森そのもの
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それでは、どうぞお楽しみください。
「たすけて」は、1度では終わらなかった。いくつもの口が同じ言葉を、少しずつずらして繰り返している。
根と菌糸の壁が道を塞いでいた。高さは3人分以上あり、左右は太い菌木へつながっている。戻る方角からは、枝を折る音が近づいてくる。前は壁、後ろは追ってくるもの。ここで止まれば挟まれる。
使えるのは、杖にしてきた長い鎌脚と、腰の布に差した指2本分の小さな刃、採掘槌の鉄頭、それに袋の中の、底へ少しだけ酒精の残る瓶くらいだった。短剣も鎖も、さっきの割れ目に置いてきた。
俺は壁から5歩離れ、長い鎌脚を構えた。
口は20近くある。大きさも歯の形も違うが、どれも唇の周りを菌糸で縫われていた。声を出すたび、壁の奥で太い束が収縮する。生きている者はいない。
「……こっちだ……」
今度は男の声だった。右端の口だけが動き、その周りの菌糸が先に膨らむ。直後に、中央の根が盛り上がった。
声と動きが、つながっている。
俺は鉄頭を腰から抜き、右端の口へ投げた。鉄頭は歯を砕き、壁へ浅く沈んだ。中央の根が跳ね、先端の尖った白い束が、さっきまで俺のいた場所へ突き刺さる。
声は呼びかけではない。こちらの足を止め、止まった場所へ根を伸ばすための餌だ。聞き分けようとすれば、その分だけ遅れる。
背後の足音が近づいた。スポアハウンドが1体、坂の上に姿を見せる。その後ろでは、寄生死体が2体、互いの肩へぶつかりながら下りてきた。俺と壁の間は5歩、背後の獣までは15歩ほどだった。
先に壁を開ける。俺は左へ走った。
壁の口が一斉にこちらを向いた。目はない。それでも足音を追うように、表面の菌糸が左へ波打つ。
「待って」
「置いていくな」
「まだ生きてる」
声が重なり、左側の根が地面から跳ね上がった。俺は止まらず、長い鎌脚を下へ向けた。根が足元を払う直前、刃を地面へ突き立てる。曲がった刃が根へ引っかかった。
柄を両手で押し、根の軌道を外へずらす。右肩に熱が走った。根は俺の左を通り、後ろから来たスポアハウンドの胸へ当たる。獣は横倒しになった。
寄生死体は止まらない。倒れた獣を踏み越え、こちらへ来る。
俺は壁へ2歩まで近づいた。人の口がある部分は柔らかい。だが、そこを切っても道は開かない。奥にある太い束を断つ必要がある。
鉄頭が沈んだ場所から、白い汁が流れていた。俺はそこへ鎌脚を差し込んだ。刃が菌糸を裂き、壁のすべての口から短い息が漏れる。
左右の根が同時に動いた。俺は刃を抜かず、左前腕へ硬殻を集めた。灰色の殻が広がった直後、1本目の根が腕へ当たる。骨まで響く衝撃で、身体が壁へ押しつけられた。
2本目は脇腹へ来る。避ける場所はない。俺は柄を踏み台にして左脚を上げた。根の先が脇腹の布を裂き、傷の下を掠める。身体を下ろした重みで、壁へ刺さった刃がさらに深く入った。
奥で、太い束が切れた。壁の左側が沈み、人が1人通れる隙間が開く。
俺は鎌脚を引き抜こうとした。抜けない。内側の刃に菌糸が絡み、奥へ引いている。背後では寄生死体が5歩まで迫り、スポアハウンドも起き上がろうとしていた。武器を取り戻す時間はない。
俺は柄を両手で握り、根元から横へ折った。乾いた音がして、長い鎌脚の先半分が壁の中へ残る。手元には、短くなった根元と欠けた刃だけが残った。鉄頭も、壁のどこかに沈んだままだ。
