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逃げない理由

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それでは、どうぞお楽しみください。

祈りの言葉は、朝から一度も口にしなかった。


七印浄化(しちいんじょうか)の2日目は、断食と祈りだった。水だけを入れた杯が1つ、床に置かれている。壁には七柱の名を刻んだ石板が並び、その前で日が沈むまで赦しを請えと命じられた。


俺は石板に背を向け、扉の横へ座っていた。


昨夜から何も食べていない。空腹には慣れていたが、水だけを飲んで動かずにいると、腹より先に頭が重くなった。手首の傷は乾き始め、鎖が触れるたびに薄い皮が裂けた。


外では、朝から槌(つち)の音が続いていた。兵士たちは城壁へ杭(くい)を運び、石工は亀裂へ鉄の留め具を打ち込んでいる。ときどき角笛が鳴り、そのたびに廊下を走る靴音が増えた。


砕城犀(さいじょうさい)は監視域へ入ったが、まだ西門には到達していないらしい。


昼を過ぎた頃、槌(つち)の音が急に止まった。静かになったわけではない。遠くで大勢が同時に叫び、すぐに重い車輪の音が礼拝堂の裏を通った。


細い窓へ近づくと、固定式弩砲(こていしきどほう)の腕が中庭を横切っていくのが見えた。6人の兵士が綱を引き、2人が車輪の下へ板を差し込んでいる。


祈りで止める災厄に、ずいぶん大きな矢を使うらしい。


背後で、金属が小さく擦(す)れた。俺は窓から離れた。


音は扉からではなかった。7枚の石板のうち、右端にある1枚の下から聞こえた。


床へ膝をつき、耳を近づける。石の向こうで何かが動き、細い息が漏れた。次に、鈴が1度だけ鳴った。


「ミア」


石板の裏で動きが止まった。


「声を出すな」


返事の代わりに、壁の下から指が2本出た。


石板と床の間には、手の幅ほどの隙間があった。以前は礼拝で焚(た)いた香の灰を地下へ落とす穴だったのだろう。黒い煤(すす)がこびりつき、奥に下り坂が続いている。


俺は石板の端へ指をかけた。鎖が張らない位置までずらすと、隙間が少し広がった。淡い金髪が煤(すす)まみれになって現れた。


「引っ張って」


「何をしてる」


「見れば分かるでしょう」


「分からないから聞いてる」


ミアは両腕を床へつき、狭い穴から肩を抜こうとした。首の銀の鈴は布を巻かれている。それでも動くたびに、かすかな音がした。


俺は鎖の届く範囲まで近づき、片腕をつかんだ。


「痛い」


「我慢しろ」


「もう少し優しくできないの?」


「穴へ戻すときは優しくする」


「戻らないから」


引き上げると、ミアは床へ転がった。髪も頬も黒く汚れ、灰色の服は肘のところが破れていた。腰には短い縄を巻き、布袋を2つ提げている。


ミアは立ち上がるより先に、俺の手首を見た。


「何、その傷」


「縄の痕だ」


「知ってる。どうして血が出てるの」


「鎖が当たった」


ミアは布袋を探り、細長い布を取り出した。


「手を出して」


「時間がない」


「だから早く出して」


俺が動かないと、ミアは勝手に手首を取った。傷へ巻かれた布は、養護院で使う古い寝台覆いを裂いたものだった。結び方は下手だったが、鎖が直接触れなくなった。


「きついかもしれない」


「問題ない」


「問題があるときの言葉」


「覚えてたか」


「忘れるわけないでしょう」


最後の結び目を締め、ミアは俺の顔を見た。怒っている。だが、灰青色の目の下には眠っていない者の影があった。


「昨日、どこにいた」


「養護院。外へ出るなって言われたから、窓から出た」


「それは外へ出たことになる」


「扉は使ってない」


「そういう話じゃない」


いつもなら言い返すところで、ミアは口を閉じた。腰の布袋から、鉄の鍵を2本と折り畳んだ紙を出す。


「西門に兵士が集まってる。礼拝堂の裏は、夕方の交代まで2人しかいない。灰落としの通路を戻れば、古い焼却炉の横へ出る。そこから洗濯場を抜けて、東の職人区まで行ける」


