喰らうしかない
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それでは、どうぞお楽しみください。
青黒い頭が、斜面の縁から消えた。
逃げたのではない。泥を踏む硬い音が、上から右へ回っている。正面の斜面を下れば足を滑らせると知って、根の張った場所を探していた。成体も、俺を見て動きを変えている。
胸の奥では、熱が脈と一緒に跳ねていた。脛から上がってきた毒は、もう腰を越えている。次にあいつが来るまでに倒せなければ、俺は毒か刃か、どちらか先に来た方で死ぬ。
俺は左腿の傷へ布を巻いた。右肩では結べず、口と左手で端を引く。血は止まらないが、立った時に傷が開く速さは抑えられる。
手元にあるのは、幼体の鎌の欠片が1つ。鉄頭は成体の脚の向こうに落とし、鎖は成体の触角に巻いたままだ。腰には空の水筒と、底に少し残った灰袋だけが下がっている。
斜面の下には、折れた菌木が横たわっていた。白い幹は中が空洞で、根元だけが泥へ残っている。その先の浅い窪みには、紫の液と雨水のような雫が溜まっていた。
俺は欠片で菌木の表面を削った。柔らかい。刃を差し込んで縦へ裂くと、濡れた繊維が細長く剥がれた。布よりは弱いが、束ねれば紐になる。
右手はうまく動かない。左手と歯で繊維を重ね、菌木の根元へ巻いた。反対の端には、水筒を結ぶ。
中は空だ。水は、蛙の水辺で傷を洗うのに使い切った。それでも金属の胴は、泥の中で動かせば音を立てる。
水筒を窪みへ投げると、泥の中へ半分沈んだ。
残った灰を周囲へ薄く撒く。風が灰を左へ流すが、窪みの表面だけは動かない。空気がそこに溜まり、紫の臭いも下に残っていた。
成体は毒を食う。目と触角を潰されても、その習性までは変わらないはずだ。毒の臭いが濃い場所で物音がすれば、そこに獲物か餌がいると思う。
上で根が鳴った。
俺は折れた菌木の裏へ這った。右脚は引きずるしかなく、左腿へ体重をかけるたび布の下が濡れた。水筒までの距離は、4歩ほどだった。
成体が斜面へ姿を現した。潰れた左目は閉じたまま、右目も白く濁っている。触角の1本には鎖が絡み、先端が泥を引っ掻いていた。
残った触角が空気を探り、頭が窪みへ向いた。成体はすぐには近づかなかった。前脚の先で泥を叩き、返ってくる震えを確かめている。
俺の胸の鼓動まで、泥へ伝わっているかもしれない。成体の頭が、こちらへ傾いた。
俺は繊維を左手へ巻き、静かに引いた。窪みに沈んだ水筒が動き、泥が鳴って紫の液が揺れた。
成体がそちらへ跳んだ。傷ついていても速い。2本の鎌が水筒を挟み、布の栓と補修の膜ごと金属の胴を潰した。繊維も一緒に切れた。
罠にはならなかった。だが、成体の頭は下がっている。鎖の絡んだ触角が窪みへ入り、紫の液を吸った泥に張りついた。
今しかない。俺は菌木の陰から出た。
左足で2歩進む間に、成体は俺へ向き直った。最初の鎌が、脇腹の高さへ来る。受ければ、また殻ごと腕を割られる。
俺は折れた菌木を押した。空洞の幹が泥の上を転がり、成体の右前脚へぶつかる。刃の軌道が下がり、俺の腿の前を通った。
2本目が内側から閉じてくる。左手に硬殻を張った。割られた前腕ではなく、掌から手首だけに灰色の層が浮かぶ。
刃の先を止めようとはしなかった。斜めに寝かせた掌で刃の腹を押し、内側へ閉じる力をそのまま下へ流す。鎌が転がってきた幹へ食い込んだ。
成体が引き抜こうと身体を反らす。右前脚は空洞の幹に埋まり、左の触角には泥と鎖が絡んでいる。一瞬だけ、頭と胸の継ぎ目が伸びた。
俺は幼体の鎌の欠片を、そこへ突き込んだ。薄い刃は外殻の隙間へ入ったが、途中で止まる。
成体が頭を振った。欠片を握った俺の身体ごと持ち上げられ、右肩が抜けそうになる。手を放すと、背中から泥へ落ちて息が詰まった。右脚の奥で、菌糸が脈打った。