それを持って、隙間へ身体を押し込んだ。背中の袋が菌糸に引かれる。肩紐を外し、先へ投げた。
後ろから、死体の指が伸びた。左足首を掴まれ、俺は倒れた。寄生死体の手首から白い糸が広がり、靴の縁へ入ろうとする。
俺は短くなった鎌脚を振り下ろした。刃が手首を断つ。指は足首に残ったままだったので、小さな刃で菌糸ごと削ぎ落とし、壁の向こうへ転がった。
直後、隙間が閉じた。追ってきた死体の頭が根に挟まれる。口が開いたが、声は出なかった。
壁の向こうは、坂ではなかった。地面が急に途切れ、深い窪地へ続いている。俺は腹ばいのまま、縁で止まった。
下には、白いものが広がっていた。根ではない。肉のように膨らむ、巨大な菌糸の塊だった。
窪地は円形で、端から端まで70メートル以上ある。中央の塊から太い束が放射状に伸び、周囲の菌木と地面へ潜っていた。塊が1度膨らむと、離れた幹が動く。もう1度膨らむと、背後の壁が脈打った。
ここから、樹海全体へ動きが伝わっている。
中央の塊に目も口もない。上部には人や魔物の骨が半分埋まり、その隙間から白い茸が生えている。1本の太い束が骨を持ち上げ、骨は途中で折れて、また内部へ沈んだ。塊そのものが、食い、動かし、増えている。
右脛に巻いた布の下で、菌糸が震えた。坂で感じた震えと同じだ。その間が、中央の塊の脈とずれなく重なっていた。脚に残った菌糸も、あれにつながっている。
下へ降りる道は右側にあった。斜面へ太い根が重なり、段のようになっている。だが中央へ近づくほど、根の表面に細い触手が増えていた。
俺は袋を背負い直し、短くなった鎌脚を確かめた。長さは前腕ほどしかない。杖には使えないが、小さな刃よりは間合いがある。上へ戻れば、壁の向こうに死体と獣がいる。進むなら下だった。
最初の根へ左足を置く。右脚には体重を短く受けさせるだけにし、鎌脚の根元を岩へ当てて身体を支えた。
半分ほど下った時、頭上で根が裂けた。白い触手が3本、斜面から伸びる。先端は細いが動きは速く、1本目が右手首へ巻きついた。
俺は腕を引かなかった。引けば足場を失う。左手で小さな刃を抜き、手首に近い部分を切った。切れた触手は腕に残り、締めつけを強める。
2本目が顔へ来た。身体を低くし、灰を入れた布で口元を覆う。触手は頭上を通り、背中の袋へ刺さった。袋の中で、瓶が割れる音がした。酒精が布へ染み出し、触手が1度縮む。
効いている。
俺は袋を外し、斜面の根へ押しつけた。染み出した酒精が根へ触れると、表面の白い糸が灰色に変わった。残りはわずかだった。それでも、3本目の動きが鈍る。
右手首の触手を小さな刃で切り落とし、短い鎌脚を斜面へ突き刺した。刃は表面を裂き、その下にある太い束へ入る。窪地全体が震え、中央の塊から10本以上の触手が持ち上がった。
刃を抜くと、傷口から白い汁が噴き出した。だが裂けた部分の左右から細い菌糸が伸び、すぐに傷を縫い始める。1本を切っても塞がる。
触手が斜面を叩いた。根が砕け、足場が沈む。俺は横へ跳んだが、右脚が着地の衝撃に耐えきれず膝が落ちた。次の触手が、右肩を狙って曲がる。
左前腕へ硬殻を集め、肩の前へ出した。触手が殻へ当たり、先端が割れる。内側から細い糸が何十本も広がり、殻の縁を回って肘と上腕へ入り込もうとした。
俺は身体ごと斜面を転がった。根の段を2つ落ち、岩へ背中をぶつける。息が止まったが、触手は上を通り過ぎた。止まれば囲まれる。立ち上がり、中央から離れる方向へ走った。
