壊れた守護機
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それでは、どうぞお楽しみください。
「収容対象じゃない。レイ・クロウだ」
『登録記録を検索します』
シグの右目が細く明滅した。首の奥で歯車が空回りし、胸へつながる3本の管が順番に震えた。
俺は2歩の距離を保ち、短くなった鎌脚を下げなかった。動いたのは右目と右腕だけだ。それでも管が床や扉とつながっているなら、入口の格子も奥の黒い扉も、こいつの側にあるのかもしれない。俺が眠れる場所は、この部屋しかなかった。
森で狩れる獲物は減り続け、持ち帰った肉も残り少ない。ここを離れられない以上、こいつが何をできるのかを先に知る必要があった。
『該当なし。未登録収容対象として記録を継続します』
「レイでいい」
『要求を記録しました。呼称変更は権限外です』
「記録はするのに、呼ばないのか」
『はい』
短い肯定だった。俺は記録帳を閉じた。話せるだけで信用できるとは限らないし、シグのほうも俺を信用していないらしかった。
試すために1歩近づくと、残った右腕が動いた。指先が床の溝へ触れ、入口側の格子が半分だけ上がる。
外から腐った腕が差し込まれた。白い菌糸が皮膚を突き破り、指を不自然な角度へ曲げている。俺は左足を引き、鎌脚を構えた。
「開けるな」
『侵入者排除機構を起動します』
格子の右横の壁から突き出た輪が、内側へ引き込まれた。次の瞬間、格子の上から黒い板が落ちた。腐った腕を挟み、湿った音とともに骨を砕く。外にいた死体は引くこともできず、そのまま止まった。
『排除完了』
「先に言え」
『警告音声機能は損傷しています』
「今の声で言えるだろ」
『排除機構の起動後に音声回路が復帰しました』
嘘はついていなかった。だが、必要なことを先に言うとも限らない。俺は格子と黒い板と壁の輪の位置を確かめ、届かない場所まで下がった。シグの指が溝から離れると、格子は途中で止まった。
「ここはどこだ」
『第六収容層、南西記録中継施設』
「収容層は奈落の何層だ」
『照合に必要な記録が欠損しています』
「下の赤い川は」
『第三大区画。水路名称は欠損』
「地上へ戻る道はあるか」
『回答権限がありません』
右目の青い光が1度消え、すぐに戻った。欠損していると答えた時とは、言い方が違う。道を知らないのではなく、言えないのかもしれなかった。
「誰の権限なら答えられる」
『回答権限がありません』
同じ言葉で、光の揺れ方も変わらなかった。俺は問いを変えた。
「床の3本線は」
『保守経路識別標』
先行探索隊だけの印ではなかった。探索隊は、この施設に残っていた印を道標へ使ったのかもしれない。そうならば、3本線を追えば人が通れる場所へ出られる可能性がある。確かめられたのは、そこまでだった。
俺は記録帳を開き、左手で書いた。
『シグ。記録中継施設の保守守護機。3本線は保守経路識別標』
シグの右目が、文字を上から下へ追った。
『紙媒体。全体損傷率、32%』
「読めるのか」
『文字情報の複製が可能です』
「なら覚えろ」
俺は自分で書いた頁だけを開いて見せた。ミアから渡された最初の頁は、指で押さえて隠した。あの頁は、ミアが俺のために書いたものだ。機械に読ませる理由はなかった。
シグは理由を聞かなかった。青い光が文字の列に沿って動き、頁の端で止まった。
『年齢の記載がありません』
「18だ」
『レイ・クロウ。18歳。ベルガルドへの帰還を希望。ミアという人物を重要対象として記録』
「重要対象じゃない」
『訂正を要求します』
言葉がすぐには出なかった。
ミアとは血がつながっていない。同じ養護院で育っただけだ。それでも、山道で記録帳を俺の胸元へ押し込んだのはミアで、帰ってきてと言ったのもミアだった。重要かどうかで分ける相手ではなかった。
記録帳の角を押さえていた指に、少し力が入った。
「家族だ」
『家族の定義を照合します。血縁の記載がありません』
「血はつながってない」
『記録上の矛盾ではありませんか』
「矛盾じゃない」
シグの右目が1度だけ明滅した。胸の奥で歯車が短く回り、止まった。
『では、あなたの言葉どおりに記録します。ミア。家族』
シグはそれ以上、何も聞かなかった。俺も、説明を足さなかった。閉じた記録帳の表紙の角には、押さえていた指の跡が残っていた。
それから、施設を出る前にはシグへ行き先を伝えるようになった。
最初は監視されるのが嫌だった。だが、俺が戻らなくても、シグは助けに来られない。言葉を残したところで不利にはならないと判断した。
「入口から右の通路を調べる。水と肉が取れれば戻る」
『帰還予定時刻を要求します』
「分からない」
『時間を指定してください』
「鉢に半分、水が溜まるまでだ」
『基準が不正確です』
