毒が消えるまで
ご覧いただきありがとうございます!
よろしければ、この話の読み終わりにでも【ブックマークへの追加】や【★★★★★評価】をポチッと押していただけると、今後の執筆の大きなモチベーションになります!
それでは、どうぞお楽しみください。
臭いを嗅ぐ音が、斜面の上で増えた。
低い鼻息と、泥を掻く爪の音。枝ではなく、骨を噛み合わせるような音も混じっている。1つではない。成体の死骸から流れた血と毒の臭いが、上の菌木帯まで届いていた。
俺はまだ立てなかった。毒の熱は胸から少し下がっただけで、右脚は膝から下が自分のものではない。左腿の布は血で重く、左手は鎌を握った傷で開いたままだ。
手元にあるのは、泥から拾い直した採掘槌の鉄頭だけだった。幼体の鎌の欠片は成体の首に刺さったまま、鎖は成体の触角に絡んだまま。水筒は窪みの中で、胴ごと潰れている。
俺はヴェノムマンティスの右の鎌を掴んだ。前脚の付け根には、幼体より太い節がある。鉄頭を隙間へ差し込み、残った力で押した。
1度では外れなかった。
上の根の間に、灰色の鼻先が現れた。
犬ほどの大きさの獣だった。毛はところどころ抜け、細長い口から黄色い歯が突き出している。その後ろで、さらに3つの影が動いた。
4匹とも、俺ではなく死骸を見ていた。
俺は鉄頭を両手で押した。前脚の節が割れ、2本ある鎌の片方が泥へ落ちる。俺の腕より長く、刃は内側へ曲がっていた。柄はなく、握れるのは殻に覆われた細い根元だけだ。それでも、刃物にはなる。
成体の触角から鎖をほどき、胴へ回して、折れた菌木の根元へ結んだ。死骸を運ぶ力はない。ここで奪わせないようにするしかない。
灰色の獣が斜面を下り始めた。
足運びは速くない。鼻を泥へ近づけ、血の跡を選んでいる。後ろの3匹は左右へ分かれ、俺の逃げ道を塞ぐように広がった。腐肉を漁るだけではない。弱っている俺も、餌に数えている。
俺は折れた菌木を背にした。左にヴェノムマンティスの死骸、右は浅い窪みで、その先は滑る斜面になっている。この位置なら、正面から来られるのは2匹までだった。
先頭の1匹が、5歩まで近づいた。口の周りには乾いた黒い血が付いている。
もう1匹は右へ回り、潰れた水筒のそばで、紫の液を吸った泥を舐めた。すぐに頭を振り、泡を吐いて後ずさる。
毒には弱い。こいつらは成体と違って、毒を食えない。
俺は外した鎌の先で、ヴェノムマンティスの腹の裂け目を広げた。紫の液が泥へ溢れ、獣たちが1度下がる。
だが、逃げない。空腹が、毒への警戒を上回っている。
左の1匹が、死骸ではなく俺へ走った。正面の個体も続く。残る2匹は距離を保ち、俺が倒れるのを待っていた。
俺は鎌を横へ振った。重く、速くは動かせない。それでも、内側へ曲がった刃が先頭の鼻面を捉えた。獣は止まりきれず、刃に沿って俺の左へ滑った。頬から首までが裂け、菌木の根へぶつかる。
2匹目が、その陰から跳んだ。
鎌は戻せない。左前腕へ硬殻を集めた。成体の顎に割られた殻の上へ、灰色の層がもう一度浮かぶ。噛みついた牙が表面を削り、衝撃で背中が菌木へ当たった。
獣は前脚を俺の胸へかけ、頭を振った。牙が殻の外へずれれば、腕を裂かれる。
俺は鉄頭を右手で掴み、獣の耳の後ろへ当てた。振り上げる力はない。尖った側を骨の隙間へ置き、頭ごと菌木へ押しつける。右肩では押せず、胸と肘を重ねて体重をかけた。
獣の顎が開いた。左腕を抜き、鉄頭をもう1度押し込む。獣の身体が1度震え、根元へ崩れた。
右側にいた獣が、死骸へ駆け寄った。仲間ではなく、流れた血へ口をつけている。残る1匹は、俺の背後へ回ろうとしていた。