根の間には、古い武器と骨が埋まっていた。剣の柄、折れた弓、錆びた兜。どれも菌糸に覆われ、引き抜けない。
前方に岩柱があった。根は岩柱を避けず、表面へ巻きついている。裏へ回れば、触手の直線から外れる。俺は岩柱の陰へ滑り込んだ。
白い触手が左右から回り込んでくる。2本、遅れて3本目。
最初の1本を待った。先端が岩柱の右から出た瞬間、短い鎌脚を振る。刃は触手を切りきれず、半分まで入った。触手が戻ろうとするのに合わせて柄を岩へ押しつけると、傷が広がり先端が落ちた。
2本目は左から来た。俺の右脚を狙っている。
その前に、右脛の中の菌糸が強く震えた。地面へ触れていないのに、触手が動くより先に反応している。俺は右脚を引いた。触手が、さっきまで脚のあった地面を打つ。
攻撃そのものより早く、残った菌糸が知らせていた。中央の塊が触手へ送る合図を、脚の中のものが一緒に受けている。
使える。だが、つながったままでいれば、向こうも俺の位置を知るかもしれない。
3本目が、頭上から落ちてきた。俺は岩柱へ背をつけ、左前腕を上げた。硬殻が衝撃を受け、灰色の表面に亀裂が走る。触手は止まらず、俺の身体を岩へ押しつけた。
右肩の奥で、何かがずれた。腕から力が抜け、短い鎌脚が地面へ落ちる。触手の先端が割れ、首へ白い糸を伸ばしてきた。
俺は左手だけで小さな刃を握り、触手の側面へ突き刺した。切るのではない。岩柱との間に固定する。触手が引いた。刃は岩へ食い込んで抜けず、一瞬だけ圧力が弱まる。
その隙に身体を下へ滑らせた。白い糸が髪を掠める。背中から地面へ落ち、右脚で触手の根元を蹴った。固定された部分が裂け、触手は小さな刃を残したまま中央へ戻っていった。
刃を失った。右腕は肩から下がったまま上がらない。俺は落とした鎌脚を左手で拾い、岩柱の裏から離れた。
中央の塊は追ってこなかった。触手の届く範囲を越えると、先端だけが空中で揺れ、その場から先へは伸びなくなる。届く距離には限りがあった。
俺は窪地の外周まで下がった。
そこから見ると、中央の塊へつながる太い束は12本以上あった。1本を傷つけても塞がる。触手を切っても、別の束から新しいものが伸びる。中央の塊を本体だとしても、樹海全体の根と菌糸がつながっている。あれだけを切れば終わるとは思えなかった。
俺1人では倒せない。そして、倒す必要もない。地上へ帰る道は、この森の下にある。
手元に残ったのは、前腕ほどの長さの折れた鎌脚と、酒精の染みた袋だけだった。俺は左手で鎌脚を持ち、中央へ近づかないように、根が薄い場所を選んで外周を回り始めた。
右脛の菌糸が脈打つたび、触手の動く向きがぼんやり分かった。正面から来る時も、左から回り込む時も、背後で持ち上がる時も、脚の奥の震えは地面の振動よりひと息早い。確かな感覚ではない。それでも、その反応を頼りに触手の間を抜けた。
窪地の奥には、岩壁へ食い込む太い根が集まっていた。根の間から、冷たい空気が出ている。風ではない。一定の間隔で、湿った空気が押し返されてくる。
俺は岩壁へ近づいた。足元には細い亀裂があり、白い菌糸が何本も中へ伸びている。耳を近づけると、低い響きが聞こえた。
最初は、中央の塊が脈打つ音だと思った。違う。もっと深い場所から続いている。大量のものが流れ、岩へぶつかり、また流れていく音だった。
水だ。それも、小さな流れではない。
この森の下を、川が走っている。
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