森が目覚める
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それでは、どうぞお楽しみください。
切った菌糸が、床を這った。
灰色に変わったはずの先端が細く割れ、岩の亀裂へ潜ろうとしている。俺は残っていた酒精を1滴だけ落とした。菌糸は縮んだ。だが、壁の奥から押し出される白い糸は止まらない。岩の向こうで何かが脈打つたびに、亀裂がわずかに広がった。
この空洞は、森の外側にあったから安全だった。その森が目を覚ましたのなら、ここはもう壁の薄い箱でしかない。ここにはいられない。
俺は噛み潰した葉を広げた布を、右脛へきつく巻き直した。残りの葉と、底に少しだけ酒精の残る瓶を袋へ戻し、記録帳を胸元へ入れる。
長い鎌脚は杖と武器を兼ねる。指2本分の小さな刃は腰の布へ差し、錆びた短剣は鞘ごと左腰へ結んだ。右肩では短剣を強く振れない。だが、長い鎌脚を失った時の予備にはなる。
壁際の探索者は動かなかった。口元へ掛けた布だけが、亀裂から吹く風に揺れている。
「行く」
返事を求めたわけではなかった。
空洞の入口へ近づいた時、外で何かが破裂した。湿った袋を踏み潰したような音だった。続いて、甘い空気が流れ込んでくる。俺は灰を布へ広げ、口と鼻を覆った。
倒れた菌木の向こうで、幹に並んだ灰色のこぶが割れていた。中から白い粉が噴き出し、風の通り道を塞いでいる。風はまだ外から空洞へ流れている。だが、上流にある胞子嚢が開けば、通風も意味を失う。
入口の右側で、根が持ち上がった。土の中から白い束が現れ、倒木の隙間を狭めていく。森が、入口を閉じようとしていた。
俺は長い鎌脚を差し込み、根を押さえた。刃が白い束へ食い込む。根は硬くない。だが1本を切る間にも、別の束が足元へ伸びてきた。全部を相手にすれば囲まれる。俺は入口を塞ぐ1本だけを断ち、身体を横にして外へ出た。
背後で倒木が沈んだ。空洞の入口は白い根に覆われ、見えなくなった。壁際に残してきた探索者も、もう見えない。
安全地帯は失われた。
外の斜面も変わっていた。菌木の幹が同じ間隔で膨らみ、地面の菌糸が波のように動いている。枝から垂れていた茸は傘を開き、胞子を落とし始めていた。
遠くで獣が鳴いた。1頭ではない。短い悲鳴が重なり、その後に枝を折る音がこちらへ近づいてきた。
俺は風上へ向かった。さっきまで通れた細い獣道には、地面から白い糸が立ち上がっている。触れれば足へ絡む。長い鎌脚で払うと、切れた糸が刃へ巻きついた。この道は使えない。
右へ進路を変えた。そこには紫色の泥があり、その先は菌木の根が作る低い段差になっていた。根の上へ乗れば右脚へ負担がかかる。それでも、地面の菌糸を踏むよりはいい。俺は鎌脚を先へ置き、左脚から段差へ上がった。
右脛を引き上げた時、背後で土が弾けた。
灰色の獣が、白い粉を撒きながら斜面を下ってくる。犬に似ている。だが背中は茸の塊で膨れ、前脚の片方が2つに裂けていた。目は白く濁り、鼻ではなく地面の菌糸を追っている。
獣は俺を見ていなかった。足元の白い糸が震えると、同じ方向へ頭を向ける。糸の震えが俺の立つ根へ近づくほど、獣の足も速くなった。
森が、獣を動かしている。
距離は8歩。俺は根の上にいて、背後は紫の泥だった。右へ逃げれば太い幹にぶつかる。左は斜面で、地面から菌糸が伸びている。逃げ場がないなら、正面で止めるしかない。
獣の背中にある茸が膨らんだ。あれが割れれば、粉は前へ噴く。俺は口元の布を押さえ、根の端に立った。
獣が5歩まで近づいた時、茸が裂けた。白い粉が前方へ噴き出す。俺は根から紫の泥へ降りた。胞子は頭上を流れていった。
