匂いのない薬
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それでは、どうぞお楽しみください。
風は、折れた菌木の奥から流れていた。
頬に当たる空気は冷たく、胞子の甘さが薄い。俺はヴェノムマンティスの鎌脚を杖にして、斜面を横切った。
右脚を着くたび、脛の傷の内側が引かれた。白い菌糸は、まだ皮膚の下に残っている。毒は消えても、寄生しているものまでは消えない。
後ろでは、カリオンラットが死骸を齧る音が始まっていた。戻る理由はない。
風の出口は、2本の菌木が倒れてできた隙間だった。根の下に浅い空洞があり、奥の岩壁には細い亀裂が走っている。そこから乾いた空気が吹き出していた。
入口は、俺が屈んでようやく通れる幅しかない。大型の魔物は入れないし、外から見れば倒木と根に塞がれた窪みにしか見えない。
俺は中へ入り、鎌脚を横へ置いた。
空洞の奥に、人がいた。
岩壁へ背を預け、両脚を投げ出している。革鎧は緑色の苔に覆われ、俯いた頭から白い菌糸が垂れていた。動かない。
右手の指が3本なく、手首には切れた革紐が残っていた。カリオンラットが引きずっていた袋は、この死体のものだったらしい。
俺は入口へ半歩戻り、鎌脚の先を死体へ向けた。風が菌糸を揺らしたが、それ以外に反応はなかった。
胸の革鎧に、3本線を刻んだ小さな金具が付いていた。先行探索隊が壁へ残した道標と同じ印だった。
俺は死体から距離を取り、空洞の入口に座った。外を見張りながら、胸元から泥だらけの袋を出す。まず、傷を塞ぐ必要がある。
細い瓶の栓は蝋で固められていた。鎌脚の先で蝋を削り、布を巻いた手で栓を抜く。
中身は透明な液体だった。瓶を傾けても粘りはなく、布の端へ1滴落とすと、すぐに染みが広がった。
俺は布を鼻へ近づけた。
何かがある。冷たく、鼻の奥を刺すような刺激だった。だが、それが何の匂いなのか分からない。
探索者が傷の手当てに持っていたものだ。身体へ入れる薬かもしれないし、毒かもしれない。布の端へ火を近づけて確かめることもできなかった。この樹海で火を使えば、胞子がどう動くか分からない。
俺は液を鎌脚の欠片へ落とした。泡は出ない。殻も変色しなかった。
次に、脇腹の傷から少し離れた皮膚へ1滴つける。冷たさの後に、熱が走った。
しばらく待った。皮膚は腫れず、息も乱れない。飲むものではなく、傷へ使うものだと考えた。
左腿の包帯を外そうとすると、布が乾いた血で張りついていた。湿らせる水は、もうない。
端から爪を入れ、少しずつ剥がした。塞がりかけていた傷の縁が布に引かれ、新しい血が滲む。急げば、閉じかけた分まで開いてしまう。
傷は長いが、深くはない。出血も、布を剥がす前は弱くなっていた。俺は透明な液を含ませた布を当てた。
焼けるような痛みが腿を走った。歯を噛み合わせ、布を押さえ続ける。傷の縁から泥が浮き、古い血と一緒に流れた。
脇腹と左前腕も同じように拭いた。瓶の中身は半分近く減った。
右肩には使わなかった。皮膚の傷より、奥の筋が傷んでいる。液をかけても届かない。
残ったのは右脛だった。
布をほどくと、傷の周りに細い白線が増えていた。菌糸は皮膚の下で枝分かれし、膝の方へ伸びようとしている。
俺は幼体の鎌の欠片を取り出した。刃として使うには短く、握れば指へ食い込む。
ヴェノムマンティスの成体から外した鎌脚の根元へ欠片を当て、鎖の切れ端で叩いた。薄い部分だけが割れた。
細長い破片を岩へ擦り、片側を潰して反対側へ刃を残す。持ち手に布を巻くと、指2本分ほどの小さな刃になった。長い鎌脚より軽い。傷口へ入れるなら、こちらの方がいい。
