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毒が消えるまで

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それでは、どうぞお楽しみください。

臭いを嗅(か)ぐ音が、斜面の上で増えた。


低い鼻息と、泥を掻(か)く爪の音。枝ではなく、骨を噛(か)み合わせるような音も混じっている。1つではない。成体の死骸から流れた血と毒の臭いが、上の菌木(きんぼく)帯まで届いていた。


俺はまだ立てなかった。毒の熱は胸から少し下がっただけで、右脚は膝から下が自分のものではない。左腿(もも)の布は血で重く、左手は鎌(かま)を握った傷で開いたままだ。


手元にあるのは、泥から拾い直した採掘槌(つち)の鉄頭だけだった。幼体の鎌(かま)の欠片は成体の首に刺さったまま、鎖は成体の触角に絡んだまま。水筒は窪(くぼ)みの中で、胴ごと潰れている。


俺はヴェノムマンティスの右の鎌(かま)を掴(つか)んだ。前脚の付け根には、幼体より太い節がある。鉄頭を隙間へ差し込み、残った力で押した。


1度では外れなかった。


上の根の間に、灰色の鼻先が現れた。


犬ほどの大きさの獣だった。毛はところどころ抜け、細長い口から黄色い歯が突き出している。その後ろで、さらに3つの影が動いた。


4匹とも、俺ではなく死骸を見ていた。


俺は鉄頭を両手で押した。前脚の節が割れ、2本ある鎌(かま)の片方が泥へ落ちる。俺の腕より長く、刃は内側へ曲がっていた。柄はなく、握れるのは殻に覆われた細い根元だけだ。それでも、刃物にはなる。


成体の触角から鎖をほどき、胴へ回して、折れた菌木(きんぼく)の根元へ結んだ。死骸を運ぶ力はない。ここで奪わせないようにするしかない。


灰色の獣が斜面を下り始めた。


足運びは速くない。鼻を泥へ近づけ、血の跡を選んでいる。後ろの3匹は左右へ分かれ、俺の逃げ道を塞ぐように広がった。腐肉を漁るだけではない。弱っている俺も、餌(えさ)に数えている。


俺は折れた菌木(きんぼく)を背にした。左にヴェノムマンティスの死骸、右は浅い窪(くぼ)みで、その先は滑る斜面になっている。この位置なら、正面から来られるのは2匹までだった。


先頭の1匹が、5歩まで近づいた。口の周りには乾いた黒い血が付いている。


もう1匹は右へ回り、潰れた水筒のそばで、紫の液を吸った泥を舐(な)めた。すぐに頭を振り、泡を吐いて後ずさる。


毒には弱い。こいつらは成体と違って、毒を食えない。


俺は外した鎌(かま)の先で、ヴェノムマンティスの腹の裂け目を広げた。紫の液が泥へ溢(あふ)れ、獣たちが1度下がる。


だが、逃げない。空腹が、毒への警戒を上回っている。


左の1匹が、死骸ではなく俺へ走った。正面の個体も続く。残る2匹は距離を保ち、俺が倒れるのを待っていた。


俺は鎌(かま)を横へ振った。重く、速くは動かせない。それでも、内側へ曲がった刃が先頭の鼻面を捉えた。獣は止まりきれず、刃に沿って俺の左へ滑った。頬から首までが裂け、菌木(きんぼく)の根へぶつかる。


2匹目が、その陰から跳んだ。


鎌(かま)は戻せない。左前腕へ硬殻(こうかく)を集めた。成体の顎(あご)に割られた殻の上へ、灰色の層がもう一度浮かぶ。噛(か)みついた牙が表面を削り、衝撃で背中が菌木(きんぼく)へ当たった。


獣は前脚を俺の胸へかけ、頭を振った。牙が殻の外へずれれば、腕を裂かれる。


俺は鉄頭を右手で掴(つか)み、獣の耳の後ろへ当てた。振り上げる力はない。尖(とが)った側を骨の隙間へ置き、頭ごと菌木(きんぼく)へ押しつける。右肩では押せず、胸と肘を重ねて体重をかけた。