獣は止まれず、根へ前脚をぶつけた。裂けた脚が外側へ曲がり、肩が沈む。
俺は長い鎌脚を下から振った。内側へ曲がった刃が、沈んだ首へ入る。獣は痛みに反応しなかった。首を切られたまま身体を捻り、背中の残った茸を俺へ向ける。2度目が来る。
俺は刃を抜かず、そのまま柄を押した。獣の身体が根へ倒れ、裂けかけた茸が岩で潰れる。白い粉は横へ噴いた。
紫の泥へ膝をついた。右脛の布へ泥が触れる。すぐに立ち、獣の首から刃を引き抜いた。
冷たい文字が浮かんだ。
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《討伐結果》
討伐対象:スポアハウンド 1体
討伐吸収が完了しました。
寄生による魂情報の摩耗を確認。
力の残滓を蓄積しました。
能力値の変化はありません。
獲得可能な技能はありません。
忘却値に変化はありません。
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白い粉の向こうで、別の足音がした。1体では終わらない。
俺は獣の死骸を根の下へ蹴り落とし、風上へ走った。
右脚は動く。酒精で鈍らせた菌糸も、今は膝へ伸びていない。だが、傷そのものは残っている。10歩も進まないうちに布へ血が滲み、右肩は長い鎌脚の重さで下がった。後ろから、2つの足音が追ってくる。速さでは振り切れない。
前方に、根の絡んだ細い道があった。左右の菌木の間は2歩ほどしかなく、中央には人の胸ほどの高さまで白い菌糸が盛り上がっている。俺は中央を避け、左の幹へ身体を寄せた。
追ってきた1体目が姿を見せた。スポアハウンドだった。今度は背中の茸が2つあり、口の両脇から白い糸を垂らしている。2体目は、まだ見えない。
1体目が道へ入った。その瞬間、中央の菌糸が膨らんだ。獣の前脚が止まる。口から垂れた糸が地面へつながり、身体ごと持ち上げられた。
森は、獣を通すために道を開いたのではなかった。菌糸の塊は、獣まで取り込もうとしている。
俺は左の幹へ小さな刃を刺して身体を支え、白い糸が足首へ伸びる前に、根の上を横へ渡った。背後でスポアハウンドが鳴いた。首と腹へ菌糸が巻きつき、背中の茸が押し潰される。胞子が噴き出したが、俺との間には太い幹があった。
2体目の足音が止まった。俺は根から下り、振り返らなかった。
森は命令しているのではない。近くにある肉を、区別せず使おうとしている。獣も、死者も、たぶん俺も同じだ。
地面が、もう1度脈打った。
今度は足元だけではなかった。幹の内側から低い音が響き、頭上の枝まで同時に震える。白い胞子が降り始めた。
俺は灰を足した布を口元へ強く結び、暗視を使った。色が消え、森が灰色の濃淡へ変わる。胞子の幕は透かせない。それでも、近くの根と幹の輪郭は見えた。俺は風が白い粉を薄く押し分けている場所を選んで進んだ。
右前方に、動く影があった。
人の形だった。首を傾け、両腕を下げたまま、根の間から歩いてくる。胸から下は探索者の革鎧だが、頭は白い茸に覆われていた。その後ろにも、2つ。左の斜面には、4本脚の低い影が1つあった。
前へ進めば寄生死体。戻ればスポアハウンドと動く菌糸。右は太い菌木が並び、左は泥の斜面だった。
俺は右の幹を見た。根元に、人が1人通れるだけの割れ目がある。奥行きは浅いが、左側の根は細い。切れば裏へ抜けられそうだった。囲まれる前に、先に出口を作る。
俺は割れ目へ入り、小さな刃で根を切った。1度では断てない。白い汁が刃へまとわりつき、根が指のように曲がって手首へ絡んできた。
左前腕へ硬殻を集めた。灰色の殻が広がり、根の先を押し返す。その間に、長い鎌脚を根元へ差し込んだ。