成体は首に刺さった欠片を、左の鎌で払おうとした。だが刃は内側へ曲がっている。自分の首には届かない。
右前脚が幹から抜けた。俺は起き上がれない。成体との間は、2歩もなかった。後脚が泥へ沈み、三角形の頭が俺の胸へ向く。
跳ぶ。俺は横へ転がった。2本の鎌が背中の布を挟み、服が裂けて、身体だけが斜面を滑り落ちた。
成体は着地に失敗した。濁った右目では傾斜を読めず、前脚を泥へ突き立てて止まる。その拍子に、触角へ絡んだ鎖が前へ投げ出された。
鉄輪の先に、赤錆びた鉄頭が引っかかっていた。俺が落とした採掘槌の頭だ。成体が斜面を下る途中で、鎖の輪に引っかけてここまで引きずってきたらしい。
左手を伸ばすと、指先が鉄頭へ触れた。成体も動いた。右の鎌が上から振り下ろされる。俺は鉄頭を引き寄せ、平らな面を刃へ向けた。
衝撃で左肘が泥へ沈んだ。鉄頭は割れなかったが、柄がないので押し返せない。2本目の鎌が首へ来る。
俺は鉄頭を放し、左手を上げた。灰色の層は、まだ掌に残っている。刃の先が殻を削り、親指の付け根へ食い込んだ。
成体が引く前に、俺はその刃を握った。硬化した皮膚が割れる。それでも離さない。
握った鎌を胸元へ引き寄せると、成体の身体も前へ傾いた。首に刺さった幼体の刃が、目の前まで来る。
俺は右手で、その根元を押した。痺れた指には力が入らず、肩も上がらない。腕ではなく、右肘と身体を重ねて前へ倒した。薄い刃が、継ぎ目の奥へ沈んだ。
成体の脚が激しく泥を掻く。握っていた鎌が外へ開き、俺の左手から肉を裂いて抜けた。
自由になった2本の刃が、左右から閉じてくる。俺は成体の胸の下へ潜った。ここまで近ければ、鎌の先は届かない。
代わりに口が開いた。紫の液に濡れた顎が、肩へ下りてくる。俺は左前腕を、頭と胸の間へ押し込んだ。
割れた殻の上へ、もう一度硬殻を張る。傷の上に広がった殻が、焼けるように痛んだ。顎が殻へ噛みつき、細かな亀裂が増えていく。長くは保たない。
泥の中を探る。左手には鉄頭が見つからない。右の指先は感覚がない。手首まで泥へ入れると、硬い角が骨へ当たった。
鉄頭を掴み、成体の腹へ押しつける。平らな面では殻を割れない。手の中で向きを変え、尖った側を腹の継ぎ目へ当てた。
成体が後ろへ退こうとした。俺は一緒に泥を滑り、身体を離さなかった。離れれば、2本の鎌が使える。
鉄頭を押す。先端が腹へ入った。紫の液が右手へ流れ、炎症した皮膚を焼く。そこへ透明な液が混ざり、紫が薄くなった。
ここだ。幼体と同じ袋が、この腹にもある。
俺は鉄頭を、さらに押し込んだ。腹の奥で、袋が破れる感触があった。
成体の顎が左前腕から離れた。6本の脚が斜面を蹴り、身体が大きく持ち上がる。俺も一緒に投げ出され、泥の中を2度転がって、折れた根へ背中を打った。視界が暗くなった。
成体は、斜面の途中で立っていた。腹から紫と透明の液を流し、2本の鎌を開いている。首には、幼体の刃が残っていた。それでも倒れない。
俺は鉄頭を握ったまま、立とうとした。左腿が震え、右脚は動かない。根へ背を預けても、腰が持ち上がらなかった。
成体が1歩進む。腹から落ちた液が、泥へ混ざる。
2歩目で、右の前脚が沈んだ。
3歩目はなかった。
成体の頭が傾き、首へ刺さった刃が根に当たる。身体が、前へ倒れた。
俺は動かなかった。2本の鎌が泥を掻き、後脚が1度だけ跳ねて、鎖の先の鉄輪が鳴った。それきり、止まった。
黒いものが、成体の割れた腹から滲み出した。
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《討伐結果》
討伐対象:ヴェノムマンティス 1体