ミアは紙を床へ広げた。養護院から礼拝堂までの道と、周囲の路地が描かれている。


きれいな地図ではなかった。ミアが知っている道を1本ずつつなぎ、壁や井戸を印にしたものだった。


「職人区の先は」


「染物屋の裏に排水路がある。昨日の雨で水は多いけど、格子が1つ外れてる。そこから外壁の下へ出られるって、年長の子が――」


「誰に聞いた」


ミアが黙った。


「誰を巻き込んだ」


「巻き込んでない。聞いただけ」


「鍵は」


「洗濯場の壁に掛かってた」


「戻せ」


「嫌」


声が大きくなり、ミアは自分で口を押さえた。扉の外から反応はなかった。見張りは中庭の騒ぎへ気を取られているのかもしれない。


俺は地図を見た。灰落としの穴は狭いが、肩さえ通れば進める。鎖を外せるなら、洗濯場までは行ける可能性があった。


ミアが持ってきた鍵の1つには、城塞兵の詰所で使う赤い糸が巻かれている。


「どこから取った」


「だから、壁から」


「こっちだ」


赤い糸の鍵を示すと、ミアの視線が逸れた。


「兵士の外套(がいとう)に掛かってた」


「盗んだのか」


「借りたの」


「返すつもりがない借り物は、盗んだと言う」


「レイにだけは言われたくない」


「俺はパンを盗んだと認めた」


「何の話?」


「昨日、聞かれた」


ミアの顔から怒りが消えた。


「何をされたの」


「告白と、身体を調べられただけだ」


「本当に?」


「本当だ」


血を採られ、黒い鏡へ落とされたことは言わなかった。話せば、ミアは鍵だけでなく鏡まで奪いに行きそうだった。


俺は紙を畳み、鍵と一緒に押し返した。


「帰れ」


「帰らない」


「見つかる前に戻れ」


「一緒に行く」


「俺は行かない」


ミアはしばらく俺を見た。聞き間違いを確かめるように、ゆっくり瞬きをする。


「何で」


「逃げれば、養護院が調べられる。鍵がなくなったと分かれば、洗濯場にいた全員が疑われる」


「私がやったって言う」


「お前が捕まるだけだ」


「じゃあ、一緒に逃げればいい」


「外壁の外へ出たあと、どこへ行く。食料は。水は。砕城犀(さいじょうさい)は西にいる。東へ回っても、城塞兵は道を知ってる」


「何とかする」


「何ともならない」


「やってみないと分からない!」


銀の鈴が布の下で鳴った。


俺は扉を見た。今度は廊下から足音が聞こえた。まだ遠いが、こちらへ近づいている。


ミアも気づいた。鍵を握り、灰落としの穴へ目を向ける。


「先に入れ」


「レイも」


「鎖がある」


「鍵を試せば――」


「間に合わない」


足音は2人分だった。1人は鎧を着ている。もう1人の歩みは軽く、一定の間隔を崩さない。


イレーネだ。


俺は地図を奪い、上着の内側へ入れた。鍵はミアへ握らせる。


「戻れ」


「でも」


「捕まったら、俺は逃げない」


ミアの指が止まった。


「お前を置いてはいけない。だから捕まるな」


「それ、ずるい」


「知ってる」


「私が同じことを言ったら、レイは怒るでしょう」


「怒る」


「本当にずるい」


扉の前で足音が止まった。ミアを穴へ押し込む時間はない。


部屋を見回し、石板の横に掛けられた厚い垂れ幕を外した。七柱の印が刺繍(ししゅう)された布の裏へミアを立たせ、その前に俺が座る。


「鈴を押さえろ」


ミアが布越しに俺の肩をつかんだ。


鍵が回った。


扉を開けたのは兵士だった。その後ろに、イレーネ・ヴァイスが立っている。白い法衣の裾(すそ)に土埃(つちぼこり)がつき、黒い手袋には傷一つなかった。


「祈りは終わりましたか」


「始めてもいない」


「そうですか」


彼女は室内へ入った。淡い紫色の目が、空の杯、動かした石板、床に落ちた煤(すす)を順に見る。俺が座る場所で止まり、背後の垂れ幕へ移った。


見落とすはずがなかった。


「赤い旗が上がったそうだな」


俺が言うと、兵士が眉を上げた。


「囚人に話すことではない」


「窓から見えた」


イレーネは窓へ目を向けた。


「砕城犀(さいじょうさい)は西門から約9キロの地点にいます。進みは予測より早いですが、今日中には到達しません」


「明日は」


「城塞側の備えが整います」


「生贄(いけにえ)にする前に倒せるか」


兵士が俺へ1歩近づいた。


「黙れと言った」


「下がってください」


イレーネの声で、兵士が止まる。


彼女は棚から新しい水差しを取り、杯へ注いだ。そのまま垂れ幕の前まで歩いてくる。俺との距離は2歩もなかった。


布の向こうで、ミアの呼吸が止まっている。


「あなたは断食中です。水は飲んで構いません」


「毒か」


「あなたを今ここで殺す理由はありません」


「3日目ならある?」


「質問には答えられません」


昨日と同じ返事だった。


イレーネは杯を床へ置き、黒い手袋の指で垂れ幕の端に触れた。布がわずかに揺れる。ミアの爪が、背中越しに俺の服へ食い込んだ。