俺は右脛の白線へ刃先を当てた。すぐには切らなかった。
菌糸は傷口から入った。皮膚の下へ伸びた部分をすべて追えば、脚そのものを使えなくする。入口に近い太い束だけを外へ引き出し、残りは伸びる方向を見張るしかない。
刃を入れた。
皮膚が開き、赤い血と一緒に白い糸が浮いた。糸は刃へ絡みつき、切ろうとすると奥へ縮む。
生きている。
俺は透明な液を傷へ落とした。白い糸が一斉に捻れ、皮膚の下で逃げようとする動きが止まった。傷口から出ていた部分が、灰色へ変わっていく。
効いている。
小さな刃で、灰色の束を掻き出した。根までは取れない。それでも、膝へ向かっていた白線の1本が薄くなった。
痛みで視界が狭くなる。俺は壁へ背をつけ、呼吸を整えた。
袋から、乾いた葉の束を出す。
細長い葉で、縁に白い毛がある。黒鐘養護院で、熱を出した子供へ煮ていたものと同じ形だった。名前は出てこない。
煮る湯も、浸す水もない。俺は葉を1枚だけ口へ入れ、奥歯で噛み潰した。
苦さが舌へ広がり、すぐに舌先が痺れた。覚えているとおりの苦さだった。熱を出した子供が顔をしかめた、あの苦さだ。
だが、鼻へ抜けてくるものだけが違った。
緑と土を混ぜたような匂いが、口の奥から上がってくる。知らない匂いだった。
顎が止まる。
養護院の炊事場。湯気で曇った窓と、火の近くへ並べられた欠けた器。熱を出した子供が苦いと顔をしかめ、ミアが鼻を押さえて笑っていた。
そこまでは分かる。だが、湯気に何の匂いがあったのか思い出せなかった。
苦かったことも、飲んだ後に舌が痺れたことも、今こうして舌の上で確かめられる。薬湯を煮る日は廊下まで匂いが残り、それを嫌って窓を開けたこともある。
匂いだけがない。口の中にある葉の匂いとも結びつかない。
黒パンの味を失った時と同じだった。記録帳へ書いた文字は読めるし、パンをミアと分けた出来事も残っている。それでも、舌にあったものだけは戻らなかった。
今回も同じだ。毒分解を得た時に、薬草と薬湯の匂いを失った。
俺は葉を噛んだまま、しばらく動けなかった。
忘れたものを思い出そうとしても、そこには何もない。穴の形だけが残り、近づくほど頭の奥が冷えた。
記録帳を開く。炭筆を持つ左手は、前腕の傷で細かく震えた。
『毒分解を得た代償。黒鐘養護院で使っていた薬草と、煮た薬湯の匂いを思い出せない。形、味、使っていた場面は残っている』
書き終えた文字を、2度読んだ。
記録は匂いを戻さない。それでも、失ったことまで失わないために書く。
俺はもう2枚を口へ入れ、同じように噛み潰した。知らない匂いのするそれを、布の上へ薄く広げる。煮出した薬湯ほどは効かないかもしれない。だが、何もしないよりはいい。
空洞の奥で、何かが擦れた。俺は布から手を離した。
岩壁に座っていた死体の右手が、地面を掻いていた。
指のない手首から白い菌糸が伸び、岩の割れ目へつながっている。さっき風に揺れていたものとは違う。糸は張り、緩み、また張った。
死体の頭が上がった。顔の半分は白い茸に覆われ、残った左目は乾いている。俺を見てはいなかった。
口だけが開く。
「……たす……け……」
息はしていない。声は喉から出ていなかった。首の内側を通った菌糸が震え、死者の口を動かしている。
俺は小さな刃を右手に持ち、長い鎌脚を左手で引き寄せた。
死体が立ち上がる。右脚は膝から折れていた。それでも背中から伸びた菌糸が身体を吊り、折れた脚を引きずって前へ出た。
入口までは6歩ある。