獣の顎(あご)が開いた。左腕を抜き、鉄頭をもう1度押し込む。獣の身体が1度震え、根元へ崩れた。


右側にいた獣が、死骸へ駆け寄った。仲間ではなく、流れた血へ口をつけている。残る1匹は、俺の背後へ回ろうとしていた。


俺は長い鎌(かま)を引き戻した。先端が、まだ泥を掻(か)いていた1匹目の首を深く切り、そのまま、死骸へ食いついた個体の前脚を払う。刃は殻ではなく、肉へ入った。1匹目は動かなくなった。


前脚を払われた獣が横倒しになった。俺は立てないまま、鎌(かま)の根元を両手で押した。内側の刃が腹へ食い込み、泥の上を滑るたびに傷を広げていく。


獣は身体を捻(ひね)って逃げた。腹から血を流しながら、窪(くぼ)みの向こうへ下がる。追えない。


背後で、爪が泥を掻(か)いた。


最後の1匹が、菌木(きんぼく)の右から飛び込んでくる。細長い口は俺の首ではなく、左腿(もも)の布へ向いていた。血の多い傷を狙っている。


右脚は上がらない。俺はヴェノムマンティスの死骸へ身体を倒した。獣の牙が腿(もも)を外れ、成体の青黒い殻へ当たる。


獣が怯(ひる)んだ。


俺は鎖を引いた。菌木(きんぼく)へ結んだ輪が締まり、死骸が斜面の上で少し回る。残っていた左の鎌(かま)が、泥の上を薙(な)いだ。刃が獣の後脚へ当たり、骨までは切れなかったが、身体が傾く。


倒れた頭へ、鉄頭を落とした。1撃目で鼻が泥へ沈み、2撃目で顎(あご)が開き、3撃目を入れる前に動きが止まった。


息を吸った時、胸の奥が焼けた。鉄頭が指から落ちる。握り直そうとしても、指は震えて形にならない。


3匹が泥に沈んでいた。それでも、腹を切られた1匹が窪(くぼ)みの向こうで起き上がり、血を流しながら戻ってこようとしている。


上から、新しい鼻息が聞こえた。さらに2匹。血の臭いが、群れを呼び続けている。


俺は外した鎌(かま)を杖にして、立ち上がった。左腿(もも)の布から血が落ち、右脚は泥を引きずる。鎌(かま)を突いた左腕にまで、脚の重さがのしかかってくる。


だが、胸へ集まっていた毒の熱は、腹の下まで退いていた。


毒分解(どくぶんかい)は遅い。それでも、止まってはいない。俺が先に倒れなければいい。


新しい2匹は、仲間の死骸を見て足を止めた。片方の首には古い革紐が巻きつき、泥だらけの袋を引きずっている。人の荷物だった。獣が、どこかの餌場(えさば)から持ってきたのかもしれない。