俺は長い鎌を引き戻した。先端が、まだ泥を掻いていた1匹目の首を深く切り、そのまま、死骸へ食いついた個体の前脚を払う。刃は殻ではなく、肉へ入った。1匹目は動かなくなった。
前脚を払われた獣が横倒しになった。俺は立てないまま、鎌の根元を両手で押した。内側の刃が腹へ食い込み、泥の上を滑るたびに傷を広げていく。
獣は身体を捻って逃げた。腹から血を流しながら、窪みの向こうへ下がる。追えない。
背後で、爪が泥を掻いた。
最後の1匹が、菌木の右から飛び込んでくる。細長い口は俺の首ではなく、左腿の布へ向いていた。血の多い傷を狙っている。
右脚は上がらない。俺はヴェノムマンティスの死骸へ身体を倒した。獣の牙が腿を外れ、成体の青黒い殻へ当たる。
獣が怯んだ。
俺は鎖を引いた。菌木へ結んだ輪が締まり、死骸が斜面の上で少し回る。残っていた左の鎌が、泥の上を薙いだ。刃が獣の後脚へ当たり、骨までは切れなかったが、身体が傾く。
倒れた頭へ、鉄頭を落とした。1撃目で鼻が泥へ沈み、2撃目で顎が開き、3撃目を入れる前に動きが止まった。
息を吸った時、胸の奥が焼けた。鉄頭が指から落ちる。握り直そうとしても、指は震えて形にならない。
3匹が泥に沈んでいた。それでも、腹を切られた1匹が窪みの向こうで起き上がり、血を流しながら戻ってこようとしている。
上から、新しい鼻息が聞こえた。さらに2匹。血の臭いが、群れを呼び続けている。
俺は外した鎌を杖にして、立ち上がった。左腿の布から血が落ち、右脚は泥を引きずる。鎌を突いた左腕にまで、脚の重さがのしかかってくる。
だが、胸へ集まっていた毒の熱は、腹の下まで退いていた。
毒分解は遅い。それでも、止まってはいない。俺が先に倒れなければいい。
新しい2匹は、仲間の死骸を見て足を止めた。片方の首には古い革紐が巻きつき、泥だらけの袋を引きずっている。人の荷物だった。獣が、どこかの餌場から持ってきたのかもしれない。
俺は左手で鎌を構え、右手に鉄頭を拾い直した。
「来い」
声は掠れていた。
腹を切られた1匹が、先に動いた。正面からは来ず、窪みの縁を回って右へ寄ってくる。新しい2匹は左右へ分かれた。
3匹が同時に来れば、防げない。手元の武器は重い鎌と鉄頭だけで、どちらも1度振れば戻すのに時間がかかる。
だから、近づく前に足を止めさせる。こいつらは毒の泥を舐めて吐いた。
俺はヴェノムマンティスの腹から垂れた紫の液へ鎌の先を浸し、正面の泥へ引いた。紫の線が、俺と獣たちの間に残る。
革紐を巻いた1匹が、線の前で止まった。もう1匹は構わず踏み込み、前脚が紫の泥へ沈む。そいつは2歩目でよろめき、舌を出して息を荒くした。
俺は待った。鎌の根元を握る左手に、汗と泥が混じって滑る。
飛びかかる直前、獣の後脚へ力が集まった。だが毒を踏んだ前脚が身体を支えきれず、跳躍が低くなる。
俺は鎌を縦へ立てた。
獣は、自分から刃へ突っ込んだ。胸へ入った先端は、背中までは抜けない。暴れる身体に引かれ、俺の左手から根元が外れた。
武器を取られた。
右から、腹を切られた1匹が来る。
俺は鉄頭を投げた。狙ったのは獣ではない。ヴェノムマンティスの腹の中の、さっき鉄頭で破った透明な袋だった。底には、まだ液が残っている。
あの袋の残りは、後で傷へ使うつもりだった。それでも、今ここで倒れれば、使う日は来ない。
鉄頭が袋を潰し、透明な液と紫の液が跳ねた。右から来た獣の顔へかかり、目を閉じさせる。
俺は鎖を掴んだ。菌木に結んでいた端を外し、輪を獣の首へ投げる。1度では入らなかった。だが獣は目を閉じたまま頭を振り、自分から鎖へ絡んだ。
左足で鎖を踏んだ。獣の首が下がる。立ったまま引く力は残っていない。膝を落とし、身体の重さで締めた。
獣の爪が脇腹を掠めた。成体の刃で裂かれた傷が開き、温かい血が布の下へ広がる。