俺の背後は倒木で塞がれ、立ったまま出るには身体を横へ向けなければならない。今、背を見せれば掴まれる。
死体の腰には短剣が残っていた。白い菌糸が右腕を持ち上げる。指は握っていない。柄へ絡んだ糸が、短剣を支えていた。
斬る動きではない。腕ごと上から落とすだけだ。
俺は入口を背にして立った。右脚へ体重をかけると、掻き出した傷から血が滲む。
死体が3歩まで近づき、短剣が上がった。肩ではなく、背中の糸が先に張る。
俺は左へ半歩ずれた。
短剣が岩床を叩いた。死体の腕は止まらず、肩が不自然に外れる。痛みを感じていない。
俺は長い鎌脚を横へ振り、死体の右腕へ当てた。刃は革鎧に浅く入り、そのまま外れた肩を巻き込む。腕が落ちた。
だが、死体は止まらなかった。
残った左手が、俺の首へ伸びる。指先ではなく、爪の間から出た白い糸が広がった。触れさせれば、傷口へ入る。
俺は左前腕へ硬殻を集めた。
灰色の殻が傷の周りへ浮かんだ。広がった菌糸が殻へ絡みつき、隙間を探して這い回る。
腕を引けば、入口へ押し込まれる。俺は逆に1歩出た。
殻で包んだ前腕を、死体の胸へ押し当てる。外れた右肩が軋んだが、体重を乗せて岩壁へ戻した。
死体の背中が壁へ当たった。その瞬間、首と腰から伸びる菌糸が強く張った。
操っているのは身体ではない。岩の割れ目につながる糸だ。
俺は小さな刃を逆手に持ち、死体の首の後ろへ入れた。1本目を切ると、頭が落ちた。
腰の糸はまだ残っている。死体は胸を押さえられたまま、折れた脚で俺の右脛を蹴った。傷の奥で、菌糸が動く。
俺は歯を食いしばり、刃を下へ滑らせた。革鎧と岩壁の間に、親指ほどの白い束があった。
切った。
死体の身体から力が抜けた。俺は横へ退き、倒れる身体を避けた。
白い菌糸だけが岩壁に残り、切られた先を探すように空中で揺れていた。長い鎌脚で束を掬い、透明な液を1滴落とす。菌糸は縮み、灰色に変わった。
文字は浮かばない。死体を倒しただけだ。
俺は硬殻を解き、前腕へ絡んだ糸を小さな刃で落とした。殻の隙間には入っていない。
探索者の胸元を調べた。革鎧の内側に、油布へ包んだ紙があった。湿気で端が崩れているが、中央の文字は読めた。
『傷へ入った白糸は、酒精か灰汁で動きを鈍らせる。根を追って深く切るな。血を流しすぎた者から眠る』
細い瓶の中身は、酒精だった。
俺は残量を確かめた。右脛へもう1度使えば、ほとんど残らない。それでも使う。薬を持ったまま死んだ探索者の前で、惜しむ理由はなかった。
傷へ酒精を落とし、動きの止まった菌糸をもう1束だけ掻き出した。血は増えたが、膝へ伸びていた白線は消えた。
噛み潰した葉を広げた布を、右脛へ巻く。
薬の効き目は分からない。匂いも分からない。それでも、探索者の記録と自分の傷が、使い方を教えていた。
死体の短剣を拾った。刃は錆びているが、研げば使える。腰の鞘と、3本線の金具も外した。
残った遺体を外へ運ぶことはできない。俺は壁際へ寝かせ、口元を布で覆った。
「借りる」
返事はなかった。
空洞の外から、低い震えが伝わった。
最初は、遠くで大型の魔物が歩いたのだと思った。だが、揺れは1度で終わらない。
倒れた菌木の根が脈打ち、岩の亀裂に残る白い菌糸が同じ間隔で膨らんだ。1つ、2つ、3つ。
空洞の外にある菌木も、地面の下にある糸も、同時に動いている。
森の奥から、湿った息のような音が広がった。
俺が切った菌糸の先が、一斉にこちらを向いた。
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