「この部屋には、灰落としの通路があります」


兵士が顔を上げた。


「封鎖されていたはずです」


「石板が動いています」


兵士は剣の柄へ手を伸ばし、こちらへ来ようとした。


俺は立ち上がった。鎖が鳴り、垂れ幕の前を塞ぐ。兵士の目が細くなった。


「どけ」


「嫌だ」


「何を隠している」


「何も」


「なら、どけるだろう」


兵士が剣を抜いた。狭い部屋では振れないため、切っ先を俺の腹へ向ける。俺は動かなかった。


「退きなさい、レイ・クロウ」


イレーネが言った。


「退かない」


「あなたが抵抗すれば、儀式妨害として関係者も調査します。黒鐘養護院(こくしょうようごいん)の者たちを含めて」


背後の指に力が入った。俺はイレーネを見た。


「関係ない」


「何がですか」


「俺が祈らないことと、養護院は関係ない」


「灰落としの通路を使った者がいても?」


「鼠(ねずみ)だろ」


「鍵を持つ鼠(ねずみ)ですか」


知っている。兵士はまだ気づいていない。イレーネだけが、鍵がなくなったことも、誰がここへ来たのかも知っていた。


俺は左足を少し引いた。剣を突き出されたら、鎖を腕へ巻いて止める。止めたあとどうなるかは考えなかった。背後へ一歩も通さないことだけを決めた。


イレーネの視線が、俺の足、両手、垂れ幕の順に動いた。銀の数珠を繰る指が止まる。


「剣を収めてください」


兵士が振り返った。


「巡察官殿」


「通路の確認はあとで行います。今は西門の人員を減らすべきではありません」


「しかし、侵入者が――」


「いたとしても、この中へ入っただけです。外へ出るには同じ道を戻るしかありません」


イレーネは腰の鍵束から1本を外し、床へ落とした。乾いた音がした。


鍵は石板の近く、垂れ幕の端へ滑った。黒い手袋が拾おうと伸び、途中で止まる。


「そちらは煤(すす)で汚れています。あなたが拾ってください」


兵士は剣を収め、鍵へ向かった。


「待て」


俺は兵士の前へ出た。


「囚人、下がれ」


「鎖が絡んだ」


足元の鎖をわざと踏み、身体を傾ける。兵士が舌打ちし、俺の肩を押した。


その瞬間、背後で布がかすかに擦(す)れた。ミアの気配が低くなる。垂れ幕の下から伸びた指が鍵を取り、石板の隙間へ消えた。


イレーネは見ていた。


兵士が垂れ幕をめくったとき、そこには煤(すす)のついた壁しかなかった。石板の下の隙間も、元の位置へ戻されている。


「誰もいません」


兵士が言った。


「そのようですね」


イレーネは答えた。


「鍵が1本見当たりませんが」


「落としたのでは」


「今、ここへ――」


角笛が鳴った。短く3度。兵士の顔色が変わる。


廊下から別の兵士が走ってきた。


「西の斥候(せっこう)が戻りました! 砕城犀(さいじょうさい)が山道の岩壁を崩し、進路を南へ変えています!」


「被害は」


イレーネが聞く。


「斥候(せっこう)2名が負傷。魔物は鉱石輸送路へ向かっています。代官閣下が全巡察要員へ中庭への集合を」


「分かりました」


イレーネは俺を見た。


「扉を施錠し、窓の下にも見張りを置いてください」


兵士たちは急いで外へ出た。最後にイレーネが扉へ手をかける。


「なぜ見逃した」


俺が言うと、彼女は振り返った。


「何のことでしょう」


「鍵を落とした」


「手が滑りました」


「黒い手袋は、滑らないためじゃないのか」


数珠の銀玉が1つ動いた。


「あなたが誰を守ろうとするのか、確認できました」


声は昨日と同じだった。


「次に同じことがあれば、見逃しません」


「ミアに触るな」


「名前は聞いていません」


しまったと思ったときには遅かった。イレーネの指が止まる。


「ミア。黒鐘養護院(こくしょうようごいん)の15歳。銀の鈴を身につけている少女ですね」


俺は扉へ踏み出した。鎖が張り、手首の布へ食い込む。


イレーネは逃げなかった。俺が届かない位置で、淡い紫色の目を細める。


「安心してください。今は捕らえません」


「今は?」


「彼女を捕らえれば、あなたは逃げない。今日、それが分かりました」


扉が閉じた。鍵が回り、足音が遠ざかる。


俺は石板の前へ戻った。床には、ミアが落とした煤(すす)の跡が残っている。隙間へ耳を当てても、もう鈴の音は聞こえなかった。


逃げていれば、2人で城壁の外へ出られたかもしれない。残れば、明日の夜には黒淵(こくえん)へ送られる。


それでも俺は、鎖を外すための鍵ではなく、ミアを帰す方を選んだ。


石板の向こうから、遠く1度だけ銀の鈴が鳴った。無事に焼却炉まで戻った合図だと決めた。


床の杯を取り、水を飲む。空腹は消えなかったが、頭の重さは少し引いた。


イレーネはミアを見逃したのではない。俺に選ばせた。


そして、次はその選択を使うつもりだ。

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