可能性があります』
「俺が切るまででいい」
シグの右目が俺を見た。
『あなたは退避を優先してください』
「お前を置いていく時は、俺が決める」
返事はなかった。青い光だけが、補修した肘の上で細く揺れていた。
俺は記録帳を開き、補修した部品と右腕の状態を書いた。
『シグの右腕を補修。短時間なら扉を支えられる。保守路の先に赤い水路。降下には長い縄が必要』
シグの右目が文字を追った。
『レイ・クロウ。帰還発言を履行。補修作業を実施。右肩の固定を一時解除し、警告を3回無視』
「最後はいらない」
『記録対象です』
「なら、お前の損傷も残せ」
『記録済みです』
「損傷を許容したこともだ」
シグは少し間を置いた。
『記録します』
俺は炭筆を置いた。
外では、白い菌糸がまた格子を押していた。黒い板が低く軋み、天井から細かな砂が落ちる。
それでも施設の中には、俺が戻ると言った記録と、戻ったことを覚えている声が残っていた。
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