俺は左手で鎌(かま)を構え、右手に鉄頭を拾い直した。


「来い」


声は掠(かす)れていた。


腹を切られた1匹が、先に動いた。正面からは来ず、窪(くぼ)みの縁を回って右へ寄ってくる。新しい2匹は左右へ分かれた。


3匹が同時に来れば、防げない。手元の武器は重い鎌(かま)と鉄頭だけで、どちらも1度振れば戻すのに時間がかかる。


だから、近づく前に足を止めさせる。こいつらは毒の泥を舐(な)めて吐いた。


俺はヴェノムマンティスの腹から垂れた紫の液へ鎌(かま)の先を浸し、正面の泥へ引いた。紫の線が、俺と獣たちの間に残る。


革紐を巻いた1匹が、線の前で止まった。もう1匹は構わず踏み込み、前脚が紫の泥へ沈む。そいつは2歩目でよろめき、舌を出して息を荒くした。


俺は待った。鎌(かま)の根元を握る左手に、汗と泥が混じって滑る。


飛びかかる直前、獣の後脚へ力が集まった。だが毒を踏んだ前脚が身体を支えきれず、跳躍が低くなる。


俺は鎌(かま)を縦へ立てた。


獣は、自分から刃へ突っ込んだ。胸へ入った先端は、背中までは抜けない。暴れる身体に引かれ、俺の左手から根元が外れた。


武器を取られた。


右から、腹を切られた1匹が来る。


俺は鉄頭を投げた。狙ったのは獣ではない。ヴェノムマンティスの腹の中の、さっき鉄頭で破った透明な袋だった。底には、まだ液が残っている。


あの袋の残りは、後で傷へ使うつもりだった。それでも、今ここで倒れれば、使う日は来ない。


鉄頭が袋を潰し、透明な液と紫の液が跳ねた。右から来た獣の顔へかかり、目を閉じさせる。


俺は鎖を掴(つか)んだ。菌木(きんぼく)に結んでいた端を外し、輪を獣の首へ投げる。1度では入らなかった。だが獣は目を閉じたまま頭を振り、自分から鎖へ絡んだ。


左足で鎖を踏んだ。獣の首が下がる。立ったまま引く力は残っていない。膝を落とし、身体の重さで締めた。


獣の爪が脇腹を掠(かす)めた。成体の刃で裂かれた傷が開き、温かい血が布の下へ広がる。


それでも、鎖は放さなかった。


暴れる力が、少しずつ弱くなる。最後に背中が大きく反り、灰色の身体が泥へ沈んだ。


革紐を巻いた1匹だけが残った。


そいつは近づかなかった。仲間の死骸と俺を見比べ、袋を引きずったまま後ろへ下がる。俺も追えない。互いに動かず、息の音だけが続いた。


やがて獣は、首の革紐を噛(か)んだ。頭を振って外そうとするうちに古い紐が切れ、泥だらけの袋がその場に残った。獣は上の菌木(きんぼく)帯へ消えた。


俺は、足音が遠ざかるまで待った。


足元では、胸へ鎌(かま)が刺さった個体がまだ震えている。俺は根元を掴(つか)み、刃を深く押し込んだ。


動きが止まる。


冷たい文字が浮かんだ。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━

《討伐結果》

討伐対象:カリオンラット 5体

討伐吸収(とうばつきゅうしゅう)が完了しました。

蓄積していた力の残滓(ざんし)を統合しました。

能力値が上昇しました。

生命:23 → 30

筋力:21 → 28

耐久:29 → 40

敏捷(びんしょう):27 → 42

魔力:12 → 16

知覚:30 → 45

精神:26 → 33

獲得可能な技能はありません。

忘却値に変化はありません。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━


身体の奥へ、熱が広がった。毒の熱とは違う。冷えていた指先と左腿(もも)へ、もう一度血が通っていく。泥の中の小さな音が、さっきより近くに聞こえた。


傷は閉じない。左手を開けば、鎌(かま)で裂けた部分から血が滲(にじ)む。脇腹も、布を押し当てなければ流れ続けた。


右脛(すね)の白い菌糸(きんし)も残っている。だが、黒く腫(は)れていた皮膚から紫色が消えていた。右手の痺(しび)れも指先だけになり、喉の奥にあった甘さは感じない。


毒分解(どくぶんかい)が、毒を削りきった。寄生しているものも、失った血も、それで治ったわけではない。


俺は刺さったままの鎌(かま)を引き抜き、先端を布で拭(ぬぐ)った。長い刃の根元を鎖と菌木(きんぼく)の繊維で巻けば、短い柄として握れそうだった。


成体の首からは、幼体の鎌(かま)の欠片を抜いた。刃こぼれしているが、まだ薄く鋭い。布にくるんで胸元へ入れる。


死骸から取れるものは、まだあった。左の鎌(かま)、硬い殻、腹の中の紫の袋。だが上の菌木(きんぼく)帯では、別の鼻息がもう動き始めている。全部を持てば、俺の脚では離れられない。


潰れた水筒は拾わなかった。胴が割れ、もう水を運べない。


俺は灰色の獣が残した袋へ近づいた。


革は腐りかけ、片側には人の指の骨が、紐ごと残っていた。留め具を外すと、中から油布に包まれた細い瓶と、乾いた葉の束が出てきた。


葉は細長く、縁に白い毛があった。


黒鐘養護院(こくしょうようごいん)で、熱を出した子供へ煮ていた薬草と同じ形だった。


油布を開きかけ、手を止めた。


周囲には、血と死骸が多すぎる。残った獣が仲間を連れて戻る前に、風の通る場所へ移らなければならない。


薬草を包み直し、袋ごと胸元へ入れた。ヴェノムマンティスの腹の脇から投げた鉄頭を拾い、泥を拭(ぬぐ)って腰の布へ差す。


成体の死骸を一度だけ振り返った。俺を殺しかけ、俺に毒を消す力を渡したものは、もうすぐ獣の餌(えさ)になる。


ヴェノムマンティスの鎌(かま)を杖にして立つと、右脚が体重を受け止めた。痛みはある。


それでも、もう毒では倒れない。

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