それでも、鎖は放さなかった。
暴れる力が、少しずつ弱くなる。最後に背中が大きく反り、灰色の身体が泥へ沈んだ。
革紐を巻いた1匹だけが残った。
そいつは近づかなかった。仲間の死骸と俺を見比べ、袋を引きずったまま後ろへ下がる。俺も追えない。互いに動かず、息の音だけが続いた。
やがて獣は、首の革紐を噛んだ。頭を振って外そうとするうちに古い紐が切れ、泥だらけの袋がその場に残った。獣は上の菌木帯へ消えた。
俺は、足音が遠ざかるまで待った。
足元では、胸へ鎌が刺さった個体がまだ震えている。俺は根元を掴み、刃を深く押し込んだ。
動きが止まる。
冷たい文字が浮かんだ。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
《討伐結果》
討伐対象:カリオンラット 5体
討伐吸収が完了しました。
蓄積していた力の残滓を統合しました。
能力値が上昇しました。
生命:23 → 30
筋力:21 → 28
耐久:29 → 40
敏捷:27 → 42
魔力:12 → 16
知覚:30 → 45
精神:26 → 33
獲得可能な技能はありません。
忘却値に変化はありません。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
身体の奥へ、熱が広がった。毒の熱とは違う。冷えていた指先と左腿へ、もう一度血が通っていく。泥の中の小さな音が、さっきより近くに聞こえた。
傷は閉じない。左手を開けば、鎌で裂けた部分から血が滲む。脇腹も、布を押し当てなければ流れ続けた。
右脛の白い菌糸も残っている。だが、黒く腫れていた皮膚から紫色が消えていた。右手の痺れも指先だけになり、喉の奥にあった甘さは感じない。
毒分解が、毒を削りきった。寄生しているものも、失った血も、それで治ったわけではない。
俺は刺さったままの鎌を引き抜き、先端を布で拭った。長い刃の根元を鎖と菌木の繊維で巻けば、短い柄として握れそうだった。
成体の首からは、幼体の鎌の欠片を抜いた。刃こぼれしているが、まだ薄く鋭い。布にくるんで胸元へ入れる。
死骸から取れるものは、まだあった。左の鎌、硬い殻、腹の中の紫の袋。だが上の菌木帯では、別の鼻息がもう動き始めている。全部を持てば、俺の脚では離れられない。
潰れた水筒は拾わなかった。胴が割れ、もう水を運べない。
俺は灰色の獣が残した袋へ近づいた。
革は腐りかけ、片側には人の指の骨が、紐ごと残っていた。留め具を外すと、中から油布に包まれた細い瓶と、乾いた葉の束が出てきた。
葉は細長く、縁に白い毛があった。
黒鐘養護院で、熱を出した子供へ煮ていた薬草と同じ形だった。
油布を開きかけ、手を止めた。
周囲には、血と死骸が多すぎる。残った獣が仲間を連れて戻る前に、風の通る場所へ移らなければならない。
薬草を包み直し、袋ごと胸元へ入れた。ヴェノムマンティスの腹の脇から投げた鉄頭を拾い、泥を拭って腰の布へ差す。
成体の死骸を一度だけ振り返った。俺を殺しかけ、俺に毒を消す力を渡したものは、もうすぐ獣の餌になる。
ヴェノムマンティスの鎌を杖にして立つと、右脚が体重を受け止めた。痛みはある。
それでも、もう毒では倒れない。
お読みいただきありがとうございました!
「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、画面の下(または目次ページなど)にある**【ブックマーク登録】と、【★★★★★評価】**で応援していただけると本当に嬉しいです!
感想や「ここが良かった」といったご意見もお待ちしております。
それでは、次回の更新でお会いしましょう!