討伐吸収が完了しました。
能力値が上昇しました。
生命:21 → 23
筋力:19 → 21
耐久:28 → 29
敏捷:25 → 27
魔力:11 → 12
知覚:30 → 30
精神:26 → 26
獲得可能な技能があります。
獲得候補:毒分解Lv.1
魂適合率:標準
忘却負荷:小
魂を喰らいますか。
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身体の奥に、薄い熱が灯った。蛙を倒した時ほどではない。傷の痛みも、回った毒も、何ひとつ変わらなかった。
黒い煙が、泥の上を俺へ伸びてきた。
選ばなくても、成体の腹を開けば透明な袋は取れる。液を傷へ塗り、残りを飲めば、毒を薄められるかもしれない。
だが幼体の袋では、広がりを少し止めただけだった。右脚の菌糸は残り、胸まで上がった熱も消えていない。袋が尽きれば、また毒が回る。この森にいる限り、毒は息をするたびに入ってくる。
毒分解なら、身体の中で毒を変え続けられる。その代わりに、また何かを失う。
俺は胸元から記録帳を出した。血と泥で濡れた表紙を開く。最初のページには、ミアの字が残っていた。
『レイが忘れても、私が覚えている』
帰ると書いた文字もあった。指でなぞると、泥が乾いた紙の上に筋を残した。
毒が引いていくところを考えた。熱を出した夜、ミアが運んできた椀の湯気が浮かぶ。苦い草を煮た、薬湯だった。
何かを守るために、ここで死ぬわけにはいかない。守りたいものまで削る力に頼らなければ、生きて帰れない。選べるようになっても、選ぶ道は1つしか残っていなかった。
俺は記録帳を閉じ、胸元へ戻した。
「喰らう」
黒い煙が、傷口から入り込んだ。
胸の奥へ、冷たい塊が落ちる。次の瞬間、右脚、右手、喉、腹の中で別々に燃えていた熱が、1つに繋がった。骨の内側を細い刃で削られ、血に混ざったものを一滴ずつ選り分けられているような痛みだった。
冷たい文字が浮かぶ。
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魂喰が発動しました。
毒分解Lv.1を獲得しました。
忘却庫へ格納します。
技能枠:3/3
技能取得の代償を徴収します。
忘却深度:2 → 3
残存記憶率:99.5% → 99.0%
――感覚記憶の欠損を確認。
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文字が消えた。
毒は消えなかった。右脚の黒い腫れも、傷の奥の白い菌糸も残っている。左腿から流れる血も止まらず、左手は鎌を握った傷で開いていた。
ただ、胸まで上がっていた熱が、動きを変えた。一度に心臓へ集まるのではなく、身体の奥で少しずつ削られている。右手の紫色も、指先からゆっくり薄くなり始めた。
遅い。このまま待てば、毒が先に臓器を壊すか、毒分解が先に処理するか分からない。
俺は成体の死骸まで這った。鉄頭で開けた腹へ手を入れ、破れていない透明な袋を探す。奥に1つだけ、拳より少し小さな袋が残っていた。幼体のものより膜が厚い。
端を噛み切り、中の液を右脛の傷へ垂らす。残りを口へ含んだ。
味はなかった。舌が痺れているのか、液そのものが無味なのかは分からない。
喉を通ると、腹の内側で毒分解が強く動いた。熱が1度だけ跳ね上がり、俺は泥へ額をつけた。
息を吐く。もう一度、吸う。甘かった喉の奥が、わずかに薄くなっていた。
生きている。だが、まだ立てない。
上の菌木帯から、何かが死骸を嗅ぐ音がした。1つではない。
俺は成体の鎌へ手を伸ばした。
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