「なら、お前が数えろ」
シグの右目が1度だけ明滅した。了解の返事はなかったが、帰るたび、シグは経過時間を告げた。
『外出、4時間12分』
「そんなに経ったか」
『私の計時誤差は、24時間につき11秒です』
「11秒」
『はい』
初めて、正しい時間を数えられるようになった。
シグは俺が奈落へ落ちた日を知らなかった。だが、記録帳に引いた68本の線、傷の治り方、服や髪の伸び方を記録し、最低日数を計算した。
『落下後、86日以上。推定誤差、11日』
「86日か」
『以上です。下限の値です』
3か月近い。紙の上の68本は短かった。けれど、その1本ごとに、吐いた日と眠れなかった夜があった。線を引き始める前の森の日々は、1本も残っていない。
ベルガルドでも、同じだけ日が過ぎている。帰ってきてと言った者にとっても、86日以上だった。
俺は数え直さず、次の頁の端に『86』と書いた。日付の代わりになる、初めての数字だった。
傷の状態もシグへ伝えた。
右肩は胸より上まで上がらない。左腿は走ると傷が開く。右脛の菌糸は長く歩くと熱を持ち、左の掌は刃を強く握ると痛んだ。脇腹の傷は塞がったが、身体を捻ると引きつった。
シグは俺の動きを見て、記録へ加えた。
『右肩は固定継続を推奨。左大腿部は走行により再出血。食料摂取量は不足』
「分かってる」
『理解と実行は別項目です』
「食えるものがあれば実行する」
『反論として不十分です』
俺は返さなかった。施設の外で取れる食料は減っていた。森の中央の塊の動きは弱くなったが、菌糸に深く侵された肉は食べられない。今の範囲だけを探し続ければ、先に獲物が尽きる。生き残るには、縦穴の下を流れる赤い川へ降りるしかなかった。
シグは縦穴までの扉を開けられた。だが、その先の崩れた階段までは直せない。
『降下は推奨しません。生存確率、算出不能』
「ここに残った場合は」
『現在の消費量を維持した場合、食料枯渇まで23日』
「同じだ」
『否定します。ここに残れば、23日は生存できます』
「その後に死ぬ」
シグの右目が止まった。胸の奥で小さく歯車が鳴り、少し遅れて答えが返った。
『記録上、その通りです』
俺はそれ以上言わず、壁際に積んでいた材料を引き寄せた。
水路へ降りるための縄を作り始めた。
材料は、菌木から裂いた繊維、死体から外した革、残っていた布だった。短い束を左手と歯で捻り、重ねて結ぶ。右手は添えるだけにした。
試しに体重をかけると、最初の縄は途中で切れた。
『強度不足です』
「見れば分かる」
『理解と実行は別項目です』
「それはもう聞いた」
『同一の指摘が妥当であったため、再度出力しました』
俺は切れた端を拾い、結び目を指でほどいた。
2本目は、結び目の位置をずらした。シグの右腕は短時間なら重い板を支えられたため、縄の端を指へ巻きつけて引かせる。胸から伸びる管が張る前に止めた。管の長さを越えれば、シグの方が壊れる。
「そこまででいい」
『張力を保持します』
縄が軋み、繊維の間から細かな屑が落ちた。今度は切れなかった。
俺は結び目を確かめながら、胸から壁へ伸びる管を見た。
「外へ出たいか」
『質問の意図が不明です』
「お前はここから動けない」
『私は施設設備です。移動の必要はありません』
「必要がないのか。動くなと命令されているだけか」
『私は施設設備です』
同じ答えだった。自分で残っているのか、命令以外を考えられないのか。俺には判断できなかった。それでも、管を見ていると、首へ縄を掛けられた姿に見えた。
縄の3本目を編んでいた時、シグの胸から低い警報音が鳴った。
これまで聞いたことのない、途切れた音だった。床の3本線に沿って赤い光が走る。入口側の壁が震え、積んでいた小石が1つ跳ねた。
『外周菌糸圧、上昇。施設壁の破断を確認』
俺は縄を捨て、鎌脚を掴んだ。
入口の格子は、正面から内側へ曲がっていた。格子の向こうで白い触手が束になり、黒い板ごと押し込んでいる。退路は奥の保守通路だけだった。だが、縦穴の先は崩れ、今の縄では降りられない。
シグの右腕が床の溝へ触れた。動くたび、肘の内側から青い火花が散った。
『未登録収容対象。奥の区画へ退避してください』
「レイだ」
『訂正は権限外です』
「なら記録しろ。俺はここに残る」
『行動目的を要求します』
俺は曲がった格子の前へ立ち、触手の動きを見た。中央ではなく、右側の留め具へ力が集中している。
「扉が壊れたら、お前も終わる」
『私の損傷は退避理由になりません』
「俺にはなる」
シグの右目が一瞬だけ俺へ向き、すぐ格子へ戻った。
格子の留め具が1つ弾けた。白い触手の先端が、開いた隙間から床へ入り込んだ。
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