背後で足音が近づいた。寄生死体の1体が、割れ目の前まで来ていた。右手には折れた槍があり、肩から伸びる菌糸が腕を後ろへ引いている。突く前の動きだった。
俺は鎌脚を根へ残し、身体を左へ向けた。槍が割れ目へ入る。先端は俺の脇腹を外れ、幹へ刺さった。
俺は槍の柄を左前腕で押さえた。殻の表面を木片が削る。死体は槍を戻せない。右手の小さな刃で、肩から伸びる菌糸を切った。腕だけが落ちた。
糸を切れば、死体の身体はその部分だけ止まる。
死体は頭を下げ、割れ目へ噛みつこうとした。茸に覆われた口元から、細い白糸が束になって伸びる。小さな刃では届かない。
俺は錆びた短剣を抜いた。右肩では振れない。柄を胸の前で両手に挟み、死体の口へまっすぐ押し込む。刃が喉の奥を抜け、背後の幹へ当たった。死体の頭は止まった。
それでも、腰から下が前へ進んでくる。抜いている暇はなかった。
俺は短剣を放し、残していた鎌脚の柄を蹴った。刃が根を断ち、割れ目の奥に空間が開いた。身体を押し込む。背中の荷物が根へ引っかかった。袋を片手で外し、先へ投げる。
2体目の寄生死体が、1体目へぶつかった。押し出された折れた槍が幹から抜け、俺の左腿を掠めた。布が裂け、腿に新しい線が走る。
俺は残った短い鎖を根へ回した。切れた根と隣の太い根をまとめ、力任せに引く。根が割れ目へ倒れた。2体の死体が向こう側で押し合い、狭い入口に詰まる。槍も腕も動かせない。
俺は長い鎌脚を引き抜き、根の隙間から突き出した。刃は先頭の死体の胸へ入った。心臓を壊しても意味はない。そのまま背中まで押し込み、幹へつながる菌糸をまとめて切る。
1体目が崩れた。後ろの死体も倒れた身体に遮られ、こちらへ進めない。
俺は鎖を根に絡めたまま手を放し、袋を拾った。短剣は死体の口の中に、鎖は根の間に残った。
狭い空間の先は、下り坂だった。胞子は薄いが、足元の根はすべて同じ方向へ伸びている。森の奥へ向かっていた。
俺は暗視を解いた。目の前にあるのは、逃げ道ではない。菌糸が集まる方角へ続く道だった。背後では、倒れた死体の上を別の何かが踏んでいる。
安全な場所を探し続けても、森が同時に動くなら逃げ切れない。動きを止める場所を探すしかない。俺は根の向きに沿って坂を下った。
右脛の傷が、熱を持ち始めていた。外から入った毒ではない。布の下で、残った菌糸が地面の脈動に合わせて震えている。地面が脈打つたび、脛の奥も同じ間で震える。1度目も、2度目も、ずれがない。
俺の脚の中にあるものまで、森とつながろうとしていた。
小さな刃を布の隙間へ差し込み、白い線が膝へ伸びていないことだけを確かめる。切るなら、止まってからだ。今は進む。
坂の両側に、人影が増えた。根に埋もれたもの。幹から半身だけ出ているもの。鎧を着たものも、布1枚しか残っていないものもいる。どれも動かなかった。
俺が中央を通ると、最初の1体が顔を上げた。
「……たすけて……」
次は左の幹だった。
「……こっちだ……」
右の根元から、女の声がした。
「……まだ……生きてる……」
口のない死体からも声が出た。胸に張った菌糸が震え、息に似た音を作っている。俺は止まらなかった。助けを求める言葉だけが、前方へ順番に移っていく。
「待って」
「置いていくな」
「ここにいる」
どれも同じ間隔だった。俺を呼んでいるのではない。何人もの死者が最後に残した言葉を、森が繰り返している。
坂の先で、暗い地面が大きく盛り上がった。根と菌糸が絡み合い、壁のように道を塞いでいる。その表面には、人の口だけがいくつも残っていた。
すべての口が、同時に開いた。
「たすけて」
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